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第123話「解放」

 床に崩れた少女が、俺を見上げていた。

 その目に、何かがあった。


 感情のない目ではなかった。壊れた人格が表面を覆っていたが、その奥に——別の何かが、かすかに透けて見えた。


 一週間前の倉庫で見た目だ。


 好奇心と、独占欲と、その更に奥にある、何か柔らかいものを持った目だ。それが今、少女の目の奥の奥に、消えそうになりながら残っていた。


「李」


「なんや」


「こいつを殺さずに、元に戻す方法がある」


 李がしばらく俺を見た。


「元に戻す、というのは」


「冥焔会の実験で壊された人格を、解放する。終環ラスト・シグネットの力を使う。封印を解く力を、別の形で使えることは、黒剣奪還の時に確認した。封印されたものを解放する力が——壊された人格を解放することにも、使えるかもしれない」


「かもしれない、か」


「確信はない」


「正直やな」


「本当のことだからな、だからそう言った」


 李がサングラスの奥で、少し考えた。


「一つ聞く。その封印解放とやらを使うには、あの少女に触れる必要があるか」


「そうだ」


「今の状態のあの子に近づけると思うか」


---


 少女が立ち上がった。


 消耗し切っているはずだった。膝が震えていた。体が悲鳴を上げている。それでも立った。


 殺気が戻っていた。


 李との戦いで乱れていた殺気が、また形を整えている。だが——その殺気の中に、何かが混じっていた。


 歪みだ。


 均一ではなかった。整っているようで、内側から何かが乱していた。少女自身の中で、何かが争っているような歪みだった。


---


 暗かった。


 少女の意識の中は、暗かった。


 壁があった。


 自分が作ったのではない壁だ。冥焔会が実験で作り上げた壁だ。本来の自分と、植え付けられた人格の間に、分厚い壁があった。


 少女は壁の内側で、必死に叫んでいた。


 声が出なかった。


 体が動かなかった。


 自分の体なのに、自分の意志では動かせない。植え付けられた人格が、体の表面を完全に支配していた。


 でも——消えていなかった。


 冥焔会が実験で壊そうとした。何度も、何度も、壊そうとした。消そうとした。だが消えなかった。


 兄の顔が、頭の中にあったから。


 冬の夜に、狭い空で星を教えてくれた兄の顔が、消えなかったのだ。お前は強いな、と言ってくれた声が、消えなかった。


 それだけが、少女の本来の人格が消えなかった理由だった。


---


 外から、声が聞こえた。聞き覚えのある声。お兄ちゃんになってよ、と言った相手、黒瀬煉の声だ。


 その声が、少女の意識の中に届いてきた。少女は壁の内側で、声の方向に向かって歩みを進める。


 だが、壁が邪魔だった。


 植え付けられた人格が、壁を維持しようとしていた。少女は壁を叩き続ける。


 何度も、何度も、何回でも。手の感覚が、歌見によってなくなってしまうほどに。


---


 俺と李が、向き合う。


「協力してくれるか」俺は慎重にそう聞いた。


「そりゃ条件によるな」


「あの少女に触れるための隙を作ってくれ。それだけでいい」


 李がしばらく考えた。


「隙を作る、か」李が静かに言った。「そんな簡単に言ってくれるけどな、あれはバケモンや。あの時の一撃で決めときゃ楽できたのによ。まあ、あの少女の意識操作は、感情が乱れると精度が落ちる。黒瀬、さっきの戦いでそれをやってたな」


「そうだ」


「俺が感情を揺さぶる。黒瀬が触れる。単純やが——それが一番確実かもしれん」


「頼む」


「ただし.....触れた後にどうなるかは、俺には保証できへん。あの子の中に何があるかは、俺にはわからん」


「わかった」


「それでもやるか」


「まあなんとかして見せるさ」


---


 空気が、軋む。互いに一歩も動いていない。それなのに、地面だけが微かにひび割れていく。


殺気。


 いや、そんな生易しいものじゃない。“領域”そのものがぶつかり合っている。少女は、荒くなる呼吸を無理やり押さえ込んだ。


腕が痛む。

足も重い。

視界の端は、もう揺れている。


 だが――まだ折れていない。対する李は、変わらない。呼吸一つ乱れていない。構えすら曖昧。なのに、隙がない。まるでそこだけ“完成された戦場”みたいだった。


「……化け物が」


 少女が吐き捨てる。李は、わずかに目を細めた。


「今さら気づいたか?」

 

 その瞬間。少女の足元が、爆ぜた。


---


 踏み込む、一直線。だが、ただ速いだけじゃない。“見せている”。真正面から突っ込むと認識させて――途中で軸を消す。


急停止。


反転。


横回転。


 視線を置き去りにする三重加速。普通の相手なら、その時点で終わっている。


だが。


「悪くない」


 李は、振り向きもしなかった。背後。そこにいることを、最初から知っていたかのように.....


「――ッ!!」


 少女は、止まらない。読まれているなら、その先を壊す。拳を引かない。一撃目を“囮”にして、肘、膝、蹴りへ繋ぐ。打撃の連結。止まれば終わる。


だから、止めない。


 空気を裂く連撃が、暴風みたいに李へ叩き込まれる。だが.....当たらない。紙一重、ほんの数センチ。それだけで全部躱される。


「なんで……!」


 少女の声に焦りが混じる。見えている、確かに捉えている、なのに届かない。


「浅いからだ」


 李が前へ出た、その瞬間......空気が変わる。圧が、一段跳ね上がり、少女の本能が叫ぶ。


 危険。逃げろ、と。だが遅い。李はもう、懐にいる。


「戦いってのはな」


 掌が、少女の拳に触れる。たったそれだけ。


 なのに......


「――っ!?」


身体が崩れ、力が逃げる。重心が消える。自分の身体なのに、自分のものじゃないみたいに制御が効かない。


「力をぶつけるもんじゃない」


 李の声が、耳元で響く。次の瞬間、衝撃(インパクト)。少女の身体が、地面を滑る。コンクリートが砕け、砂煙が舞う。


「ぐっ……!」


 止まれない。無理やり腕を突き刺し、地面を削って減速する。腕から血が流れる。それでも.....


「……まだ」


 立つ、膝が笑う。視界が霞む。それでも、前を見る。その姿に――李が、わずかに笑った。


「いい目だ」


 初めてだった。感情が乗った声。


「壊れてねぇ」


---


 少女は、呼吸を整える。勝てないと分かっている。真正面からじゃ、届かない。なら......“壊す”。自分ごと、限界ごと、全部。


「……一回でいい」


 小さく呟く。


「一回、通ればいい」


 その瞬間......少女の空気が変わった。力任せじゃない。速度でもない、“捨てた”、防御を、退路を、次の一手を、全部......


「――来いよォ!!」


 叫びと同時に、踏み込む。速い。さっきまでとは比べ物にならない。限界を踏み越えた加速に筋肉が悲鳴を上げる。骨が軋む。それでも止まらない。李の視界へ、真正面から飛び込む。


「……なるほど」


 李の目が、細くなる。理解した。この少女は今、“次”を捨てている。この一瞬だけに、すべてを賭けている。


---


 拳が交差し、空気が裂ける。衝撃で地面が沈む。少女は、その瞬間を狙っていた。真正面のぶつかり合いじゃない。ぶつかる直前、視線、呼吸、筋肉の収縮。


 その全部から、“次の動き”を読む。


 そして.....李が動く、さらにその先。


「――そこだッ!!」


 少女の身体が、無理やり捻じ曲がる。普通なら折れている角度。だが、その代わりに拳が.....ついに。


 李の頬を掠めた。


---


 空気が止まる、ほんの一瞬。李の頬から、血が一筋流れた。少女の目が見開かれる。初めて届いた、確かに。


「……は、っ」


 ボロボロのまま笑う。それでも、笑った。


---


 だが......その瞬間。李の目が、静かに変わった。


「――よく届いた」


 低い声、その響きに。少女の本能が、凍る。まずい。理解した時にはもう遅い、李が一歩踏み込む。たったそれだけなのに、世界が、ひっくり返ったみたいだった。


「でも――」


 李の拳が、静かに構えられる。無駄のない軌道、逃げ場のない角度、完璧な一撃。


「ここから先は、“俺の間合い”だ」


 少女の視界が、揺れる、避けられない、防げない、終わる。そう理解した瞬間――李の拳が、振り抜かれた。



 消耗し切っているはずだった。膝が震えていた。体が悲鳴を上げている。それでも立った。


 殺気が戻っていた。


 李との戦いで乱れていた殺気が、また形を整えている。だが——その殺気の中に、何かが混じっていた。


 歪みだ。


 均一ではなかった。整っているようで、内側から何かが乱していた。少女自身の中で、何かが争っているような歪みだ。


 体力の限界が近い証拠だ。


---


 李が口を開く。


 少女の連打を躱しながら、静かに言った。


「お嬢ちゃん」


 少女が答えず、攻撃を続けた。


「お前の兄は、お前のことを何と呼んでいたんや」


 少女の右手が、止まる、コンマ一秒だった。だがその止まり方が、さっきまでとは違った。反射的に止まる。体が、意識より先に止まった。


「関係ない」少女が言った。声に、微かな乱れがあった。「そうか」李が躱しながら、穏やかに続けた。「でも——お前が今ここで戦っている理由に、関係があると俺は思っとる」


「関係ない!」


「叫ぶほど、関係があるんやろ」


---


 少女の動きが、止まった。


 完全に止まったわけではない。動こうとしていた。だが体が、意志通りに動かせていなかった。内側で、何かが起きている。少女の目が、揺れていた。


 感情のない目と、その奥にある別の目が表面で争っていた。


---


 少女の意識の中で、壁が揺れた。李の声が、届く。


 お前の兄は、お前のことを何と呼んでいたんや。


 その言葉が、壁の内側に届いた。少女は壁を叩いた。今まで以上の力で叩いた。壁が、軋む。


 植え付けられた人格が、壁を維持しようとする。少女は叩き続けた。兄の声が、また聞こえた気がする。


 お前は強いな。


 強いな。


 強いな。


 少女は壁を叩き続ける。


---


 俺は少女の斜め後ろに回り込んでいた。


 李が少女の正面で、声をかけ続けている。少女の意識が、李の言葉に引っ張られていた。無意識への干渉精度が、落ちているのだ。


 今だ。


 俺は右手の薬指に意識を向けると、終環ラスト・シグネットが、黒く光った。銃として顕現させるのではない。黒剣奪還の時と同じだ。封印を解く力を、面として展開する。解放の力を、掌全体に広げる。


 だが今回は、鎖に向けるのではない。人の中に閉じ込められた、本来の意識に向ける。


 指輪が、黒く脈打った。


「李」俺は静かに呟く。


「わかっとる」李が即座に答えた。


---


 李が動く。


 少女の正面に踏み込んだ。


 少女が李に向かった。


 李が少女の両腕を掴む。今日何度目かの、同じ動作だ。だが今回の李の目的は、制圧ではなかった。


 引き寄せた。


「お嬢ちゃん」李が少女の耳元で静かに言う。「お前の兄が最後に言った言葉、覚えているか」


---


 少女の体が、固まる。全身が、石になったように動かなくなった。


 意識操作が、完全に乱れた。


 殺気が、一瞬で霧散した。


---


 少女の意識の中で、壁が砕けた。砕けた瞬間、光が来た。外の光だった。自分の体の表面が、一瞬だけ、自分のものに戻った感覚があった。


 少女は叫ぶ。声が出るかどうかわからなかった.....それでも叫んだ。


---


 俺は少女の背後に手を伸ばした。


 李が引き寄せた少女の背中に、黒く光る掌を当てた。終環の力が、掌から溢れる。


「——封印、解放」


 声に出した。


 黒剣奪還の時と同じ言葉だ。だが今回の対象は、鎖ではなかった。人の中に閉じ込められた、本来の意識だ。


 冥焔会が実験で作り上げた壁を、封印と見なして、解放する。


 掌から放たれた力が、少女の体に触れた瞬間——


---


 何かが起きた、少女の体が震える。細かく、細かく、震えた。


 李が少女の腕を解放した。


 そして.....少女が俺の方を向く。


 その目が——

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