第116話「ちゃんとみてよ」
少女の動きが、一瞬だけ止まる。
完全な停止ではない。
だが、確実に“ノイズ”が入った。
「……っ」
初めて、声にならない息が漏れる。それを逃さない。
「戻ってこい」
もう一度。今度は、強く。真正面から、拳を打ち込む。衝撃が、空気を震わせる。
”ピキッッッッッッ“
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全身が、止まった。一秒ではなかった。
戻った。煉がそう思った瞬間、完璧な拳が煉の鳩尾に入る。
(なぜだ、あの感覚があったはずなのに.....)
三秒、四秒——体が動かず、脚に力が入らなかった。腕が思うように動かなかった。黒剣を持つ手の力が、抜けかけた。
意識は正常だった。だが体が言うことを聞かなかった。少女が俺の背後から、静かに言った。
「お兄ちゃん、なんで黒剣持ってるの」
声だった。
一週間前の声だった。眠そうで、少し幼くて、当然のことを言うような声だった。背後から聞こえてくるその声が、倉庫の中で足をぶらぶらさせていた少女と、今の殺気を放っている少女が、同一人物だということを証明していた。
「なんで持ってるの」少女がもう一度言った。
「俺の剣だからだ」俺は動かない体で、言葉だけを返した。
「ふうん」
体の拘束が解けた。
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俺は前に出て距離を取り、振り返った。
少女が俺を見ていた。
感情のない目だった。だが——一秒だけ、その目が揺れた気がした。あの感覚の時だ。あの一瞬だけ、少女の目の奥で何かが揺れた。
その揺れが何だったのか、判断できなかった。
「一つだけ聞く」俺は言った。
少女が黙って俺を見ていた。
「なぜ死んでと言った」
少女が答えなかった。
「一週間前とは違う。今のお前は——」
「お兄ちゃんは黙ってて」
少女が遮った。
声が、また変わっていた。一週間前の声でも、さっきの感情のない声でもなかった。両方が混在した、不安定な声だった。
「黙って、死んでくれたらいいの」少女が言った。「そうしたら、私のものになるから」
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少女が再び動いた瞬間、今度はさらに速度が上がっていた。俺は黒剣を構えた。
少女の掌が来た。俺は黒剣で受けようとしたが、少女が軌道を変えた。黒剣の外側に回り込んだ。俺が黒剣を引いて角度を変えると、さらに少女が変えた。
俺の動きを、先に読んでくる。いや違う......
そうではなく——少女の攻撃が、俺の動きに合わせて変化していた。俺が動く方向に、攻撃が追いついてくる。橘の確率操作に似た感覚だった。だが確率ではない。俺の意識を先に読んで、意識が体に命令を出す前に、攻撃を合わせてくる。
無意識を操る。
俺の体が動こうとする前に、俺の無意識を読んでいた。
「なるほど、そんなこともできるんだな」
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左腕を掴まれた。
少女の力が、体格からは信じられないほど強かった。引かれた。体勢が崩れた。右の肘を少女の方向に向けながら、倒れないように踏ん張る。
少女が右手を俺の胸に当てると、全身が止まった。今度は五秒.....
黒剣が、床に落ちた。
少女が俺の前に立っていた。感情のない目で、俺を見下ろしていた。俺が膝をついていた。体が動かなかった。
「お兄ちゃん」少女が言った。
俺は少女を見上げた。
「なんだ」
「弱くなった?」少女が首を傾けた。「私が調べた黒瀬煉は、もっと強かったのに」
「お前が俺の無意識を読んでいるからだ」
「そうだね」少女が言った。「正解だよ。お兄ちゃんが何をしようとしているか、全部わかる。だから当たる。だから止まる」
「全部わかるのか」
「うん。そうだよ」少女が俺を見た。「全部。お兄ちゃんの次の動きも、その次の動きも。考えていることも、考えていないことも、全部」
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体の拘束が、また解けた。少女が一歩引いた。
「遊ばれてるな、おもちゃにされてる気分だ」
俺は黒剣を拾った。立ち上がった。右肩と左腕と膝に、消耗が積み重なっていた。
少女が俺を見ていた。感情のない目で。だがその目の奥に、先ほどと同じ揺れが見えた気がした。
「一つだけ聞く」
「また同じこと聞くの?」
「冥焔会の人間を倒しただろ。なぜだ」
少女がしばらく黙っていた。
「邪魔だったから」
「何の邪魔だ」
「お兄ちゃんのことを、横取りしようとしていたから。お兄ちゃんは私のものだし、横取りは許さない。だから倒した」
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俺は少女を見た。
一週間前に会った少女。お兄ちゃんになってよと言った少女。覇級だとケロッと言った少女。
今目の前にいる少女。死んでと言った少女。冥焔会のやつらを倒した少女。俺の無意識を読んで、戦いで俺を押している少女。
同じ人間だ。
だが何かが、一週間で変わっていた。
あるいは——最初から、こちらが本来の姿だったのかもしれない。
「もう一度聞く。なぜ死んでと言った」
少女が俺を見た。
その目が、また揺れた。今度は一秒よりも長く、揺れた。
「お兄ちゃんが死んだら、私のものになるんだもん」
「死んだら、私のものになるというのは」
「死んだら、もう誰のものにもならないでしょ、誰のものにもならないなら——最初に私のものにした私の、ものでしょ」
その論理の歪さを、少女は気づいていなかった。
あるいは——気づいていても、構わなかった。
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少女が再び動いた。
少女の右手が俺の顎を狙った。俺は頭を下げた。来ると知っていたのに、下げた頭の上を通り過ぎた少女の手が、俺の右耳を掠めた。
俺の無意識が、頭を下げる前に少女に読まれていた。
少女が次の動きに入ると、左手が俺の脇腹に向かった。受けようとした黒剣が間に合わず、左の脇腹に少女の手が触れた。
左半身が止まった。
俺は右手だけで黒剣を持って、少女との距離を取ろうとし、右足を踏み出した。
少女が右足の着地点を読み、着地した瞬間に床の摩擦が変わるよう、意図的に変質させた。
「意識に干渉するってのはここまで汎用性が高いものなのかよ。それとも、お前がすごすぎるだけか.....?」
膝をついた。両膝が、床についた。
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少女が俺の前に立ち、右手を持ち上げた。
俺は少女を見上げた。
少女の顔が、この戦いで初めて、微かに表情を持っていた。泣いているような。笑っているような。
どちらとも判断できない、不安定な表情だった。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「私のことを、ちゃんと見てよ」
俺は少女を見ていた。
「見ている」
「ちゃんと見て!!!」少女がもう一度言った。「お兄ちゃんが、ちゃんと私を見てくれたら——もう少しだけ待ってあげるから!!!」
「何を待つんだ」
「お兄ちゃんが、私のものになるのをだよ、死んでもらう前にちゃんと私を見てくれたら——もう少しだけ待つ」
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廃工場に静寂があった。
倒れた冥焔会の構成員が、静かに横たわち、澪が廃工場の入口付近で、息を潜めていた。
俺は両膝を床についたまま、少女を見ていた。
少女が俺を見下ろしていた。
泣いているような、笑っているような、不安定な顔で、右手を持ち上げたまま、止まっていた。
俺の体が、動き始め、膝に力が入ってきた。左半身の痺れが引いてきた。
立ち上がれる。
だが——立ち上がる前に、少女が言った言葉が頭に残っていた。
ちゃんと私を見て。
李が言っていた言葉が重なった。
あの少女に、お前が気づいていると悟られるな。
俺は少女を見た。
不安定な表情の少女を、真っ直ぐに見た。




