第118話「お前さえいれば.....」
しかし、その約束が、果たされることはなかった。冬が終わる前のことだ。兄の体が、限界を迎えた。
三日間、意識が戻らなかった。
少女は兄の横から離れなかった。手を握り続けた。食べなかった。眠らなかった。ただ、手を握り続けた。
四日目の朝に、兄が目を覚ました。
「また心配かけてしまったな」兄が言った。声が本当に生きているのかと、疑問を持つほどに細かった。
「心配なんかしてないもん」少女は嘘をついた。兄に気負わせないための、優しい嘘というやつだ。
「そうか」兄が笑った。「強いな、お前は」
「お兄ちゃんが先に強くなってよ」
「俺は——」兄が少し間を置いた。「俺は、もうあまり強くなれないかもしれないな」諦めたような表情を浮かべながら、静かに虚空に向かって呟いた。
「そんなことない」少女はそんな兄の一言を逃しはしなかった。決して、諦めてなどいないのだ。
「でも——お前が強くなってくれれば、それでいい」兄が少女の手を握った。「お前が強くなれば、二人で生きていける。俺はお前がいれば——」
兄の言葉が、途中で止まった。
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少女は兄の手が、少しずつ冷たくなっていくのを感じた。朝の光が、狭い窓から差し込んでいた。
少女は兄の手を握り続けた。
泣かなかった。
泣けなかった。
長い時間をかけて、泣くことを忘れていた少女には、もう涙が出なかった。
だから——ただ、握り続けた。
冷たくなっていく手を、握り続けた。
いつまでも。
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意識が、更に遠くなっていった。
少女の記憶の中で場面が切り替わり、次の場面が流れた。
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兄が死んで、どのくらいの時間が経ったのかは、わからなかった。少女はスラムを出た。
行くあてはなかったが、ただ歩いた。
歩きながら、調べるということを覚えた。
この世界に、異能者という存在がいることを知った。自分がその異能者だということも自然に理解していった。
自分が覇級いう階位に到達できる可能性があることに気づいたとき、久しぶりに感情が目を出し、彼女の中で叫んだ。
かっこいい.....
覇級という言葉が、彼女に取ってはあまりにかっこよかった。正しくはその地位に立つ者に対しての感情だ。
それだけの理由で、少女は強くなることを決めた。
兄のために、ではなかった。
兄のためなら、もっと早く強くなっていた。
ただ——強くなれる方向に、歩き続けた。
泣けなかったから。
立ち止まれなかったから。
前にしか、進めなかったから。
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そしてある日、少女は一人の人間のことを知った。
黒瀬煉。
無能者でありながら、Sランクになった異能者。転生した存在。数百年分の経験を持つ人間。魔王の転生体であるという噂すらあった。
調べれば調べるほど、面白かった。
もっと知りたかった。全部知りたくなった。自分のものにしたかった。
何より——兄に似ていた。
顔でも声でもなかった。
何かが、似ていた。
少女にはうまく言葉にできなかったが、ただそこにいる、という在り方が似ていた。
そして、少女は黒瀬煉に近づくことを決めた。
冥焔会という組織が、黒瀬煉に関わっていることも、後に知った。
少女は冥焔会に近づいた。
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だがその先に待っていたのは、少女が想定していたものとは全く違っていた。
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暗いどこかの部屋であり、壁が冷たかった。いつのまにか、何かに縛られていて.....
動けなかった。
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冥焔会の中に、少女を欲しがる人間たちがいた。
覇級の異能を、自分たちのために使おうと考えた人間たちだ。少女が近づいた時、彼らは待っていたかのように少女を囲んだ。
少女は異能を発動し、気配を消した。だが——異能で気配を感知するのではなく、物理的に包囲する方法で囲んでいた。気配を消しても、逃げ場がなかった。
その上、強者が複数いた。そう、その時、その場には橘将望がいたのだ。
少女は戦った。
だが数が多すぎた。何より、橘を攻略する手立ては、スラムあがりの雑に鍛えただけの彼女にはなかった。
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実験という名前で、色々なことをされた。少女の意識に、直接干渉する装置があった。異能の起源を調べると言って、脳に何かをされる。意識を操る能力を、より強力にするための実験と言われた。
少女は抵抗した。
だが拘束されていた。動けなかった。
一回目。
二回目。
三回目。
その度に、少女の中の何かが、少しずつ壊れていった。またあの時の感覚だ。戻っていく....
いやだ、いやだ、もうあんな私には戻りたくない。
いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ
いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ
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痛みを感じる部分が、削られ、記憶を整理する部分が、歪んだ。何かを大切にしようとする部分が、薄くなる。
その代わりに、別のものが植え付けられた。
対象への固執。殺傷への衝動。黒瀬煉という存在への、異常な執着。冥焔会は少女を、黒瀬煉に向かって放つ道具として作り変えようとしていた。
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少女の意識の中で、兄の顔が浮かんだ。星の名前を教えてくれた夜の、兄の横顔だ。
細くて、顔色が悪くて、それでも笑っていた顔だった。お前は強いな、と言ってくれた声が聞こえた気がした。少女は手を伸ばした。
だが届かなかった。
何度目かの実験が終わった時、少女は立ち上がれなかった。
天井を見ていた。何かが、完全に変わっており、兄の顔が、遠のく。
代わりに——黒瀬煉という像が、頭の中を満たしていた。
兄の代わりとして。自分のものにすべき対象として。殺して自分のものにすべき存在として。
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少女の意識が、”今“に帰ってきた。
廃工場の天井がまた見えてきて、少女は、自分が今どこにいるかを思い出した。
黒瀬煉が、目の前にいて両膝をついていた。
煉の問いが、少女の意識の奥底にまだ残っていた。
お前の兄は——どんな人間だった。
少女の右手が、微かに震えている。意識が、朦朧としていた。
答えたかった。
でも——答えの言葉が、出てこなかった。
壊れた場所の中に、答えがあったから。




