第124話「二人だけの空間」
世界が、消えた。
一瞬だった。
廃工場の天井が消えた。床が消えた。李が消えた。澪が消えた。倒れた冥焔会の構成員が消えた。
気づいた時には、俺と少女だけがいた。
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場所がなかった。
地面はあった。踏みしめることができた。だが他には何もない。
白い空間だ。
白というより、光だった。どこから光が来るのかわからないい。影がなかった。方向がなかった。上も下も、遠くも近くも、境界がなかった。
ただ、俺と少女だけがいた。
少女が俺の前に立っていた。
目が変わっている。
感情のない目ではない。壊れた人格が表面を覆っていた目ではなかった。
その目に、涙が浮かんでいた。
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「ここは」
「私の能力の一番深いところだよ、お兄ちゃん」少女が静かに囁いた。声が、今まで聞いたどの声とも違っている。一週間前の倉庫の声でもなく、廃工場での感情のない声でもなく——もっと幼くて、もっと素直な声だ。「こんなつもりじゃなかったけど、暴走しちゃったや」
「暴走?」
「私の能力が最大になった時、自分と相手以外の全てを、世界から切り離してしまうの」少女が呟く。「まあ私も知らなかったんだけど.....それは置いといて。意識の中に閉じ込める、みたいな感じだね。李さんも、朝霧さんも、外にいる。でも今は届かない」
「しばらく、ここにいるということか」
「うん」少女が言った。「しばらくね」
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少女が地面に座り込む。
正確には、地面があると思っているから座れた、という感じだ。白い光の中に、存在する意志だけで立っていた。
少女が膝を抱える。
一週間前の倉庫で、積み上げた用具の上に座って足をぶらぶらさせていた時と、どこか重なる仕草だ。
俺も、少女の前に座る。
少女が俺を見た。
涙が一粒、頬を伝った。
感情のない顔で戦っていた少女が、今は泣いていた。泣いていることに、気づいていないような泣き方。
「怖かった、」少女が静かに言う。
「何が怖かったんだ」
「自分が、自分じゃなくなっていくのが.....止められなかった。見えてるのに、止められなかった。お兄ちゃんに死んでって言いたくなかったのに、言っちゃって。怖かった」
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俺は少女を見る。
「一つだけ聞いていいか」
「なに」
「冥焔会に近づいたのは、なぜだ」
少女がしばらく黙っていた。膝を抱えたまま、白い光の中を見ていた。
「お兄ちゃんのことを、もっと知りたかったから」少女が静かに言った。「冥焔会が黒瀬くんと関わっているって、調べてわかった。だから近づいたの。そうしたら——」
「捕まった」
「捕まった」少女が頷いた。「逃げようとしたけど、数が多くて。能力も、意識を封じる装置を使われて、制御できなくなって。そのまま、ずっと」
「どのくらいの間だ」
「わからない、感覚がなかったから。長かった気がするけど、短かった気もする。ずっと暗いところで、何かをされていて——気づいたら、今みたいになっていた」
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少女の目から、また涙が落ちた。
「黒瀬くんのこと、調べていた理由を聞いていいですか」少女が言う。敬語になっていた。廃工場での言葉遣いとは違っている。壊れる前の少女の言葉遣いだと、感じた。
「聞かせてくれ」
「お兄ちゃんに、似ていたから。顔とか声とかじゃなくて——在り方が、似ていた。どんな場所にいても、ただそこにいる、みたいな感じが。お兄ちゃんもそうだった。スラムにいても、病弱でも、ただそこにいてくれた。それが似ていたから」
「兄のことを話してくれるか」
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少女がしばらく黙っていた。
膝の上で手を組んだ。その手が、小さく震えていた。
「お兄ちゃんは、病弱だった。生まれつき体が弱くて、私が傍にいないと生きていけないくらい弱かった。でも——頭がよかったの。星の名前を知っていた。文字を教えてくれた。私が何かを覚えるたびに、すごいなって言ってくれるの」
「お前が外で食べ物を取ってきていたのか」
「どこで知ったの」
「感じたんだ。お前の動きを見ていてな」
少女が少し目を丸くした。それから、また前を向く。
「そうだよ。私が外に出て、お兄ちゃんが待っている。それが普通だった。寒い日も、お腹が空いた日も、誰かに怪我をさせられた日も——帰ったら、お兄ちゃんがいた。それだけで、よかった」
「冬に亡くなったのか」
少女が静かに頷く。
「高熱が続いて。私には、どうにもできなかった」少女の声が、細くなる。「ずっと手を握っていた。でも、冷たくなっていった。なのに.....私は.....泣けなかったの。.....泣き方を忘れていたから。だから——ただ、握り続けた」
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白い光の中に、沈黙があった。
俺は少女を見ている。
李に「お前の兄が最後に言った言葉を覚えているか」と聞かれた時、少女の全身が固まっていた。
「兄が最後に言ったことを、覚えているか」
少女が、俺を見る。
「覚えてるよ。覚えてるから——ずっと、消えなかった。冥焔会がどれだけ壊そうとしても、消えなかった」
「何と言ったんだ」
少女が少し間を置いた。
「お前は強いな、って。最後まで、そう言ってくれた」
その言葉が、白い空間に落ちた。
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「黒瀬くんに執着していた理由も、わかってる」少女が続けた。「お兄ちゃんがいなくなって、似ている人を見つけたら——手放したくなかった。死んでって言ったのも、死んだらずっと私のものでいられると思ったからなの......おかしいよね」
「おかしくない」
「おかしいよ」少女が言う。「死んでって言うのは、おかしい。わかってる。でも——冥焔会に壊されてから、止められなかった。本当はそんなこと言いたくなかった。ただ、傍にいてほしかっただけだったの」
「そうだったのか」
「そうだった」少女が頷いた。「お兄ちゃんみたいに、傍にいてくれる人がまた欲しかっただけだった。それだけだったのに.....」
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少女がまた涙を流した。
今度は拭かなかった。拭く仕草すら、忘れているような泣き方だ。
「怖かった」少女がもう一度言う。「壊されるのが怖かった。自分が自分じゃなくなるのが怖かった。でも一番怖かったのは——お兄ちゃんのことを忘れてしまうんじゃないかってこと」
「......忘れなかったか」
「忘れなかった。どれだけ壊されても、お兄ちゃんの顔だけは忘れない。それだけは消えなかった.....」
「それが、お前が消えなかった理由だ」
「そう......なのかな......?」
「そうだ。消えなかったから、今ここで話せている」
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少女がしばらく俺を見ていた。白い光が、二人を静かに包んでいる。少女の目が、何かが、少しずつ変わっていく。
怯えていた目が、少しずつ落ち着いていった。
泣いていた目が、少しずつ静かになっていった。
「黒瀬くん」少女は静かに言葉を溢す。
「なんだ」
「お兄ちゃんに似てるって言ったけど」少女が続けた。「少し違うことも、わかってる」
「何が違う」
「お兄ちゃんは、私を待っていてくれた。でも黒瀬くんは、私のところに来てくれた。廊下の角で怖い人たちを追い払って、体育館倉庫の扉を開けて、廃工場でも来てくれた。待つんじゃなくて、来てくれた」
「そうだな」
「それが——少し違う。でも、嫌いじゃない。むしろ」
少女が途中で止まった。少し照れたような顔をする。壊れる前の、本来の少女の顔だ。
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白い光が、少しずつ変化し始めていた。
空間が、終わりに近づいている感覚がある。
少女が俺を見た。
「お兄ちゃん.....」
「なんだ」
「一つだけ、お願いがあるの」
「言え」
「名前で呼んでほしい。今まで、名前を教えていなかったんだけど.....」
「教えてくれるのか」
「うん」少女が頷いた。「今なら、言える」
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少女が、白い光の中で、俺を真っ直ぐに見た。膝を抱えていた手を、解く。
背筋が、少しだけ伸びた。
泣いていた目が、まだ潤んでいたが——その奥に、確かな光があった。
スラムで星の名前を覚えて、兄に全部言ったら笑ってくれた、あの頃の光だった。
少女が、口を開いた。
「光瑠って呼んで」
白い空間に、その名前が落ちた。
「お兄ちゃんに呼んでもらってた名前なの」




