第115話「無意識の暴力」
死んで、という言葉が、廃工場の空気に溶けた瞬間、俺は黒剣に手をかけた。
澪に向かって、短く言った。
「下がれ」
澪が一瞬だけ俺を見て、何かを言おうとしたが、言わなかった。一歩、二歩と後退していくのをみて、それが澪の判断だとわかった。今ここで澪が戦いに巻き込まれることは、状況をより悪くする。澪もそれをわかっている。
少女は動かなかった。
俺が澪に声をかけている間、少女は動かなかった。待っていた。あるいは——動く必要がないと判断していたのかどちらかはわからなかった。
黒剣を抜いた。
黒い刀身が、廃工場の薄暗い光を飲み込んだとき、少女が、初めて微かに動いた。
目が、黒剣を見た。一週間前に、倉庫の中で俺の腰を見た時と同じ目だった。観察する目だ。だがその観察の質が、一週間前とは違った。研究するための観察ではなく——戦うための観察だった。
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少女が動いた。
速かった。
一週間前の、用具の山から飛び降りた時の、音のない動きとは次元が違った。廃工場の床を蹴る音すらなかった。存在が希薄なまま、ただ距離が縮まった。
少女の右手が来た。それを捌くように俺は黒剣を構えた。
拳ではなかった。掌だ。俺の胸に向かって、真っ直ぐに来た。
躱した。たしかに——躱したはずだった。
右肩に衝撃があった。
掌が胸に向かっていたはずが、当たったのは右肩だった。軌道が変わっていた。俺が躱す方向を、先に読んでいたのか。それとも——別の何かが起きているのか。
吹き飛ばなかったが体が横に流れた。体勢を立て直し、次の攻撃に備える。
「今のは」俺は言った。
少女は答えずに感情のない目で、俺を見ていた。
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二撃目が来た。
今度は見えた。左手から来たため、俺は右に動いた。
当たった。
左の脇腹に、少女の手が触れた。触れただけだ。拳で殴ったわけではない。ただ、触れた。
その瞬間ーーーー唐突に痺れが全身に回った。
左半身が、一瞬だけ動かなくなった。電撃系の異能の感覚に似ているがそれとは違う。神経に直接干渉したような痺れ方だった。
「意識への干渉か」俺は静かに言った。
体に触れることで、意識に直接作用する。神経を経由して、体の動きを一時的に止める。気配を消す能力の延長にある、意識操作の一形態だ。
左半身の痺れが引くのに一秒もかからなかった。
だがその一秒は、この戦いでは長かった。
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少女が三撃目を放った。
今度は拳だった。
速くて、重かった。とてもこの小さな体格からは想像できない重さが乗っていた。俺は黒剣の刀身で受け流す。
だが、黒剣が弾かれた。
少女の拳が、黒剣を弾いた。
黒剣が弾かれたのは、以前橘と戦った時以来だった。
「覇級にでもなると、全員武器を意味をなさないってか」
そんな煉の軽口に耳を傾けることもなく、もう一度少女は戦闘体制に入る
俺は黒剣を持ち直した、だが手首が痺れていた。少女の拳の重さが、腕全体に残っていた。
「何かいうことはないのかよ」
少女は何も言わなかった。
表情が動かなかった。
一週間前に、好きという文字を敷き詰めた手紙を書いた人間と、同一人物とは思えなかった。
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俺は踏み込む。受けるだけでは消耗する一方だ。そう考え、攻撃に転じた。
黒剣を横に薙いだとき少女が後退した。初めて、少女が距離を取った。黒剣の間合いを、警戒したのかもしれない。
続けて踏み込み、少女との距離を詰めた。
少女の右手が俺の首元に向かった。俺は頭を下げ、通り過ぎた手首を掴もうとした。
掴めなかった。
手首があったはずの場所に、何もなかった。
少女が消えていた。
気配がなかった。存在がなかった。一瞬で、俺の認識から少女が消えた。
背後に気配が戻ってきた。
振り返った時には、少女の掌が俺の背中に触れていた。
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風が止んでいた。
いや、正確には吹いているはずなのに――そう感じられない。
背後にいる少女が、空気そのものを歪めているようだった。
「……本当に、お前かよ」
煉の声は低く、静かに落ちた。
返事はなく、少女はただ、そこに立っている。
微動だにせず、呼吸の気配すら希薄で、まるで“人形”のようだった。
だが違う。あれは死んでいるわけではない。
確かに“生きている”。
ただ――中身が違う。
「……チッ」
舌打ちが、小さく響く。理解はしていた。だが、認めたくはなかった。あの少女は、こんな風に立つやつじゃない。こんな無機質な目で、こっちを見るやつじゃない。
「……どこの誰だか知らねぇが、趣味悪いな」
その瞬間。
少女の足が、わずかに動いた。
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消えた。
そう錯覚するほどに、滑らかであり、無駄がない。
速い。だがそれ以上に――“完成されている”。
「……なるほど」
煉の視線が細くなる。軽く身体を捻る。頬をかすめる風圧。拳が通過した後に、ようやく“そこに攻撃があった”と理解できる速度。
一歩遅れれば、直撃していた。
(躊躇がない)
それが一番厄介だった。
人間の戦いには、必ず“間”がある。
迷い、感情、判断――そういったものが、わずかな隙を生む。
だが、目の前の少女にはそれがない。
最適解を、最速でなぞるだけ。
「面白くねぇな」
呟きながら、足を払う。
だが。その前に、少女の身体が“消える”。
違う。
最小限の動きで、既に軌道から外れている。
そして、背後。
「……っ」
反応と同時に、腕を引く。
直後、肘に衝撃。打撃。だが“軽い”。狙いはダメージではない。体勢崩し。
「……連携まで完璧かよ」
一人でやっているとは思えない精度。
まるで、複数の視点で動いているような動き。
人格の“上書き”ではない。
“最適化”。
それが、この違和感の正体だった。そう煉は結論づけた。
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少女は、何も言わない。ただ、次の動きへ移行する。間合いを詰める。角度を変える。死角を取る。
一切の無駄なく。
一切の迷いなく。
それが――逆に異常だった。
「……なあ」
煉が、低く声をかける。攻撃をいなしながら。
「聞こえてんだろ」
返事はない。だが。
ほんの一瞬。ほんのわずかにだけ。拳の軌道が、ズレた。
「……やっぱりな」
確信する。“中”は、まだ消えていない。
押し込まれているだけだ。
「なら――」
踏み込む。今までより、一歩深く。少女の懐へ。
「引っ張り出すだけだ」
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速度が互いに上がる。視界が追いつかない領域。
だが。煉は、あえて“正面”から行く。搦め手は使わない。回り込まない。真正面。
「――!」
拳が交差する。衝撃。だが、互いに引かない。距離がゼロになる。その瞬間。
「起きろ」
低く、叩きつけるような声。同時に、掌を打ち込む。力ではない。“ズレ”を起こす一撃。
身体ではなく――
「中身」に干渉するように。
”ピキッッッッッッ“




