第19話「この街で魔王が生まれてしまったらしい」
月曜日の放課後だった。
澪との約束通り、三人で街ブラをする予定だった。颯が「どこ行く?」と朝からうるさかった。澪が「神崎くん、授業中に聞かないでください」と言っていた。
放課後、三人で学園を出た。
颯が「飯から行こうぜ」と言った。澪が「私は甘いものが食べたいです」と言った。颯が「じゃあパフェの店知ってる!」と言った。方向が決まった。
俺は二人の後ろを歩きながら、街の空気を感じていた。
平和だった。
冥焔会からの接触は、この一週間なかった。城島からも特に連絡はない。嵐の前の静けさかもしれないが、今は今で考える。
「煉、聞いてるか?」颯が振り返った。
「聞いている」
「どっちの道がいいと思う? 右が近いけど、左の方が面白い店がある」
「左でいい」
「よし、左だ!」颯が澪を振り返った。「澪ちゃんも左でいいか?」
「どちらでも」
「よし決まり!」
三人で左の道に進んだ。
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商店街に入ったところだった。
前方が騒がしかった。
人だかりができている。中心で何かが起きているらしく、人が集まったり離れたりしていた。
颯が「なんだ?」と首を伸ばした。
人垣の隙間から見えたのは、十代後半くらいの少年だった。制服姿だ。どこかの中学生だろう。その少年を、三人の男が取り囲んでいた。
「財布出せって言ってるだろ」男の一人が言った。「異能者に逆らったらどうなるかわかってんだろうな」
少年が震えながら鞄を抱えていた。
颯が眉をひそめた。
「……またか。この街ほんとに——」
「待ってろ」
俺は颯の前に出た。
「煉?」澪が声を上げた。
俺は人垣をかき分けて前に出た。
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男三人が俺を振り返った。
「なんだ、お前」
「通りすがりだ」俺は少年を見た。「怪我はないか」
少年が目を丸くしながら首を振った。
「よかった」俺は男たちに向き直った。「そいつを放せ」
「はあ? お前関係ないだろ。エンブレムもない無能者が——」
「そうだな」俺は男たちを眺めた。「まあ、関係ないっちゃ関係ない」
「じゃあ——」
「だが」俺は続けた。「目の前で中学生が囲まれてたら、関係なくても面倒見たくなる。人間ってそういうもんだろ」
男たちが顔を見合わせた。
「……殴っていいぞ」
俺はポケットに手を入れた。
「一発だけ。本気で来い」
男たちが今度こそ固まった。
「……お前、前にも同じこと言ってたやつだろ」後ろの男が呟いた。「聞いたことある。異能も使わずに——」
「知ってるのか」俺は少し意外に思った。「話が早い」
「や、やめとけ」後ろの男が他の二人に言った。「こいつ、ヤバいやつだ。街で噂になってる——」
「噂?」
俺は首を傾げた。
男たちが後退り始めた。
「に、逃げろ!」
三人が踵を返して走り去った。
俺は走り去る三人の背中を見送った。
人垣がざわめいた。
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少年が俺を見上げていた。
「あ、ありがとうございます……」少年が震える声で言った。「助けてもらって……」
「たまたまだ。怪我がないならよかった」
「あの……あなたって」少年がおずおずと聞いた。「もしかして、エンブレムないですよね」
「ない」
「無能者なのに、異能者の人たちを……」
「追い払っただけだ。手も出していない」
少年がしばらく俺を見ていた。
「……すごい人だ」少年が呟いた。
「そんなことはない」俺は踵を返した。「気をつけて帰れ」
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人垣が割れた。
その向こうに、見覚えのある顔があった。
老人だった。
先週、路地で男たちに囲まれていたあの老人だ。今日も同じ荷物を持って、商店街を歩いていたのだろう。
老人が俺を見て、目を細めた。
「おお、また兄ちゃんじゃないか」老人がよぼよぼと近づいてきた。「今日もやっておったのう」
「またたまたまだ」
「たまたまが続くのは、もうたまたまとは言わんよ」老人がにこりとした。「この一週間、兄ちゃんの話があちこちで出ておる。街の人間はみんな知っとるぞ」
「……俺の話が?」
「ああ」老人が頷いた。「エンブレムもない若い男が、異能者のチンピラを素手で成敗して回っているとな。誰も顔は知らんが、噂になっておる」
俺は少し黙った。
颯と澪が人垣の外から俺を見ていた。颯がにやにやしていた。澪が呆れた顔をしていた。
「困ったな」
「困ることはないじゃろ」老人が笑った。「街の人間は助かっておる。ありがたいことじゃ」
「目立ちたいわけじゃない」
「知っておるよ」老人が俺を見上げた。「じゃからこそ、余計に——みんなが気になっておるんじゃ」
老人が少し考えるように間を置いた。
「兄ちゃん、名前を聞いてもいいかの」
「黒瀬煉だ」
「黒瀬くんか」老人が頷いた。「わしは田中といいます。こう見えて、この商店街で八十年生きておる」
「八十年か。それは長い」
「長いよ」田中老人が笑った。「長く生きると、色々と見えてくるもんじゃ」
老人がしばらく俺を見ていた。
何かを確かめるような目だった。
「一つだけ聞いていいかの、黒瀬くん」
「どうぞ」
「怖くないかね」田中老人が静かに言った。「こうして何度も人助けをして、目立って、危ない目に遭うかもしれんのに」
「怖くはない」
「なぜじゃ」
「倒れる理由がないから」
老人がしばらく俺を見ていた。
それから、深く頷いた。
「……そうか」老人が小さく笑った。「そうじゃな。強い人間ってのは、そういうもんじゃ」
老人は俺に向かって深く頭を下げた。
「ありがとうのう、黒瀬くん。またいつか」
「またたまたま会ったら」
「ほっほっ」老人が笑いながら歩き出した。「たまたまが続くのは、もうたまたまとは言わんよ」
老人のよぼよぼとした背中が、人ごみに消えた。
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颯が飛んできた。
「煉! 今の見てたぞ! また無双してたじゃないか!」
「追い払っただけだ」
「十分すごい! しかも街で噂になってるって! お前、有名人じゃないか!」
「困った」
「困ることないだろ!」
澪が颯の隣に来た。
俺を見た。
「頬の調子は」澪が言った。
「治っている」
「そうですか」澪が小さくため息をついた。「昨日今日と、また何かありましたね」
「たまたまだ」
「……三回目のたまたまです」澪が眉を寄せた。「引き寄せているんじゃないですか」
「そうかもしれない」
「自覚があるなら——」
「やめる気はない」
澪がしばらく俺を見ていた。
「……わかっていました」澪が諦めたように言った。「でも怪我したら言ってください。確認します」
「ああ」
颯が「二人とも相変わらずだな」と言った。澪が「神崎くんは黙っていてください」と言った。颯が「はい」と答えた。
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パフェの店に向かいながら、颯が俺に聞いた。
「なあ煉、街で噂になってるって言ってたけど、どんな噂なんだろうな」
「知らない」
「気にならないのか」
「ならない」
「俺は気になる!」颯が足を速めた。「ちょっと聞いてみようぜ。あのカフェの店員さん、この辺の情報詳しそうだし」
「勝手にしろ」
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カフェに入った。
颯が店員に「この辺で噂の、チンピラを成敗してる人って知ってますか」と聞いた。
店員が「ああ、魔王さんですよね!」と即座に答えた。
三人が固まった。
「ま、魔王?」颯が聞き返した。
「そうなんです」店員が楽しそうに言った。「エンブレムなしで異能者を素手で吹っ飛ばす人がいるって話で、商店街の人たちの間でそう呼ばれてるんですよ。強すぎてまるで魔王みたいだって。田中のおじいさんが言い始めたらしくて」
俺は固まった。
「田中のじいさんが」
「そうみたいです。田中さん、先祖の話をよくするんですよ。昔、世界に魔王と呼ばれた存在がいたって。それくらい強いって意味で、そう呼んでるみたいです」
颯が俺を見た。
にやにやしていた。
「魔王、だってよ」
「……黙れ」
「いやー、煉が魔王とはな! なんか笑えるな!」
「颯」
「はい」
「笑うな」
「でも——」
「笑うな」
颯が必死に笑いをこらえていた。肩が震えていた。
澪が口元を手で覆っていた。笑っていないが、目が笑っていた。
俺は天井を見上げた。
魔王。
この街で、俺は魔王と呼ばれていた。
理由は知らずに。
本当の意味も知らずに。
ただ強すぎるからという理由で。
「まずい」
俺は小声で言った。
「何がまずいんだ」颯が笑いをこらえながら言った。
「色々と、まずい」
「ははは——いや、笑うなって言われてるから笑わないけど——」颯の肩が震えていた。「でもさ、煉が魔王って、なんか——」
「颯」
「すみません笑います!」
颯が爆笑した。
澪が「神崎くん」と言いながら、自分も笑っていた。
俺は二人を見た。
それから窓の外を見た。
商店街の人ごみが見えた。
あの老人が、俺に魔王という名前をつけた。先祖に魔王と呼ばれた存在がいたから。
田中老人の先祖に。
何か——引っかかるものがあった。
だがそれより今は。
「笑うな」
「「無理です」」
颯と澪の声が重なった。
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その日の夜。
アパートの部屋で、俺は天井を見ていた。
魔王。
この街で、俺はそう呼ばれている。
本当のことを知らずに、そう呼んでいる。
俺は黒剣を手に取った。
「笑えない話だな」
剣は答えない。
だが今夜だけは、この剣も少し笑っている気がした。
田中老人の先祖。魔王と呼ばれた存在を知っていた人間。
それが何を意味するのか。
俺にはまだわからない。
だがいつか——わかる日が来るかもしれない。
「まあ、なんとかなるだろ」
夜の部屋に、独り言が落ちた。




