第126話「覚醒した先輩」
翌日の昼休みだった。
屋上に向かおうとした時、颯が走ってきた。
尋常ではない顔をしていた。
笑っていた。だが笑いを抑えようとしていた。その結果、顔が変なことになっていた。
「煉、煉」颯が俺の袖を引いた。
「なんだ」
「里中先輩が」颯が言った。「里中先輩が、やばい」
「やばい、というのは」
「やばい」颯が繰り返した。「とにかく来て。俺だけじゃ無理だ」
---
颯に連れられて、三年生の廊下に向かった。
廊下に、人だかりができていた。
三年生が数人、里中の教室の扉の前に集まって、中を覗いていた。笑いを噛み殺しているやつもいれば、純粋に困惑しているやつもいた。
颯が人だかりをかき分けた。俺もついていった。
教室の中を見た。
---
里中がいた。
窓際に立っていた。
制服の第一ボタンを外していた。いつもの赤いポニーテールが、少し低い位置に変わっていた。目つきが、普段より鋭くなるよう意識されていた。
右腕を包帯で覆っていた。昨日の傷のせいで包帯をしていたのは知っていた。だが今日の包帯の巻き方が、昨日と違った。昨日は普通に巻いていた。今日は、手の甲まで覆うような巻き方になっていた。
里中が窓の外を見ながら、静かに言っていた。
「私の力は、まだ目覚めていない。この包帯は、力を封じるためのものだ」
誰かに向かって言っているわけではなかった。
独り言だった。
完全な、独り言だった。
---
颯が俺の袖をまた引いた。
「どうする」颯が小声で言った。
「どうするとは」
「どうにかしてあげなきゃいけないだろ」颯が言った。「でも俺、笑いそうで近づけない」
「笑うな」
「笑いたくて笑うんじゃない!! 出てくるんだ!!」颯が必死に小声で言った。
俺は教室に入った。
里中が窓の外を見ていた。俺が近づく気配に気づいて、振り返った。
「黒瀬か」里中が静かに言った。普段とは違う、低めに作った声だった。
「そうだ」
「何の用だ」
「昼飯を一緒に食おうと思った」
「……そうか」里中がまた窓の外を向いた。「私は今、一人でいたい時間だ」
「そうか」俺は里中の隣に立った。
---
しばらく、二人で窓の外を見ていた。
里中が右腕を持ち上げた。包帯を巻いた右腕を、窓の光に翳した。
「この力を、まだ誰にも見せるわけにはいかない」里中が静かに言った。「封じておかなければ、世界が——」
「里中」
「なんだ」
「花粉操作が封印されているのか」
里中が止まった。
「……そうだ」里中が言った。
「なぜ花粉を封印する必要がある」
「それは——」里中が少し間を置いた。「力が強くなりすぎたからだ。私が全力を出せば、この学園が——」
「里中」
「なんだ」
「昨日の怪我は大丈夫か」
里中がまた止まった。
少し長い沈黙があった。
里中が、包帯を巻いた右腕を見た。
「……痛くはない」里中が普通の声で言った。「もう塞がっている」
「そうか。よかった」
「心配したのか」
「している」
---
里中がしばらく俺を見ていた。
それから窓の外に向き直った。
また低い声に戻った。
「この痛みは、戒めだ。強くなるための、代償だ」
俺は少し考えた。
「そうかもしれない」
「……同意するのか」里中が少し予想外だという顔をした。
「強くなるには、何かを経験する必要がある。昨日のような経験は、そういうものだと思う」
里中がしばらく俺を見た。
それから、少し照れたような顔をした。
「……そうだ」里中が言った。低い声を維持しようとしていた。「この傷は、私の強さの証明だ」
「そうだな」
---
颯が教室の扉から顔だけ出していた。
城島もいつの間にかいた。颯の隣から、同じように顔だけ出していた。
澪が二人の後ろにいた。背伸びして中を覗いていた。
里中が颯たちに気づいた。
「なんだ、全員来たのか」里中が言った。
「心配したんですよ」颯が入ってきた。笑いをかろうじて抑えていた。「先輩、なんか雰囲気変わりましたね」
「気のせいだ」
「気のせいじゃないですよ」颯が言った。「声低くなってるし、包帯の巻き方変わってるし」
「これは——」里中が包帯を見た。「傷の具合で、こう巻いた方がいいと判断しただけだ」
「そうなんですか」
「そうだ」
颯がなんとか笑いを抑えながら頷いた。
---
城島が静かに里中の前に立った。
「里中先輩」
「なんだ」
「一つだけ確認させてください」城島が真剣な顔で言った。
「なんだ」
「その包帯の下に、何か特別なものは入っていますか」
里中が少し固まった。
「……何もない」
「そうですか」城島が頷いた。「ただの包帯ですね」
「そうだ、ただの包帯だ」
「わかりました」城島が言った。それ以上何も言わなかった。だが城島の口元が、かすかに動いていた。笑いを抑えているのが、目に見えた。
---
澪が里中の右腕を見た。
「包帯、ちゃんと巻けていますか」澪が言った。「傷口が圧迫されていなければいいですが」
「問題ない」
「見せてください」
「見せなくていい」
「傷の経過確認は重要です」澪が言った。「少しだけ」
里中がしぶしぶ右腕を差し出した。澪が包帯を少し確認した。
「丁寧に巻いてありますね」澪が言った。「これは、自分で巻いたんですか」
「そうだ」
「時間をかけて巻いたんですね」澪が静かに言った。目が全部わかっている目だった。
「傷の具合を考えてそうした」里中が言った。
「そうですか」澪が言った。「よく巻けていますよ」
里中が少し視線を逸らした。
---
颯が我慢の限界になったらしかった。
教室を出た。
廊下で「ぷっ」という声が聞こえた。それから颯の笑い声が廊下に漏れた。
里中が立ち上がった。
「颯!!!!」
「すみませんすみません!!! でも!!!」颯の声が廊下から聞こえた。「力を封じておかなければ世界が!! って先輩が言うとは思わなかったんです!!!」
「うるさい!!!!!」
里中が廊下に出た。颯を追いかけた。廊下を走る二人の足音が遠ざかっていった。
城島が静かに言った。
「里中先輩、楽しそうですね」
「そうだな」
「昨日あれだけのことがあって、今日あれだけ騒げるというのは——元気な証拠ですね」
「そうだな」俺は言った。「あれが里中だ」
「そうですね」城島が微かに笑った。「私は里中先輩のそういうところが、好きです」
---
昼休みの残り時間、全員で屋上に行った。
颯と里中がまだ言い合っていた。
「先輩、厨二病じゃないですか」颯が言った。
「厨二病ではない!!」里中が言った。「私は本当に力を持て余していて——」
「でも包帯の意味ないですよね、花粉操作に」
「うるさい!!!!」
澪が俺の隣に座った。
「颯くんが正論を言うのは珍しいですね」澪が静かに言った。
「そうだな」
「でも——里中先輩、楽しそうです」澪が言った。「本当に楽しそうに怒っているので」
「そうだな」
「昨日は怖かったですよ」澪が静かに続けた。「廃工場で、黒瀬くんと女の子が消えた時。でも——今日、こういう景色が見られるなら、悪くないです」
「そうだな」
「里中先輩が厨二病になっても、こうして騒げる日常は——悪くないですよね」
「悪くない」俺は言った。「むしろ」
「むしろ?」
「好きだと思う、こういう時間が」
澪がしばらく俺を見た。
それから、静かに笑った。
「……さらっと言いますね」
「本当のことだから言った」
「わかっています」澪が前を向いた。「私も、好きです。こういう時間が」
---
颯が里中を捕まえた。
捕まえたというより、里中が疲れて立ち止まったらしかった。
「わかった、わかった」颯が言った。「俺の言い方が悪かった。先輩が厨二病なんじゃなくて——かっこいい大人の雰囲気を出そうとしていたんですよね」
「そういうことだ」里中が息を整えながら言った。
「めちゃくちゃかっこよかったですよ」颯が言った。
「本当か」
「本当です」颯が笑いながら言った。「力を封じておかなければ世界が、ってセリフ、俺には絶対言えない。先輩だから言えるセリフです」
「……そうだろ」里中がぶっきらぼうに言った。「言いたくなったから言っただけだ」
「それでいいんですよ」颯が言った。「先輩らしいです」
里中がしばらく颯を見た。
「颯」
「はい」
「お前は——たまに、悔しいくらいいいことを言う」
颯が少し固まった。
「先輩にそう言ってもらえるのは、なんか複雑です」
「複雑でいい」里中が言った。「ありがとう」
「どういたしまして」
里中が「うるさい」と言った。颯が「褒めたのに」と言った。里中が「うるさい!!」と言った。
---
放課後だった。
帰り際に里中が俺の隣に来た。
「黒瀬」
「なんだ」
「昼の件は——あまり広めるな」里中が言った。
「広めない」
「本当か」
「本当だ」
里中がしばらく俺を見た。
「……お前、笑わなかったな」里中が言った。
「笑わなかった」
「なぜだ。颯は笑っていた」
「笑う理由がなかった」俺は言った。「昨日、三十一人を相手にして傷を負った人間が、翌日に包帯でかっこいい真似をしたくなる気持ちは——わかる気がしたから」
里中が少し止まった。
「……わかるのか」
「昨日は怖かっただろ」
「怖くなかった」里中が即座に言った。だが少し間があった。「……少しだけ、怖かった」
「それでいい」俺は言った。「怖かった後に、こういう気分になることもある」
里中がしばらく歩いた。
「黒瀬」
「なんだ」
「お前と話していると、なんか腹が立つな」
「なぜだ」
「正論しか言わないから」里中が言った。「でも——嫌いじゃない」
「そうか」
「そうだ」里中がポニーテールを直した。「明日からは普通の包帯にする」
「そうしろ」
「うるさい」
里中が歩いていった。
その背中が、夕暮れの廊下に消えた。
---
颯が後ろから来た。
「煉、里中先輩と何話してたんだ」
「昨日の話だ」
「昨日の?」颯が少し真剣な顔になった。「先輩、大丈夫だったか」
「大丈夫だ」俺は言った。「明日から普通の包帯にすると言っていた」
「普通に戻るのか」颯が言った。「なんか少し残念だな」
「残念なのか」
「だって先輩の厨二病、面白かったじゃないですか」颯が言った。「力を封じておかなければ世界が——って」
「颯」
「なんだ」
「里中の前では言うな」
「わかってます!!! わかってますよ!!!」颯が言った。「でも煉の前では言わせてくれ。煉も笑ってくれないし、俺一人で抱えるには面白すぎる」
「笑えないだけだ」
「笑えない?」
「笑いたいが、笑えない」
颯がしばらく俺を見た。
それから、爆笑した。
「煉が笑えないって言うの、初めて聞いた!!」
「うるさい」
「先輩の厨二病が面白すぎて笑えないのか!!」
「そういうことだ」
「最高だ今日!!!」
颯の笑い声が、夕暮れの廊下に響いた。




