第21話「不意の出来事」
水曜日の放課後だった。
颯は部活の見学に行っていた。城島は生徒会の仕事があると言っていた。俺と澪は、たまたま同じ方向に帰ることになった。
いつも通りの帰り道だ。
澪が「今日の数学の課題、難しかったですね」と言った。俺が「そうか」と言った。澪が「解けましたか」と聞いた。俺が「解けた」と言った。澪が「どうやって解いたんですか」と聞いた。
そういう会話をしながら、学園を出た。
商店街に差し掛かったところだった。
---
澪が立ち止まった。
靴紐が解けていた。
「少し待ってください」澪がしゃがんで靴紐を結び始めた。
俺は立ち止まって待った。
通行人が俺たちの横を通り過ぎていく。人の流れが俺の背中を押す感じがした。
その時だった。
後ろから自転車が歩道に突っ込んできた。
「すみませーん、ブレーキが——!」
俺は咄嗟に動いた。
しゃがんでいる澪に向かって、前に踏み出した。
澪を庇うように、前に出た。
自転車は俺の横をすり抜けて止まった。
危なかった。
俺は息を吐いた。
だが。
「……あの」
澪の声がした。
俺は気づいた。
自転車を避けようとして踏み出した右足が、澪の両足の外側に着地していた。庇おうとして前に出た右手が、澪の頭の横の壁についていた。
澪はちょうど靴紐を結び終えて立ち上がったところだった。
壁と俺の腕の間に、澪が挟まれていた。
澪の顔が、俺の顔の、すぐ目の前にあった。
距離にして、十センチあるかないかだ。
澪が真っ赤な顔で俺を見上げていた。
眼鏡の奥の目が、限界まで見開かれていた。
「……くろ、せくん」
「……ああ」
「これは」
「自転車が来た」
「じ、自転車」
「庇おうとした」
「……そうですか」
「そうだ」
しばらく間があった。
誰も動かなかった。
通行人が俺たちの横を通り過ぎていく。何人かがちらりとこちらを見た。
俺は自分の状況を改めて確認した。
壁に手をついて、澪を壁との間に挟んでいる。
いわゆる、壁ドンというやつだ。
黒瀬煉の記憶が、その言葉を教えてくれた。
「……離れた方がいいな」
「そう、思います」澪が真っ赤な顔で言った。
俺は壁から手を離した。一歩下がった。
澪が壁から離れた。
俺たちの間に、適切な距離が戻った。
澪が視線を逸らした。耳が真っ赤だ。眼鏡を直す振りをして、顔を隠した。
「……自転車の人は」澪が絞り出すように言った。
俺は振り返った。
自転車の人間はすでに深々と頭を下げて、猛スピードで去っていった。
「行った」
「……そうですか」
「怪我はないか」
「な、ないです」
「よかった」
また間があった。
澪がじっと地面を見ていた。
颯がいたら今頃大騒ぎしていたと、俺は思った。いなくてよかった。
「歩くか」
「……はい」
二人で歩き出した。
澪はしばらく無言だった。
俺も何も言わなかった。
商店街を抜けて、大通りに出たところで、澪がようやく口を開いた。
「黒瀬くん」
「なんだ」
「今のは」澪が前を向いたまま言った。「本当に、自転車を避けようとしただけですか」
「そうだ」
「わざとじゃないですか」
「わざとじゃない」
澪がちらりと俺を見た。まだ耳が赤かった。
「……そうですか」
「そうだ」
「わかりました」澪が前を向いた。「信じます」
「ありがとう」
「お礼を言われることじゃないです」
いつもの言葉だった。
だが今日の「お礼を言われることじゃないです」は、いつもより声が少し小さかった。
---
大通りをしばらく歩いた。
澪の顔色が、ようやく普通に戻ってきた。
俺は前を向いて歩きながら、数学の課題の話に戻した。
「さっきの問題だが」
「え? あ、はい」澪が少し驚いた顔をした。「数学の話、続けますか」
「途中だった」
「……そうですね」澪が少し笑った。「えっと、どこまで話しましたか」
「解き方を聞かれた」
「そうでした」澪が鞄からノートを取り出した。「この問題なんですけど、私はここで詰まって——」
「見せろ」
俺はノートを受け取った。
問題を見た。
「ここで因数分解を使う。この式をこう変形して——」
「あ、なるほど」澪がノートを覗き込んだ。「そこで変形するんですね。私はてっきり——」
澪が俺の隣に並んで、ノートを一緒に見た。
距離が近い。
だが先ほどより近くはない。
普通の距離だ。
俺はそれを確認してから、数学の説明を続けた。
---
駅の手前で、俺たちは立ち止まった。
ここで道が分かれる。澪のアパートは東、俺のアパートは西だ。
澪がノートをしまいながら言った。
「ありがとうございました。数学、わかりました」
「大したことじゃない」
「大したことです」澪が俺を見た。「数学も——さっきのことも」
「さっきのことは事故だ」
「わかっています」澪が少し俯いた。「でも」
「でも?」
澪が顔を上げた。
まだ少しだけ、耳が赤かった。
「助けてもらいました。自転車から」澪が真っ直ぐ言った。「ありがとうございます」
「怪我がなければいい」
「お礼を言わせてください」
「……わかった」
「ありがとうございました」澪が丁寧に頭を下げた。
俺は少し考えた。
「どういたしまして」
澪が顔を上げた。
少し目を丸くしていた。
「……珍しいですね。ちゃんと返してくれた」
「そうか」
「いつもは『たまたまだ』とか『大したことじゃない』とか言って流すじゃないですか」
「今日は流せなかった」
「なぜですか」
俺は少し考えた。
「真剣に言ってくれたから」
澪がしばらく俺を見ていた。
それから、小さく笑った。
「……不器用ですね、やっぱり」
「そうかもしれない」
「でも」澪が鞄を持ち直した。「そういうところが——」
「そういうところが?」
澪が視線を逸らした。
「……なんでもないです。おやすみなさい」
澪が歩き出した。
俺は澪の背中を見送った。
東の方向に歩いていく澪の耳が、夕暮れの光の中で、まだ少し赤かった。
---
アパートに帰ってから、颯からメッセージが来ていた。
「今日どうだった? 澪ちゃんと帰ったんだろ?」
俺は少し考えてから返信した。
「何もなかった」
すぐに返ってきた。
「絶対嘘だ」
俺はスマホを置いた。
天井を見上げた。
壁ドン。
黒瀬煉の記憶によれば、あれは好意を持つ相手に対してやるものらしい。
俺は自転車を避けようとしただけだ。
だが澪の顔が、あの距離にあったのは、事実だった。
眼鏡の奥の目が限界まで見開かれて、真っ赤になっていたのも。
「まあ」
俺は天井を見たまま言った。
「なんとかなるだろ」
窓の外で、夜風が木々を揺らした。




