第11話「光理支配」
月末のランク戦当日、学園は朝から異様な熱気に包まれていた。
理由は一つだ。
Aランク・黒瀬煉対Sランク・城島蓮。
入学からわずか一ヶ月、無能者として底辺からスタートした新入生が、学園最強の座に挑む。第一訓練場——学園で最も広い試合会場が、朝から満員だった。収容人数五百人が、ぎっしりと埋まっている。
俺は控室で黒剣の鞘を確認していた。
颯が隣に座っていた。珍しく口数が少ない。
「緊張してるのか」
「お前がじゃなくて俺がか?」颯が苦笑した。「……少しな」
「悪いことじゃない」
「お前は?」
「していない」
「だろうな」颯が息を吐いた。「城島先輩、強いぞ。手合わせの時より、ずっと本気を出してくるはずだ」
「知ってる」
「わかってて怖くないのか」
「怖くはない」俺は少し考えた。「楽しみではある」
颯がしばらく俺を見た。それから「そっか」と言って立ち上がった。
「俺、観客席から見てる。全部見てるから」
「ああ」
「……絶対に、立っていろよ」
颯の声が、少しだけ低かった。いつもの陽気さとは違う、本気の声だった。
「立っている」
颯が頷いて、控室を出た。
入れ替わりに澪が入ってきた。小さな弁当箱を持っていた。
「試合前ですが」澪が俺の前に立った。「これを」
弁当箱を開けると、玉子焼きだけが入っていた。
「昨日の夜、作りました」澪が少し視線を落とした。「試合前に食べておいてください。ちゃんと動けるように」
「ありがとう」
「お礼を言われることじゃないです」
俺は玉子焼きを食べた。甘くて、丁寧な味がした。
「黒瀬くん」
「なんだ」
「約束してください」澪の目が真剣だった。「終わったら、ちゃんと立っていると」
「約束だ」
「絶対ですよ」
「絶対だ」
澪が小さく頷いた。それ以上は何も言わず、控室を出た。
扉が閉まった。
俺は残りの玉子焼きを全部食べた。
腹が満ちた。十分だ。
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入場した瞬間、会場の空気が変わった。
五百人の視線が俺に集まる。どよめきが波のように広がった。
城島はすでに中央に立っていた。訓練着姿だ。胸元のSランクバッジだけが、変わらずそこにある。城島は俺を見て、静かに笑った。
「来ましたね」
「ああ」
「今日は——本気でいきます」城島の声は穏やかだった。「最初に言っておきます。今まで見せていたのは、僕の能力の一部です」
会場がざわめいた。
「一部?」「Sランクの城島先輩がまだ隠していた?」「どういうことだ」
俺は城島を見た。
「本当の力を出すつもりか」
「あなたには、それが必要だと思いましたので」城島の目が静かに細くなった。「——光理支配。フォトン・ロゴス」
その言葉と同時に、城島の全身が光を纏った。
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最初の一撃は、見えなかった。
城島の姿が光に溶けた瞬間、俺の視界から城島の輪郭が消えた。いや、正確には——見えているのに、わからなくなった。
どこにいるかが、わからない。
一撃が右肩に入った。
光を纏った体が直接触れた衝撃だ。焼けるような熱と、鈍い痛みが同時に走った。俺は後退した。
「光の情報を遅延させています」城島の声がどこかから届いた。「あなたが今見ている映像は、0.3秒前の過去です。どれだけ反射速度が速くても、情報がずれていれば意味がない」
知覚遅延。
見えているのに動けない理由が、それだ。
二撃目が来た。胴に入った。吹き飛ばされた。床を転がり、壁の手前で止まった。
「黒瀬!」颯の声が遠くから聞こえた。
俺は立ち上がった。
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三撃、四撃、五撃。
城島は丁寧に、確実に俺を叩いた。
感情的ではなかった。むしろ冷静だった。一撃ごとに角度が変わり、力が変わり、タイミングが変わる。俺が対処法を試みるたびに、城島はそれを読んで修正してくる。
五撃目は顎に入った。視界が揺れた。
六撃目は背中だった。床に叩きつけられた。
立ち上がった。
七撃目は左腕だった。骨にひびが入る感覚がした。
立ち上がった。
八撃目は額だった。血が流れ始めた。
立ち上がった。
そのたびに城島の目が微かに変わった。最初は冷静だった目が、今は何か別のものを含んでいる。
俺はその変化を、頭の片隅に置いた。
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城島が距離を取った。
「視覚を捨てましたね」城島が言った。
「ああ」
「気配で動いている。だから知覚遅延が通じなくなった」城島が静かに言った。「では——これはどうですか」
城島の姿が、消えた。
完全不可視。
視覚的に消えただけでなく、光の屈折と遮断を組み合わせ、あらゆる視覚情報から城島の存在が消えた。
「消えた!」「どこにいる!」
観客席が騒然とした。
俺は目を閉じた。視覚を完全に捨てた。
空気が動く。微かな足音。床が沈む感覚。城島が光を操作する時に生じる、ごく僅かな熱の揺らぎ。
いる。右前方、三メートル。
俺は走った。
城島が不可視を解除した。目の前に俺がいたからだ。
「……気配を感じ取れるのか」
「慣れているだけだ」
城島の目が、初めて動揺した色を見せた。
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城島が次の手を打った。
空間歪曲だ。
周囲の光の屈折率が変わり、どこが上でどこが下かわからなくなる。平衡感覚が狂う。
俺は脚の感覚だけで立った。
「なぜ通じない」城島の声に初めて感情が滲んだ。
「全部、経験している」
「経験……? どこで——」
「長い話だ。今は関係ない」
俺は城島との距離を詰めた。
城島が後退しながら、光エネルギーを収束させた。レーザーが複数の角度から俺に向けて放たれる。
黒剣を抜いた。三本を吸収した。残りを躱した。一本が左脇腹を抉った。
熱い。内側まで焼ける感覚があった。
それでも走った。
城島との距離が縮まった。あと二メートル。
城島が歯を食いしばった。
その瞬間——会場全体が白くなった。
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光理超越。フォトン・シンギュラリティ。
城島の全身から光が溢れ出した。訓練場全体が白く染まった。観客席から悲鳴が上がった。
観測イコール存在。
見えないものは存在しない。
城島は光そのものになろうとしていた。自分の存在を光に溶かし、あらゆる認識から消える。
だがそれだけではなかった。
溢れ出した光が、俺を包んだ。
焼ける。
全身が焼ける。熱が皮膚を超えて、内側に入ってくる。左腕、右肩、胸、腹。光エネルギーが全方位から俺の体を蝕んでいく。
知覚遅延で動きを封じながら、完全不可視で位置を消しながら、同時に光エネルギーで全身を焼く。
三つが同時に、最大出力で俺を攻撃していた。
俺は黒剣を翳した。吸収できる量を超えている。余剰の光が俺の全身を容赦なく焼いた。
膝が落ちた。
片膝が床についた。
立て。
立とうとした。だが体が、言うことを聞かなかった。
光が、俺の全身を飲み込もうとしていた。
頭の中で何かが遠くなっていく感覚があった。
意識が薄れる。
俺は歯を食いしばった。
倒れるな。
まだ終わっていない。
だが体は正直だった。
もう一方の膝も、床についた。
両手が床についた。
光が収まった。
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静寂が、会場を満たした。
五百人が、息を呑んでいた。
誰も声を出せなかった。
俺は床に両手をついていた。頭が垂れていた。全身から血が滲んでいた。制服が赤く染まっていた。左腕のひびが痛んだ。左脇腹の焼け跡が熱かった。呼吸が、浅かった。
見た目は、もう終わっていた。
どう見ても、戦える状態ではなかった。
城島が俺を見ていた。
その目に、初めて安堵の色があった。
城島はゆっくりと体の力を抜いた。光理超越が解除されていく。
「……終わりましたね」
城島が静かに呟いた。
誰に言うでもなく。
城島は俺に背を向けた。
歩き始めた。
出口に向かって。
倉石が前に出た。決着を告げようとした。口が開きかけた。
その瞬間だった。
「何勝手に終わらせようとしてんだよ」
声が、した。
会場全体が、凍りついた。
音がした。
床を踏む音だ。
一つ。
また一つ。
城島が足を止めた。
ゆっくりと、振り返った。
黒瀬煉が、立っていた。
両手が床から離れていた。両膝が床から離れていた。
血が全身から滲んでいた。制服が赤く染まっていた。左腕がおかしな角度になっていた。呼吸が、見るからに浅かった。
それでも。
立っていた。
笑っていた。
薄く、飄々と。いつもと変わらない顔で。
まるで散歩の途中で転んだ程度の顔で。
五百人が、誰一人声を上げられなかった。
畏れだった。
純粋な、原始的な畏れだった。
城島が固まっていた。
ありえない。
フォトン・シンギュラリティを全力で叩き込んだ。全身を焼いた。あの状態で——
城島の思考が止まった。
その隙に、俺は動いていた。
一歩踏み込んだ。
右の拳を、城島の顔面に叩き込んだ。
乾いた音が、静寂の中に響いた。
城島が吹き飛んだ。壁に背中から叩きつけられた。ずるりと床に崩れた。
会場が、完全に沈黙した。
颯が、声を失っていた。
澪が、口を手で覆っていた。
倉石が、決着を告げる言葉を忘れていた。
俺は右拳を下ろした。
城島を見た。
「まだ終わっていない」
その声は、静かだった。
飄々としていた。
血まみれで、骨にひびが入っていて、呼吸もままならない状態で。
黒瀬煉は、笑っていた。
「まあ、いけるだろ」




