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第121話「書き換えられる」

---


 間合いが、わずかに張り詰める。


 互いに動かない。だが、それは“止まっている”のではない。測っている。


 呼吸、重心、視線――

 すべてを読み合う静かな攻防。


 先に崩したのは、少女だった。


 一歩。それだけで空気が裂ける。あえて軌道を歪める踏み込み。視線を外し、意識をずらし、死角を作る。


「……ほう」


 李の口元が、わずかに緩む。評価が一段上がった証だった。次の瞬間、拳が迫る。


だが――


 それは“本命”ではない。当たる直前で、軌道が変わる。肘へ、膝へ、足払いへ。連続する選択。


 読み切れない変化。


「……っ」


 今度は、李の肩に“触れた”。完全な直撃ではない。だが、確かに捉えた感触。その一瞬。少女は、さらに踏み込む。


 逃がさない。


 捕まえた“ズレ”を、拡大する。


「いいな」


 李が、低く呟く。その声は、どこか楽しげだった。だが次の瞬間。流れが、反転する。触れていたはずの距離が、消える。


 近い。


 近すぎる。


「……!」


 少女の視界が、わずかに遅れる。李は、すでに懐に入り込んでいた。腕を取る。だが、力で引くわけではない。


“重心を盗む”。


 ほんのわずかな角度。それだけで、身体が言うことを聞かなくなる。


(崩される――)


 理解した時には遅い。足が地面を失う。


だが。


 少女は、そこで終わらない。崩れながら、逆に回転を利用する。無理やり体勢を作り直し、肘を叩き込む。


「……っ!」


 今度は、確かに入った。鈍い衝撃。空気が揺れる。


だが――


「浅い」


 李の声は、変わらない。ダメージが“通っていない”。受けたのではない。


“ずらした”。


 当たった瞬間に、力の方向を変えている。衝撃を殺し、流す。


「技はある。だが――」


 言葉の途中で。少女は、再び踏み込んでいた。止まらない。考えない。


 連撃。間断なく叩き込む。拳、蹴り、肘、膝。すべてを繋ぎ、隙を作らせない。


だがそれでも――


「足りないな」


 李は、すべてを“処理”していた。受けるでも、避けるでもない。最適な形で、すべてを無効化する。


 そして。


 ほんの一瞬。


 少女のリズムが、ズレる。疲労ではない。焦りでもない。ほんのわずかな、“意識の揺れ”。


 その瞬間。


 李は動いた。


 一歩。それだけで、すべてが終わる距離に入る。


「……くっ」


 少女が、咄嗟に腕を交差させる。防御。


 だが。


「遅い」


 短い一言。次の瞬間.....衝撃。


 身体が後方へ弾かれ、地面を滑る。数メートル。無理やり足を踏ん張り、止まる。呼吸が乱れる。


 だが、目は死んでいない。


「……まだやるか」


 李が、静かに問う。答えはない。必要もない。少女は、再び構える。


 その姿を見て――


 李は、ほんのわずかに頷いた。


「いいな」


 その声には、確かな“認識”があった。もはや、ただの相手ではない。“戦う価値のある存在”として。


---


 空気が、さらに重くなる。

 ここから先は――


 どちらかが崩れるまで、終わらない。


「なんで避けられるの」少女が言った。「なんで見えるの。私の能力は——」


「お前の能力は確かにすごい。意識から消える。無意識を操る。気配を断つ。普通の人間には完全に通用する能力や」


「じゃあなんで」


「俺が普通じゃないから」李が静かに息をつく。


---


 李が踏み込んだ。


 右手を少女の肩に向ける。少女が躱そうとした。李の右手の軌道が、少女が躱す方向に追いつき、触れた。


 少女が意識操作で李の体を止めようとした。李は、止まらない。少女の意識操作がは、李に機能しなかった。


「な——」


「意識を操る能力は、意識がある相手にしか効かない。俺が今、意識を使って動いていないから、意識を操られても止まらない」


 李の左手が、少女のもう片方の肩を掴み、両肩を掴んだ状態で、李が少女と向き合った。


 少女が全力で抵抗しようとした。だが李の力が、その全力を上回っていた。異能がない人間の力が、覇級(アルティマ)の少女の抵抗を抑えていた。


---


 少女の全身から、異能が放出された。緊急制御装置で出力が上がった異能が、李を中心に全方位に広がっている。


 李が両肩を掴んだまま、動じなかった。意識への干渉が、李に届いていない。少女が、李を見上げた。


 困惑と、恐怖と、それ以外の何かが混じった目だった。


「なんであなたなんかに、異能もない無能者に」


「あー、そうだな。異能がないは嘘やった」李が揶揄うように言った。「ごめんなあ。俺の体の9割は嘘でできてるんやで」


「じゃあ何の能力を持っているの」少女はそんな李の軽い冗談を華麗に無視して聞いた。


「ひ み つ !やな」


「教えて」


「教えませーん」


 少女が李を見ていた。


 異能を使い続けた反動が、少女の体に出始めていた。緊急制御装置で出力を強制的に上げた代償が、蓄積している。少女の体が、少しずつ限界に近づいていた。


---


 李が少女の両肩から手を離すと、少女が膝をついた。緊急制御装置の影響と、李との戦闘の消耗が重なった結果だった。


 少女が李を見上げる。


 感情のない目の奥に、さっきまでなかったものが残っていた。李と戦った痕跡が、少女の目に残っていた。


「まだやるか」李が静かに聞いた。


 少女が答えなかった。体が動かせない状態だったが、目は李をしっかりと捉えていた。


 李がサングラスを直し、少女に向かって静かに言う。


---


「お嬢ちゃん、一つだけ教えたろか」


 少女が黙って李を見ていた。


「この世界の全ての情報は、繋がっている。お前がどれだけ情報を消しても、消した痕跡もまた、情報や。完全に消えるものなんて、この世に一つもない。今のご時世なんでも“書き換えられちゃう”からな」


「それが——何」


「お前のことも、全部残っている。お前が消した記録も、お前が壊したものも、お前が失ったものも——全部、どこかに残っている」


 少女の目が、揺れた。


「俺はその情報の海で生きている人間や」李が続けて言う。「だから言える。お前が消したくても消えないものが、この世界にはある」


 李が少女から視線を外した。俺の方を向いた。サングラスの奥の目が、俺を捉えている。それから李は、廃工場の外の空を見上げて、静かに呟く。


「消えないものが何かは——自分で見つけろ。それが生きるってことや」


---


 廃工場に、静寂が落ちた。


 少女が膝をついたまま、動かなかった。


 俺は李を見ていた。


 異能者ではない、と言っていた人間が、覇級の少女を圧倒した。


 意識操作が効かず、気配がない相手の動きを読んでいた。動きが見えなかった。予測できなかった。俺の気配読みでも、李の次の動きを掴めない。


 体に、僅かな感覚が走った。寒気に似た何かだった。敵意や殺意ではない。李は今日、俺を助けに来た。それは間違いない。


 だが——この人間が、普通の人間ではないことは確かだった。情報屋と言っていた。普通の人間と言っていた。


 普通の人間が、こんな動きはできない。


 李が何者なのか、俺にはわからなかった。


 わからないということが——俺に、静かな寒気を感じさせた。

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