第20話「昔の俺を見ていた先祖」
翌日の朝、颯が教室に入ってきた瞬間に言った。
「おはよう、魔王」
俺は颯を見た。
「呼ぶな」
「だって街でそう呼ばれてるんだろ!」颯が自分の席に滑り込んだ。「なんか笑えるよな。煉が魔王って」
「笑えない」
「笑えるって。なあ澪ちゃん」
澪が颯を一瞥した。
「神崎くん、朝から騒がしいです」
「だって——」
「それと」澪が俺を見た。「黒瀬くんを魔王と呼ぶのはやめてください。本人が嫌がっています」
「なんで澪ちゃんが止めるんだ」
「うるさいからです」
「俺がうるさいのはいつものことだろ!」
澪がため息をついた。俺は窓の外を見た。
魔王。
昨日から、その言葉が頭にある。
田中老人の先祖が、魔王と呼ばれた存在を知っていた。
それが何を意味するのか。偶然か。それとも——
「煉」颯が俺の肩を叩いた。「考え込んでるな。昨日の爺さんのことか」
「ああ」
「気になるよな。先祖が魔王を知ってたって」颯が少し真剣な顔をした。「関係あると思うか」
「わからない。だが気になる」
澪が静かに言った。
「田中さんに話を聞きに行きますか」
「放課後、時間があれば」
「私も行きます」澪が真っ直ぐ俺を見た。「二人より三人の方がいい」
「俺も行く!」颯が手を上げた。
「お前は授業中に騒ぐな」
「全然関係ないだろ今の!」
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放課後、三人で商店街に向かった。
田中老人をどこで探すかという問題があったが、颯が「昨日いた場所の近くにいるんじゃないか」と言った。根拠のない話だったが、実際にそうだった。
商店街の入口近くのベンチに、田中老人が座っていた。
荷物を膝に置いて、日向ぼっこをしていた。俺たちを見て、目を細めた。
「おお、黒瀬くんじゃないか。それにお友達も」老人が手を振った。「来るような気がしておったよ」
「待っていたのか」
「待っていたわけじゃないが、来るかもしれないとは思っておった」老人が颯と澪を見た。「お友達を紹介してくれるかの」
「神崎颯です!」颯が元気よく言った。
「朝霧澪です」澪が丁寧に頭を下げた。
「ほっほっ、いい子たちじゃのう」老人が笑った。「さて、黒瀬くん。昨日の続きを聞きに来たんじゃろ」
「ああ」俺はベンチの横に立った。「魔王という名前をつけた理由を、もう少し詳しく聞きたい」
老人がしばらく俺を見た。
その目が、昨日と少し違った。何かを確かめるような目だ。
「座りなさい。少し長い話になる」
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老人の隣のベンチに颯と澪が座った。俺は立ったまま老人の前に立った。
田中老人は荷物を膝に置き直して、ゆっくりと話し始めた。
「わしの家系はな、代々この街で商売をしてきた。八十年前も、百年前も、二百年前も。この街に根を張って生きてきた家じゃ」
「長い家系だな」
「長いよ。だから色々と、伝わっておることがある」老人が遠くを見た。「言い伝えじゃ。代々の言い伝えが、田中の家には残っておる」
「言い伝え」
「ああ」老人が頷いた。「昔々、この街の近くに——いや、この世界そのものに、魔王と呼ばれた存在がいたという話じゃ」
颯が「ファンタジーみたいだな」と小声で言った。澪が「神崎くん、静かに」と言った。
「その魔王というのはな」老人が続けた。「悪い存在ではなかったと言い伝えられておる。強くて、恐ろしくて、誰も近づけない存在じゃったが——決して、理由なく人を傷つけることはしなかったと」
俺は黙っていた。
「ある時、その魔王は勇者と呼ばれる人間と戦った。長い長い戦いの末に、魔王は封印された。だが死んではいない。封印されたまま、今もどこかで眠っておると」
老人が俺を見た。
「わしの先祖はな、その魔王の戦いを近くで見ていた人間の末裔じゃ。だから言い伝えが残っておる」
「……その先祖は、魔王を直接見たのか」
「見たらしい」老人が静かに言った。「そして先祖はこう書き残しておる。魔王は恐ろしい存在じゃったが、その目は——誰よりも真っ直ぐだったと」
俺は少し目を細めた。
颯が俺を見ていた。澪も俺を見ていた。
「それでな」老人が続けた。「昨日、黒瀬くんが路地で男たちを追い払ったのを見た時、わしはふと思ったんじゃ。この目は——言い伝えで聞いた、あの魔王の目に似ておると」
「……目が?」
「そうじゃ」老人がにこりとした。「真っ直ぐで、飄々としていて、怒っているわけでもないのに、近づいてはいけないと本能が言う目じゃ。そういう目をしている人間は、滅多におらん。だから魔王と呼んだ」
しばらく沈黙が続いた。
颯が小声で「煉、大丈夫か」と言った。
俺は答えなかった。
田中老人の先祖が、魔王の戦いを目撃していた。
それはつまり——数百年前、俺が勇者と戦ったあの場所の近くに、この老人の先祖がいたということだ。
「田中さん」
「なんじゃ」
「その言い伝えに、他に何か書かれていないか。魔王について」
老人がしばらく考えた。
「そうじゃのう……」老人がゆっくりと言った。「一つだけ、変わったことが書かれておる」
「なんだ」
「魔王は封印される直前に、何かを願ったらしい」老人が俺を見た。「何を願ったかまでは書かれておらんが——先祖はその顔を見て、こう感じたと書いておる。あれは諦めの顔ではなかった、と」
「諦めの顔ではなかった」
「ああ」老人が頷いた。「むしろ——何かを確かめようとしている顔だったと。先祖はそう書き残しておる」
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俺は黙っていた。
諦めの顔ではなかった。
確かめようとしていた。
あの時の俺は——人間として生まれたらもっと強くなれたのかという問いを、確かめようとしていた。
田中老人の先祖は、その顔を見ていたのだ。
「黒瀬くん」老人が静かに言った。「一つだけ、聞いていいかの」
「どうぞ」
「その答えは、見つかりそうかの」
俺は老人を見た。
老人の目が、穏やかに俺を見ていた。
問いの意味を知っているわけではない。ただ、目の前の若者に何かを感じて、問いかけている目だ。
俺は少し考えた。
「……まだわからない」
「そうか」老人が頷いた。「じゃが」
「じゃが?」
「答えを探している目をしておる」老人がにこりとした。「それは先祖が書き残した、あの時の魔王の目と——同じじゃ」
俺はしばらく老人を見ていた。
何も言えなかった。
老人が立ち上がった。荷物を持って、よぼよぼと歩き出した。
「また会おうのう、黒瀬くん」老人が振り返らずに言った。「答えが見つかった時には、教えてくれると嬉しいわい」
老人の背中が、商店街の人ごみに消えた。
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しばらく、三人が黙っていた。
最初に口を開いたのは颯だった。
「……煉」
「なんだ」
「あの爺さんの言い伝え、本当だと思うか」
「さあな」
「煉はどう思う。魔王が本当にいたと思うか」
俺は少し考えた。
「いたんじゃないか」
「根拠は?」
「言い伝えが残っているということは、何かがあったということだ」
颯がうーんと唸った。
「なんか、ロマンがあるよな。数百年前の話が言い伝えとして残ってるって」颯が空を見た。「その魔王って、今どこにいるんだろうな」
「さあな」
「封印されたままかもしれないし、もうとっくに消えてるかもしれないし——もしかしたら転生してたりして」颯が笑った。「そんなことあったら面白いよな」
俺は颯を見た。
「面白いか」
「面白いだろ! 数百年前の魔王が現代に転生してたら、めちゃくちゃ強いじゃないか。しかも記憶とかそのままだったりして」颯がけらけら笑った。「そんなやつが身近にいたら、気づかないだろうなー」
澪が俺を見た。
俺は澪を見た。
澪の目が、何かを言いたそうにしていた。
俺は澪に向かって、小さく首を振った。
澪が小さく頷いた。
颯は空を見たまま笑い続けていた。
「いたら面白いよなー。魔王の転生者が身近にいたら」
「……そうだな」
「煉もそう思うだろ?」
「まあ」
俺は空を見上げた。
青い空が広がっていた。
「面白いかもしれない」
颯が「だろ!」と言った。澪がため息をついた。
俺は何も言わなかった。
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帰り道、颯が先に帰った。家の用事があると言っていた。
澪と二人で歩いた。
しばらく沈黙が続いた。
澪が口を開いた。
「黒瀬くん」
「なんだ」
「田中さんの言い伝え」澪が静かに言った。「魔王が封印される前に、何かを確かめようとしていたという話」
「ああ」
「……それは」澪が少し間を置いた。「あなたのことですか」
俺は歩きながら、少し考えた。
澪は勘がいい。冥焔会の封書の話から、ずっと何かを感じ取っていたのだろう。
「長い話だ」
「わかっています」澪が前を向いたまま言った。「急ぎません。でも——いつか、話してもらえますか」
「いつか」
「約束してください」
俺はしばらく澪を見た。
真っ直ぐな目だった。怖がっていない。逃げていない。ただ、知りたいと思っている目だ。
「……わかった」
「本当ですか」
「ああ。いつか話す」
澪が小さく頷いた。
「約束ですよ」
「約束だ」
二人分の足音が、夜の道に続いた。
空に星が出始めていた。
田中老人の先祖が見た、あの戦いの日の空も——こんな空だったのだろうか。
俺はそんなことを、少しだけ思った。
「まあ」
「また独り言ですか」澪が言った。
「ああ」
「何を言ったんですか」
「ここはあえて教えないことにしよう」
澪がため息をついた。
「……なんですかそれ」
「口癖だ」
「知っています」澪が少し笑った。「でも」
「でも?」
「嫌いじゃないです。その口癖」
俺は澪を見た。
澪は前を向いていた。耳が少し赤かった。
「……そうか」
「そうです」
二人でまた黙って歩いた。
夜風が吹いた。澪の髪が揺れた。
平和な夜だった。
だがこの平和が、いつまでも続かないことも——俺には、わかっていた。




