第120話「情報屋の本当の仕事」
李が壁の縁から飛び降りてきた。にも関わらず.....
着地音がなかった。
二階分はある高さから飛び降りたのに、まるで一段の段差を降りたような、そういったように見える着地だった。膝も曲げる動作も衝撃を殺す動作も一切ない。
俺は体を起こした。
全身の軋みはまだあったが、動ける。壁を突き抜けた時の衝撃が、少しずつ引いていた。
「お前が来るとは思っていなかった」
「俺もそう思っとったよ」李がサングラスを直しながら言った。「これっきりって言ったし、そのつもりやった」
「状況が変わった、と言っていたな」
「そうや」李が廃工場の壁の穴を見た。穴の向こうに、少女がいる。「あのボタンの話を先にしよか」
「頼む」
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李が懐からスマホを取り出した。
「黒瀬、あの研究者が押したボタン——あれは俺が調べていた案件と繋がっていた」李が画面を操作しながら言う。「あの少女のことを調べていた時、冥焔会が少女に施した実験の記録の断片を、物理的な痕跡から拾えた。全部じゃない。断片や。でも——その断片の中に、一つだけ気になる記述があった」
「なんと書かれていた」
「緊急制御装置、と書かれとった」李が静かに言葉を吐いた。「少女の異能が暴走した時、あるいは少女が制御不能になった時に使う装置や。少女の意識操作の能力に直接干渉して、出力を強制的に最大まで引き上げる」
「出力を最大まで引き上げる?」俺は疑問を口にした。「それは——少女を強化する装置ということか」
「強化、というより暴走に近い」李が静かに呟く。「冥焔会の連中は、あの少女を道具として使いたかった。でも道具が言うことを聞かなくなった時のために、最後の手段を用意していた。強制的に出力を上げることで、周囲の全員の意識を同時に操る。制御は利かなくなるが、破壊力だけは上がる」
「つまり——さっきのは」
「あのボタンが押された瞬間に、少女の無意識操作が一瞬だけ爆発的に放出された。黒瀬、お前が吹き飛んだ理由は、少女の拳がお前に向かったからではない。少女の意識操作が出力過多になった瞬間に、お前の脳が無意識に体を全力で遠ざけようとした。自分の意思じゃない。少女の意識操作に引っ張られて、お前自身が自分を吹き飛ばした」
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俺はその言葉の意味を、頭の中で整理した。
少女の意識操作に引っ張られて、俺自身が自分を吹き飛ばした。
「俺自身が、自分に攻撃したということか」
「そういうことや」李が頷いた。「俺もあんまわかってないことやから言葉にするのはむずいが、反射と防御反応のかけ合わせに近いな。意識を操る能力が、あの瞬間だけ桁が変わった。本人の制御も利いていない。冥焔会の研究者が押したボタンが、あの少女の能力を強制起動した。その余波で、近くにいた黒瀬の意識が干渉を受けた」
「なぜお前がここに来た」
「このボタンの存在を知った時に、嫌な予感がしたから来たんや」李がスマホを仕舞った。「これっきりと言ったが——あのボタンが押される可能性がある場所に、黒瀬がいると知っていて何もしないのは、俺のプライドが許さんかった」
「プライドか」
「情報屋のプライドや。掴んだ情報を無駄にしない。それが俺の仕事や」李が間を置いて言った。
「それに......大事な顧客に死なれちゃ困るからな」
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廃工場の穴の向こうから、気配がした。
少女の気配だ。
ないはずの気配が、今はある。緊急制御装置が起動した影響で、少女の能力の制御が乱れているのかもしれない。気配を消す精度が落ちていた。
少女が穴に向かって歩いてくる気配が、伝わってきた。
「李」俺は言った。
「なんや」
「お前は戦えるのか。異能者ではないと言っていたが」
李がサングラスをずらした。その下の鋭い目が、俺を見た。
「まあ心配するな。俺は異能者じゃないが——戦えないとは言っていないぞ」
「どういう意味だ」
「ゆーっくり腰でも据えながら見ときいや」
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少女が穴から外に出てきた。
緊急制御装置が起動した影響が、少女の体に出ていた。目の焦点が、少し揺れていた。制御が乱れている。だが殺気は消えていない。出力が上がった分、殺気の密度は上がっていた。
少女が俺を見た。
それから——李を見た。
「誰」少女が聞いた。
「通りすがりのさすらい人やでー」李が答えた。「うちの煉ちゃんがお世話になってます。ぜひ、俺とも仲良くしてえや」
「気持ち悪い。関係ない人は、どいて」
「ひどいなぁ。そんなこと言われちゃったら、よりどきたくなくなるやんけ」
少女が李を見た。異能者の気配がない人間が、自分の前に立っている。その意味を、少女が測っているのがわかった。
「異能もないくせに、言葉通りの“無能者”め」少女が皮肉混じりに言葉をこぼす。「邪魔」
「邪魔でも、どきはせえへんで。俺の案件に、お前が関係しちまった。それだけやからな」
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少女が李に向かって動いた。
速かった。
緊急制御装置の影響で、出力が上がっていた。さっきより速く、さっきより重い。
李が動いた。
俺は目で追えなかった。
「.......っ!?速すぎる」煉はいつの間にかそんな驚きの言葉を口にしていた。
「おおきにー」
李がそう軽く煉に返していると、少女の右手が向かってきた。その瞬間、李がいなかった。
右でも左でも後ろでもなく——少女の斜め前、攻撃の軌道の外側に、最初からいたかのように立っていた。
移動した過程が、見えなかった。
少女が振り返った。
李がまた動いた。
今度は少女の後ろに回っていた。
何をしているのかわからない。どんな動作で移動したのかわからなかった。ただ、気づいた時には位置が変わっている。
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少女が李への意識操作を試みて、無意識を読もうとした。
だが——李が、また動く。
一歩、また一歩と最小限の動きで。
少女が意識操作を展開した瞬間、李はすでに別の位置にいる。読んだ無意識の通りに体が動く前に、李の位置が変わっていた。
「読めない」初めての経験に、少女の声に困惑が混じった。
「そうやろなあ」李が少女の斜め後ろから囁くように言った。
「なんで読めないの。無意識が——」
「俺の無意識を読んでも、意味なんてないよー」李が穏やかに言葉を漏らした。「俺が次にどこにいるかは、俺自身も決めていないから」
「どういうこと」
「考えてから動いていないんだよね。考える前に動いてるの。無意識すら介在しない。体が勝手に動く。だから読めないって訳」




