第122話「情報屋対覇級【アルティマ】.....!?」
膝をついていた少女が、立ち上がった。
緊急制御装置の影響で消耗しているはずだ。限界にも近いはずだが立った。両足で、地面を踏みしめて、立っている。
目が、変わっていた。
さっきまでの困惑が消え、代わりに戻ってきたのは感情のない目。壊れた人格が、また表面を覆っている。
少女が李を見た。
「もう一回」
「まだやるか」
「もう一回」少女が繰り返した。感情のない声だった。「あなたを理解するまで、終われない」
「理解しなくていい」
「理解したい」少女が言った。「理解して、私のものにする。あなたも、お兄ちゃんも、全部私のものにする」
李がサングラスの奥で、少し何かを考えた気がした。
「ええやろ」李が静かに言った。「もう一回、付き合ったる。第二ラウンドを楽しもうとするか」
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李の一言で、空気が切り替わった。先ほどまでの攻防が“前座”だったかのように。
重さが、違う。
圧が、違う。
“本気”という言葉ですら、足りない。
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少女は、静かに息を整え、呼吸を落とし鼓動を制御する。そして、視界を狭める。
――余計な情報は、切り捨てる。
「……来い」
短い挑発。だが、それは自分への命令でもあった。迷いを消すための。
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次の瞬間......世界が、縮まる。距離ではない。
“認識の間隔”が、一気に詰められる。
李が動いた。だが、それを“見た”者はいない。気づいた時には――
もう、そこにいる。
「……っ!」
少女の身体が、先に反応した。思考よりも速く。訓練で刻み込まれた危機回避。半歩だけ、軸をずらす。
その判断が――命を繋いだ。
風が、頬を裂く。あと数ミリ、それだけで、終わっていた。
「……いい反応やな」
李の声が、すぐ近くで響く。だが、少女は答えない。もう“聞いている余裕”はない。
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踏み込む、今度は少女から。だが直線ではない。“見せる動き”と“通す動き”を分離し、右肩をわずかに落とす。
そうすることで......視線を誘導する。その瞬間。逆側から踏み込む。
「――そこ」
短い言葉と同時に、膝が走る。急所。確実に崩せる一撃。だが――
「甘い」
李は、すでにそこにいない。いや、“いた”。だが、“ずらされている”。少女の攻撃は、確かに最適だった。だが、その“最適”を前提に、さらに先を取られている。
「お前は“答え”を出す」
李が、一歩だけ踏み込む。それだけで、距離が支配される。
「俺は、その前提を壊す」
その言葉と同時に。少女の足元が、崩れる。
「……!」
何もされていない。だが、立てない。重心が、消えている。さっきの一瞬。ほんのわずかに触れられたタイミングで――
“軸”をずらされていた。遅れて理解するが、もう遅い。
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だが。
「――まだ」
少女は、強引に踏み直す。崩れた体勢のまま、逆に回転。常識外の姿勢から、拳を叩き込む。
無理な軌道。
だが、だからこそ読めない。
「……ほう」
李の目が、わずかに細くなる。初めて、“読みを外した”。拳が、届く。衝撃。
確かな手応え。
空気が弾ける音。
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だが。
「それでいい」
李の声は、崩れていない体幹のまま、一歩踏み込む。衝撃を受けたはずの身体で。
いや、むしろそれを“利用して”。
「……っ!?」
少女の視界が、遅れる。さっきまで“当てた側”だったはずなのに。一瞬で、立場が逆転する。
「今のは正解だ」
李が、低く言う。
「だから――次で終わる」
その言葉。
確信。
宣言。
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空気が、凍り、少女は、理解する。ここから先は――一撃で終わる領域。逃げても無駄。受けても無駄。“選択”が存在しない。
「……なら」
少女は、構えをわずかに、ほんの少しだけ、解く。そして、隙を意図的に作る。
(誘う)
このままでは勝てない。
ならば――
“勝てる形”を、無理やり作る。
「来い」
再び、同じ言葉。だが今度は――覚悟が違う。
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李が、動く。今度は、はっきりと分かる。“終わらせに来ている”動き。
一切の無駄がない。
一切の余白がない。
完成された一歩。
そして――
「いいな、その目」
李の声が、すぐ目の前で響く。
「ようやく、“戦い”になった」
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その瞬間。少女の仕掛けが、発動する。崩したはずの軸。緩めたはずの構え。すべてが、反転する。
「――今だ!」
ゼロ距離。
避けられない間合い。
勝負の一点。
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だが。
「遅い」
李の声が、すべてを覆う。
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少女の視界が、止まる。理解する。届かない。届いていない。その一撃は――
もう、完成している。
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李の拳が。
“完璧な軌道”で、振り抜かれる直前だった。
「やめろ!!」
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俺の声が、廃工場に響いた。
李の右拳が、止まる。
コンマ一秒のところだった。
少女の顔の、コンマ一秒のところで、李の拳が止まった。李が振り返る。サングラスの奥の目が、俺を見た。俺は李と少女の間に、体を割り込ませていた。
いつの間に動いていたのか、自分でもわからなかった。体が勝手に動いていた。叫んで、走って、二人の間に入っていたのだ。
李が、俺を見た。
俺が、李を見た。
李の右拳が、まだ宙にあった。
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廃工場に、静寂が落ち、李がゆっくりと右拳を下ろした。少女が李に掴まれたまま、動かなかった。消耗し切って、抵抗する力も残っていないのだろう。
李が俺から視線を外し、少女を解放した。
少女が床に崩れ、膝をついた。手を床につく、それでも倒れはしなかった。それが、彼女なりの意思表明なのだ。
李が俺を見る。
「止めるんか」怒りではなかった。確認するような声。
「止める」
「なんでや」
「理由がある、こいつを殺す必要はない」
李がしばらく俺を見ていた。それから、サングラスを直した。
「……ええやろ」
李が廃工場の残骸に背中を預けて右手を見た。そして、握りしめていた拳を、ゆっくりと開いた。
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俺は李を見ていた。
あの一撃が、何だったのかは今もわからなかった。だが——あの拳が届いていたら、少女が無事ではなかったことは確かだ。
覇級を相手に接戦を演じて、最後に全力の一撃で仕留めようとした。異能者ではないと言っていた人間が。情報屋だと言っていた人間が。普通の人間だと言っていた人間が。
俺の体の奥に、また寒気が走った。敵意ではない。殺意でもない。
ただ——李・ジェンウェイという人間が、何者なのかが、全くわからないということへの、静かな寒気だった。




