第119話「状況が変わった」
少女の意識が戻ってきて、朦朧としていた目が焦点を取り戻した。
震えていた右手が、止まった。
少女が俺を見た。
さっきまでの、泣いているような笑っているような不安定な表情が、消えていた。代わりに戻ってきたのは——感情のない顔だった。壊れた後の、温度のない顔だ。
「お兄ちゃんの話は、聞かせない」
少女が静かに言った瞬間、殺気がまた廃工場を満たした。
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少女が動いた。
俺は立ち上がり、黒剣を構えた。
さっきと同じ速度だった。同じように、俺の無意識を読んで、動きを先読みしてくる。
だが——俺は少し考えていた。
さっきの戦いで、一つだけわかったことがある。
少女が俺の無意識を読む時、少女の意識はそこに集中している。読む、という行為には、何かしらの集中が必要なはずだ。完全に無意識で全方位を読めるなら、さっきあの一瞬、少女の目が揺れることはなかった。
俺の問いかけが、少女の集中を乱した。
感情に揺さぶりをかけた瞬間、少女の無意識への干渉精度が落ちた。
なら——
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少女の右手が来た。
俺は躱さなかった。
受けた。
左腕で少女の手首を受け止めると、痺れが来た。左腕が止まったが、今度は覚悟していた分体が崩れなかった。
その一瞬に、俺は少女の顔を見て言った。
「お前の兄は、星の名前を知っていたか」
少女の動きが、一瞬止まった。
コンマ一秒の停止だった。無意識への干渉が、揺れた。その隙間に、俺は右の掌底を少女の肩に打った。
当たった。
少女が一歩後退した。今日の戦いで、少女が後退したのは初めてだった。
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少女が俺を見た。
目の奥で、何かが揺れた。
「なんで」
「なんでか知りたいなら、答えてくれ」
「答えない」
「そうか」
俺は再び踏み込んだ。
今度は声をかけながら動いた。
「お前がスラムにいた時、誰かがいたか」
少女の右手が来たとき、俺は左に動いた。少女の手がわずかに遅れたため、躱し切ることができた。
「一緒にいた人間は誰だ」
少女の左手が来た。俺は黒剣の腹で弾いた。完全にではなかったが、方向を逸らした。少女の左手が俺の脇腹を掠めたものの、直撃ではなかった。
「冬は寒かったか」
「——っ」
少女が、声にならない声を上げた。感情のない少女が、声を上げた。
その一瞬、殺気が揺れた。
俺は一気に踏み込んだ。黒剣を鞘に収めたまま、右の肘を少女の胸骨に打った。
少女が吹き飛んだ。二メートルほど後退して、廃工場の残骸に背中をぶつけた。
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少女が立ち上がった。
膝をついていない。すぐに立った。体力は、まだある。だが——目が変わっていた。
感情のない目の中に、さっきまでなかったものが混じっていた。混乱だ。計算が乱れている目だ。俺の無意識を読む精度が、落ちている。
感情を揺さぶることで、少女の集中を乱せる。その仮説が、確信に変わっていた。
「教えてくれ」俺は少女に向かって言いながら、間合いを詰めた。「お前の兄が好きだったものは何だ」
「関係ない」
「関係ある」
「関係ない!!!」
少女が全力で来た。
さっきより速かった。感情が乱れた分、制御が効かなくなって速度だけが上がっていた。
俺は躱した。
今度は完全に躱せたため、少女の手が空を切った。振り返りながら少女の背後を取り、右の肘を少女の肩甲骨の間に打った。
「当たった」俺は静かに言った。
少女が前によろめいた。
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体勢を立て直した少女が、俺を振り返った。その顔に、感情があった。怒りでも悲しみでもない。
もっと根本的な何かだ。ぐしゃぐしゃに混ざった感情が、表面に出てきていた。壊れた人格の奥底に残っていた何かが、俺の問いかけによって引きずり出されていた。
「なんで.....?なんで聞くの」
「知りたいからだ」
「知ってどうするの」
「知った上で、もう一度聞く。お兄ちゃんになってよ、と言ったな」
「言った」
「それが本当の望みなら——」
「うるさい!!」
少女が叫んだ。
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今日初めて、少女が叫んだ。
その叫びと同時に、少女の全身から異能が放出された。気配を消す力ではなく、意識に干渉する力が、全方位に広がった。廃工場の空気が、歪んだ気がした。
澪が廃工場の入口で声を上げた。気づいてみれば澪の方向から、何かが崩れる音がした。意識への干渉が、澪にも届いたのかもしれない。
俺は少女に向かって走った。
少女の力が、全方位に放出されている今が、逆に隙だ。全方位に力を使っている間、俺の無意識だけを読む精度が落ちる。
距離を詰めた。
少女が気づいた。
右手を俺に向けた。
俺は——
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その時だった。
廃工場の奥、研究機材の残骸の陰で、何かが動いた。俺の意識の端が、それを捉えた。
人だ。
倒れていた冥焔会の人間の中の一人の、小さな人影が床の端で動いている。白衣を着ていた。研究者だ。冥焔会の研究者が、戦闘に巻き込まれて気を失っていたのか、あるいは意図的に隠れていたのか
——その人影が、ゆっくりと目を開いた。
俺は少女との間合いを詰めながら、その研究者を視界の端に入れる。研究者が、床に転がっていた何かに手を伸ばした。
小さな機器だ。
ボタンが一つついている、ただの機械だ。されど、その機械一つでこの戦況をかき乱すことができることが容易に想像できた。
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研究者の指が、ボタンに触れた。俺は少女との間合いをあと一歩詰めようとした。ここで当てれば、勝てる。確実に勝てる。
そう思った。
確信があった。
感情を揺さぶる方法がわかった。無意識を読む精度を落とす方法がわかった。あと一撃当てれば、少女の集中が完全に乱れる。
このままいけば勝てるはず.......だった。
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ボタンが、押された。
その瞬間——
俺は視線を少女に戻そうとした。その一瞬すら、与えられなかった。
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何かが来た。方向がわからなかった。速度もわからなかった。何が来たのかも、わからなかった。
気づいた時には、俺は宙にいて、廃工場の壁が、目の前にあった。次の瞬間、壁を突き抜けていた。コンクリートの壁が、紙のように砕け、外の空気が来た。
地面に叩きつけられて転がっていき、止まった。
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何が起きたのか、理解できなかった。
空を見ていた。
夕暮れの空だった。
橙色の光が、視界を満たしていた。
体中が、軋んでいた。
右肩に、強い衝撃の残滓があった。あるいは左側面か。どこに当たったのか、感覚が混乱していた。壁を突き抜けた時の衝撃が、全身に分散していた。
起き上がろうとした。
体が動いた。折れてはいない。内臓も無事だ。だが、一瞬だけ立ち上がれなかった。
何が来たのか。
あの一瞬に何が起きたのか。
少女の攻撃ではない。あの速度と規模は、少女の体格では出せない。研究者がボタンを押した。ボタンが何かを起動した。その何かが、俺を壁の外に吹き飛ばした。
それだけは、わかった。だがそれ以上が、わからなかった。煉は諦めたように虚空に向かって囁いた。
「これは......なんとかならないかもしれないなあ」
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上から、声がかかった。
「よう」
聞いたことのある声だった。
俺は空を見上げた。
廃工場の壁の上、崩れた壁の縁に、一人の人影があった。
細身。ロン毛を後ろで一つに結んでいる。サングラス。細いピアス。首元のネックレス。李・ジェンウェイだった。
壁の上から、崩れたコンクリートの縁に立って俺を見下ろしていて、サングラスの奥の目がこちらを見ていた。
李が、少し間を置いてから言った。
「状況が変わった」
李がサングラスを少しだけずらすと、その下の鋭い目が俺を、そして廃工場の内側を見た。
「手伝ってやるよ」




