第117話「壊れる前の話」
少女の右手が、微かに震えていた。
俺は両膝を床についたまま、少女を見ていた。
黒剣を持つ手に、少しずつ力が戻ってきて、体の痺れが引いてきた。立ち上がれる。だが——立ち上がらなかった。
少女の表情が、不安定なまま止まっていた。
泣いているような、笑っているような。感情のない顔だったはずが、この瞬間だけ、何かが滲み出ていた。
「一つだけ聞く」俺は静かに言った。
少女が俺を見た。
「お前の兄は——どんな人間だった」
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少女の右手が、止まり、上げたままだった手が、そこで固定された。
表情が、崩れた。
感情のない顔が、不安定な顔が、その下にあったものが一瞬だけ表面に出てきた。
子どもの顔だった。
幼くて、傷ついていて、何かを必死に抑えている子どもの顔だった。
その顔が一瞬だけ現れ、それから——少女の目が、虚ろになった。
意識が、どこか遠くに行く。
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薄暗くなり、廃工場の天井が、見えなくなる。少女の意識が、今という時間から離れていった。
朦朧としてきて、体の感覚が遠くなった。ここがどこかわからなくなった。だが——何かが見えた。
記憶だ。
走馬灯のように、少女の中に眠っていたものが、流れ始めた。
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最初に見えたのは、光だった。
強い光ではない。薄暗い光だ。
どこかの天井から、細い光が差し込んでいた。コンクリートの壁。剥がれかけた塗装。小さな窓。その窓から見える空は、狭かった。建物と建物の間に切り取られた、細長い青だ。
スラムだった。
少女はそこで生まれた。
正確には、そこに捨てられた。
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親の顔は、ほとんど覚えていなかった。
そこには男と女がいた。それだけだ。顔の輪郭も、声も、名前も、記憶に残っていなかった。残っているのは、背中だけだ。
二つの背中が遠ざかっていく場面だけが、かろうじて記憶に残っていた。
少女は幼かった。何歳だったかも覚えていない。それほどまでに幼かったのだ。
二つの背中が、路地の奥に消えた。
決して少女は振り返らずにその場に立っていた。しかし、彼女は一人ではなかったのだ......
隣に、もう一人いた。
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兄だった。
少女の五歳上であるのにも関わらず少女よりも体が細く痩せ細っている。兄は体が、弱かったのだ。顔色がいつも悪く、少し走っただけで咳が出る。寒い日には体が震えた。
その兄が、少女の手を握っていた。
小さな手だった。けれども、少女の手より少し大きいだけの、細くて冷たい手だった。
「大丈夫だ」兄は静かに言った。
少女は兄を見た。
兄が笑っていた。顔色が悪いのに、笑っていた。無理をしている笑顔だと幼いながらにもわかった。
「ここで生きよう。二人だけで、生きるんだ」
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スラムでの生活が始まった。
食べるものはなかった。
兄が食べ物を探しに行こうとすると、体が悲鳴を上げ、路地を少し歩いただけで膝をつき、咳が止まらなくなった。
少女は兄を引き戻した。
「私が行く」少女は言った。
「でも——」
「私が行く」
少女は外に出た。
食べ物を探した。残飯だとしても漁り、捨てられた野菜も拾った。時には、他のスラムの住人から奪うこともあった。
泣きながら、やった。
最初は泣きながら。だが何度かやるうちに、泣かなくなった。泣いている暇がなかった。兄が待っているからだ。
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兄が、少女に文字を教えてくれた。拾ってきた紙の切れ端に、石で文字を書いた。
「これが、自分の名前だ」兄が紙に書いた。
少女は兄が書いた文字を、指でなぞった。
「お前の名前は、きれいな名前だ」
「お兄ちゃんの名前の方がきれいだよ」
「そうか、じゃあ二人ともきれいな名前だ」兄はそう言って彼女にフッと優しく微笑みかけた。その笑顔は荒れくれたスラムに似つかわしくないほどに、当時の彼女にとって眩しかった。
少女はその紙を、大事にしまった。
今でも、どこかに持っている。
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スラムには、他にも子どもがいたが、仲良くはなれなかった。スラムでは、強い者が弱い者から奪う。それが当然の秩序だった。兄は弱かった。病弱で、体力がなくて、力もなかった。だから狙われた。
少女が、その全てを引き受けた。
自分が傷ついても、兄には傷をつけさせなかった。自分が腹を空かせても、兄には食べさせた。自分が眠れなくても、兄には眠らせた。
そのうちに、スラムの子どもたちが少女を避けるようになった。
目が変わったから、と後に誰かが言った。
少女には、その意味がわからなかった。ただ、兄を守るためにやっていただけだった。
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異能が発現したのは、兄が高熱を出した冬だった。スラムの冬は、寒かったが、兄弟に暖を取るものがなかった。
兄が三日間、意識を失っていた。少女は兄の横に座って、ずっと兄の手を握っていた。
何かできることはないか、何でもいいから、兄のためにできることはないか、と何度も考え、想った。
その時だった。少女の体から、何かが溢れた。少女が何をしたのかわからなかった。ただ——少女の存在が、消えた。
いるのに、消えた。
目の前にいるはずの少女の存在が、意識から消えた。少女自身が、自分の存在を感知できなくなった。
〇〇××年2月半ば......
彼女の異能の、最初の発現だった。
【覇級】の目覚める音がその時響く。
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兄が目を覚ました時、少女のことを見つけられなかった。すぐ隣にいたのにも関わらず、気づかなかった。
「どこにいるんだ」兄が弱々しく言った。「どこだ」
少女は兄の手を握った。
兄が驚いた。
「いたのか、ここに」
「ずっとここにいたよ」
「気づかなかったよ、全く見えなかった」
「そうみたい」
兄がしばらく少女を見た。それから、静かに言った。
「すごい力だな、いのう.....?とでもいうやつなのか?」
「そうなのかな?私にはわからないや」
「そうか」兄が少女の手を握り返した。「お前は強いな、本当に」
少女はその言葉を、ずっと覚えていた。
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それから少女は、異能を使うことを覚えた。誰にも教わらず、戦い、奪っていく中で独学で磨いた。
ただ、使えるものは全部使った。
気配を消す。情報を意識から消す。存在を認識させない。そして......“切り離す”
スラムで生き残るために、全部使った。
食べ物を奪う時に、敵から逃げる時に、兄を守る時に、さまざまな時にこの能力は使えた。
使えば使うほど、精度が上がった。
だが、それに比例するように使えば使うほど、少女の目から何かが減っていった。
泣くことが、できなくなっていった。
痛みを感じることが、減っていった。
それでも——兄の笑顔だけは、ちゃんと見えた。兄だけはちゃんと彼女のことを見ていた。
それだけあれば、十分だった。
「お兄ちゃん、ゼーったいに私のことを見ててね」
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兄は、少女に色々なことを教えてくれた。
文字を教え、数を教え、星の名前を教えてくれた。スラムの狭い空でも、星は見えた。夜に二人で空を見上げて、兄が星の名前を言った。
「あれは何座だ」
「知ってるよ、昨日教えてくれたやつ」
「じゃあ全部言ってみろ」
「えーと——」
少女が全部言うと、兄が笑った。
「すごいな、全部覚えてる」
「お兄ちゃんが教えてくれたから」
「俺が教えた以上に覚えている。お前は、頭がいいな」
「お兄ちゃんの方が頭いいよ」
「俺は体が弱い。だからせめて頭だけは使いたくてな」兄が静かに、されど悔しそうに言った。「でも——お前は頭もよくて、力もある。お前はもっとすごいところに行けるはずだ」
「お兄ちゃんと一緒じゃなきゃ、どこにも行かない。お兄ちゃんが見てくれない私なんて、そんなの私じゃない。」
兄がしばらく少女を見た。何かを察したような顔をしたのち、兄は包み込むような優しい声で言った。
「一緒に行こう、どこへでも。一緒に、このスラムを出よう。俺はお前を見るつづげている」
「絶対出よう」
「約束だ」
「約束」
今に思えば、兄は彼女の依存とまでも言えるほどの狂気的な愛や執着に気づいていたのかもしれない。だが、それを手放そうとはしなかった。それはなぜか.....
兄も、彼女も、お互いにその狂気が“心地よい”のだ




