第12話「仮面をつけると決めた人生」
壁に背中をつけたまま、城島蓮は動けなかった。
顔が痛かった。右頬に煉の拳が入った跡が、熱く疼いていた。
だがそれより。
目の前の光景が、城島の思考を止めていた。
黒瀬煉が、立っていた。
全身から血が滲んでいる。制服が赤く染まっている。左腕がおかしな角度になっている。呼吸が浅い。フォトン・シンギュラリティを全力で叩き込んだ後の体が、あんな状態で立てるはずがない。
立てるはずが、ない。
なのに。
笑っている。
城島は壁に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。
膝が、わずかに震えていた。
それが自分でも、信じられなかった。
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城島蓮の記憶の中に、膝が震えた経験はなかった。
物心ついた頃から、城島は強かった。
異能の素質が突出していた。光操作の適性は、専門家が「百年に一人」と言うほどだった。学校では常に一番だった。先生に褒められた。同級生に崇められた。
親が喜んだ。
城島家は代々、異能者の名門だ。強い血を持つことが家の誇りで、城島蓮はその期待に完璧に応えた。
何をやっても、できた。
勉強も、異能の訓練も、対人戦闘も。全てで一番だった。負けたことがなかった。
だから——弱い者を、見下していた。
今思えば、自然なことだった。この国では、強者が弱者の上に立つ。異能の強さが全ての序列を決める。それが当たり前の社会で、城島は当たり前のように振る舞っていた。
無能者を嘲笑った。下級異能者を踏み台にした。自分より弱い人間は、存在する価値が低いと思っていた。
それが許されたのは、城島が強かったからだ。
強いから、許された。
それだけのことだった。
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転機は、中学二年の時だった。
城島のクラスに、一人の生徒がいた。
名前は関係ない。ただ、その生徒は異能を持っていなかった。無能者だった。成績は平均以下で、運動も得意ではなかった。目立たない、地味な生徒だった。
城島はその生徒を気にもしていなかった。
だが、あの日。
学校の廊下で、城島はその生徒が後輩の面倒を見ているところを見た。迷子になっていた一年生を、丁寧に職員室まで連れて行っていた。特別なことをしているわけではなかった。ただ、当たり前のように。
それだけのことだった。
だがその日の放課後、先生たちの会話が耳に入った。
「最近、一年生たちの様子がいいね」「ああ、あの子が色々気にかけてくれているみたいで」「異能はないけど、あの子がいると場が落ち着くんだよね」「頼りにされてるよ、本当に」
城島の足が、廊下で止まった。
頼りにされている。
無能者が。
城島は、その言葉が頭から離れなかった。
自分は誰かに頼りにされたことがあるか。
褒められた。崇められた。恐れられた。
だが——頼りにされたことは、あったか。
その夜、城島は初めて考えた。
強さとは何か。
力で相手を踏みにじることが強さなのか。それとも——
答えは、思っていたよりも早く出た。
この国の頂点に立つのは、力だけを持つ者ではない。人々から信頼され、尊敬され、模範となる者だ。歴史を振り返れば、純粋な暴力で頂点に立ち続けた者は一人もいない。力を持ちながら、人を束ねた者だけが、本当の意味で頂点に立った。
城島蓮は、その夜から変わった。
表面的には、誠実に生きることにした。
弱者を踏みにじることをやめた。丁寧に話すようにした。後輩の面倒を見た。困っている人間を助けた。
効果は、劇的だった。
周囲の目が変わった。恐れから、信頼へ。崇拝から、尊敬へ。
城島蓮は学校の中心になった。生徒会に入り、副会長になった。先生からも、生徒からも、頼りにされるようになった。
完璧だった。
完璧なはずだった。
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覇凰学園に入学した時、城島は確信していた。
ここでも同じようにやれる。強さと誠実さを両立させ、信頼を集め、頂点に立つ。それが城島蓮の生き方だ。
だが。
入学初日に、狂いが生じた。
黒瀬煉という男が、現れた。
無能者だった。異能がない。エンブレムもない。腰に一本の剣を下げた、どこにでもいそうな顔の少年。
なのに。
視線が、そちらに向いた。
城島がどれだけ誠実に振る舞っても、どれだけ丁寧に話しても。人々の目が、黒瀬煉に向いた。
無能者のくせに。
異能もないくせに。
何もしていないのに。
ただそこにいるだけで、煉は人を引きつけた。颯が懐いた。澪が心を開いた。倉石が一目置いた。
妬ましかった。
認めたくなかったが、妬ましかった。
自分が何年もかけて作り上げてきたものを、この男は何もせずに持っている。
誠実なふりをしなくても、誠実だ。
強さを見せつけなくても、強い。
人を引きつけようとしなくても、人が来る。
城島が演じ続けてきたものを、黒瀬煉は最初から持っていた。
だから——潰すことにした。
大勢の前で、徹底的に叩き潰す。圧倒的な敗北感を与える。この男が無能者であることを、この学園の全員に刻み込む。
それが今日のランク戦の、城島の本当の目的だった。
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だが。
城島は壁に手をついたまま、煉を見た。
血まみれで立っている煉を。
笑っている煉を。
フォトン・シンギュラリティを受けて、それでも立っている煉を。
何かが、城島の中で崩れていく感覚があった。
長い時間をかけて積み上げてきた何かが。
煉は城島を見ていた。
怒っていない。憎んでいない。ただ、飄々と見ている。死にかけの状態で、笑いながら。
城島はその目が、怖かった。
初めて、怖いと思った。
強いから怖いのではなかった。
この男は——演じていない。
何も、演じていない。
血まみれで立っていても、笑っていても、怒鳴っていても。全部、そのまま本物だ。仮面がない。
城島には、それが。
羨ましくて、眩しくて——怖かった。
城島蓮は、初めて気づいた。
自分はずっと、こういう人間になりたかったのだと。
力があるから誠実なのではなく。
頂点に立ちたいから信頼を集めるのでもなく。
ただ、そのままで。
何も演じずに、そこに立っていられる人間に。
なりたかったのだと。
城島の膝が、また震えた。
今度は恐れからではなかった。
長い時間をかけて押し込めてきた何かが、ようやく出口を見つけたような——そういう震えだった。
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俺はその震えを、見ていた。
城島が壁に手をついて、膝を震わせながら、俺を見ていた。
その目が、入学初日とは全く違う目になっていた。
策略も、計算も、仮面もない。ただ剥き出しの、城島蓮という人間の目だった。
俺は数百年前のことを、少しだけ思い出した。
魔王として頂点に君臨していた頃、俺も似たような仮面をかぶっていた。恐怖で支配することが王の在り方だと信じていた。力こそが全てだと。
封印されて、全てを失った時、初めて気づいた。
力以外に、何も持っていなかったことに。
城島はまだ若い。仮面が罅割れたばかりだ。これからどうなるかは、城島自身が決めることだ。
だが——こういう目をするようになった人間は、俺の経験上、大抵悪い方向には行かない。
まあ。
なんとかなるだろ。




