第125話「余韻」
「光瑠」
俺は静かに言った。
白い空間に、その名前が溶けた。
光瑠が、目を丸くした。
潤んでいた目が、大きく開いた。
お兄ちゃんに呼んでもらっていた名前を、別の人間が呼んだ。それだけのことだった。それだけのことが、光瑠の中で何かを動かした。
「呼んでくれた」光瑠が言った。
「呼んだ」
「ちゃんと、呼んでくれた」
「そうだ」
光瑠がしばらく俺を見ていた。
泣いていた目が、もう涙を流していなかった。涙の跡が頬に残ったまま、光瑠は俺を見ていた。
それから——微笑んだ。
倉庫で見た笑顔でも、廃工場での感情のない顔でもなかった。
もっと、力の抜けた笑顔だった。
疲れ切った後に、やっと休めた時の笑顔だった。
「よかった」光瑠が小声で言った。
「何がよかった」
「名前で、呼んでもらえて」光瑠が言った。「お兄ちゃん以外の人に、呼んでもらえるとは思っていなかったから」
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白い光が、薄くなっていった。
空間が、揺れ始めていた。
光瑠の体が、傾いた。
俺は手を伸ばした。光瑠の体を支えた。
軽かった。
こんなに小さな体で、あれだけの力を持っていたのかと、改めて思った。アルティマの力を持ちながら、スラムで一人で生き延びてきた。全部一人で抱えて、壊されながらも消えなかった。
光瑠の目が、閉じかけていた。
「眠い」光瑠が言った。
「そうだろうな」
「起きたら——」光瑠が続けようとした。
「起きたら、また話せる」
「約束?」
「約束だ」
光瑠が頷いた。
それから、完全に目を閉じた。
白い光が、消えた。
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廃工場の天井が、戻ってきた。
夕暮れの光が、崩れた壁の穴から差し込んでいた。
床だった。
コンクリートの、冷たい床だった。
光瑠を抱えたまま、俺は床に膝をついていた。
光瑠は動かなかった。呼吸はある。眠っていた。消耗し切って、全てを出し切って、眠っていた。
廃工場の空気が、静かだった。
殺気がなかった。異能の気配がなかった。戦いの緊張が、完全に消えていた。
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澪が走ってきた。
「黒瀬くん!」澪が来て、俺と光瑠を見た。「その子は——」
「眠っている」俺は言った。「大丈夫だ」
澪が光瑠の顔を見た。表情を確認した。それから、小さく息を吐いた。
「よかった」澪が静かに言った。「何が起きたのか、わからなかった。急に世界から切り離されたような感覚があって——気づいたら、二人ともいなくなっていて」
「あの子の能力の影響だ。俺と二人だけの空間に飛ばされた」
「二人で、何を」
「話をした」
澪がしばらく俺を見た。
「そうですか」澪が静かに言った。「話せたんですね」
「ああ」
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澪が周囲を見渡した。
倒れた冥焔会の構成員が、まだそこにいた。研究者も、機材の残骸の近くに倒れていた。
それから澪が、廃工場の入口の方を見た。
「李さんは」澪が言った。
俺も気づいた。
李がいなかった。
廃工場の中を見渡した。外も見た。
どこにもいなかった。
気配もなかった。
いつの間に消えたのか、まったくわからなかった。あの白い空間から戻ってきた時には、もういなかった。
「消えていたのか」俺は言った。
「気づいたらいませんでした」澪が言った。「私がここに来た時には、もう」
李の気配が、何も残っていなかった。
足跡も、匂いも、存在の痕跡が何もなかった。
情報屋らしい消え方だと思った。
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倉石に連絡した。
三十分後に倉石が来た。颯も来た。城島も来た。里中も来た。
颯が廃工場に入ってきた瞬間、光瑠を抱えた俺を見て「煉、怪我は」と言った。
「大丈夫だ」
「その子は」
「眠っている。敵ではない」
「敵ではない?」颯が光瑠を見た。「どういうことだ、色々と」
「後で話す」
「そうか」颯が頷いた。「とりあえず、全員無事でよかった」
里中が「後輩、また無茶したのか」と言った。俺が「無茶ではなかった」と言った。里中が「どう見ても無茶だろ」と言った。
城島が光瑠を見て「この子を、どこかに運びますか」と静かに聞いた。
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光瑠が目を覚ましたのは、それから三時間後だった。
廃工場を出た後、近くの公園のベンチに移動していた。澪が持っていた救急セットで、光瑠の体の状態を確認していた。骨折はなかった。外傷は軽かった。緊急制御装置の影響による消耗が、一番の問題だったが、時間が解決するものだった。
光瑠が目を開いた。
最初に見たのが、俺の顔だったらしかった。
光瑠がしばらく俺を見た。
「黒瀬くん」光瑠が言った。
「ああ」
「夢じゃなかった」
「夢じゃない」
光瑠が体を起こした。周囲を見た。颯、澪、城島、里中、倉石。全員が光瑠を見ていた。
光瑠が少し固まった。
「怖くないよ」颯が穏やかに言った。「俺たち、敵じゃないから」
光瑠がしばらく颯を見た。それから、俺を見た。
「この人たちは」
「仲間だ」俺は言った。「信用していい」
光瑠がもう一度、全員を見た。
それから、小さく頷いた。
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夜になった。
公園に、静かな時間が流れた。
倉石が冥焔会の構成員の後処理を進めていた。颯が光瑠に向かって「何か食べられそうか」と聞いた。光瑠が「少しなら」と言った。颯が近くのコンビニに走った。
城島が澪に「大丈夫でしたか」と静かに聞いた。澪が「少し意識が飛びそうになりましたが、大丈夫でした」と答えた。里中が「私は入口にいたから、直撃は受けなかった」と言った。
颯が戻ってきた。おにぎりとお茶を、全員に配った。光瑠にも渡した。
光瑠がおにぎりを受け取った。しばらく見ていた。
「ありがとう」光瑠が言った。
「どういたしまして」颯が笑った。「口に合うといいけど」
光瑠が一口食べた。
それから、また泣いた。
さっきとは違う泣き方だった。白い空間で泣いていた時とも違う。静かに、ぽたぽたと、おにぎりを持ったまま泣いていた。
「どうした」俺は言った。
「美味しい」光瑠が言った。「久しぶりに、美味しいって思えた」
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深夜になった。
全員の処理が終わって、帰る時間が来た。
光瑠が俺の前に立った。
「黒瀬くん」
「なんだ」
「私、帰る場所がある」光瑠が言った。
「どこだ」
「お兄ちゃんと一緒に住んでいた場所」光瑠が静かに言った。「スラムにあった、小さな場所。今も残っているかどうかわからないけど——でも、帰りたい」
「一人で行くのか」
「うん」光瑠が頷いた。「一人で行く。一人でのんびりしたい。しばらく、静かにしていたい」
「そうか」
「もう誰かを道具にしたいとか、そういうことは思わない」光瑠が言った。「ただ——しばらく、一人で、お兄ちゃんのことを思い出しながら過ごしたい」
「わかった」
「また会える?」光瑠が言った。「またいつか」
「会える」
「約束?」
「約束だ」
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光瑠が歩き出した。
夜の道を、小さな背中が進んでいった。
颯が俺の隣に来た。
「あの子、一人で大丈夫か」
「大丈夫だ」俺は言った。「あの子は一人で生き延びてきた。それは変わらない」
「そうか」颯が光瑠の背中を見た。「でも——今度は一人じゃないよな。俺たちがいるから」
「そうだな」
光瑠の背中が、夜の道の角を曲がった。
消えた。
颯が「今日は色々あったな」と言った。里中が「全員無事でよかった」と言った。城島が「帰りましょう」と静かに言った。
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澪が俺の隣に来た。
「黒瀬くん」
「なんだ」
「あの子の名前を、聞きましたか」
「聞いた」
「なんというんですか」
「光瑠だ」俺は言った。
澪が静かに頷いた。
「いい名前ですね」澪が言った。
「そうだな」
「お兄さんが、つけた名前ですか」
「呼んでいた名前だ」俺は言った。「お兄さんに呼んでもらっていた、自分の名前だと言っていた」
澪がしばらく夜の道を見ていた。
「それを、あなたに教えてくれたんですね」澪が静かに言った。
「そうだ」
「よかったですね」澪が言った。「あの子に、名前を呼んでもらえる人間がいて」
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帰り道だった。
夜の街を歩きながら、俺は李のことを考えていた。
いつの間に消えたのか、わからなかった。
足跡も残っていなかった。声をかける間もなかった。礼を言う間もなかった。
これっきりだと言っていた。
それが本当だったのか、あるいはまた気まぐれに現れるのか、わからなかった。
李・ジェンウェイという人間が、何者なのか。
今日の戦いを見て、俺にはまだわからなかった。
ただ——今日、助けに来たことは事実だった。
光瑠が壊れる前の顔を取り戻せたことに、李の存在は確実に関わっていた。
スマホを取り出した。
李との連絡先を確認した。
メッセージを送った。
「ありがとう」
既読がついた。
返信はなかった。
それでよかった。
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アパートに帰った。
部屋に入って、電気をつけた。
いつもの部屋だ。何も変わっていない。
だが今日という一日は、色々なことがあった。
光瑠のことが、頭に残っていた。
あの白い空間で話した言葉が、頭に残っていた。
お兄ちゃんに呼んでもらっていた名前なの、と言った時の光瑠の顔が、残っていた。
光瑠は今頃、スラムに向かっているのかもしれない。小さな背中が、夜の道を一人で進んでいるのかもしれない。
だが大丈夫だ。
光瑠は強い。
あれほどのものを一人で抱えて、それでも消えなかった。兄の顔を覚えていた。名前を覚えていた。それだけで生き延びてきた。
これからは——違う理由で、生きていける。
俺はそう思った。
「まあ」
俺は天井を見上げた。
「なんとかなるだろ」
口癖が、夜の部屋に溶けた。
今日の口癖は、確信があった。




