第111話「ここが限界」
翌日の放課後だった。
学園を出る前に、田中老人の店に寄った。
老人は店の前で箒を持っていた。俺を見て「おう、黒瀬か」と言葉を漏らした。文書の写しのことを話すと、老人が少し考えてから「あれでいいなら持っていけ」と言って、店の奥から一枚の紙を持ってきた。
手に取った。
古い文書の写しだ。田中老人の先祖が、魔王時代の戦いを目撃して書き記した記録だ。内容は魔王ヴァルセイドに関するものだった。普通の紙に書かれた普通の文章に見えるが、その内容と来歴は、確かに普通ではなかった。
「大事に使えよ」老人が言った。
「ありがとうございます」
「礼を言うようになったな、お前も」老人が笑った。「前は不器用に黙って持っていったものじゃが」
「そうでしたか」
「そうじゃった」老人が頷いた。「まあ——うまく使え。その紙が役に立つなら、先祖も喜ぶじゃろ」
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路地裏に向かった。
夕方の光が、街の建物を橙色に染めていた。人通りの少ない路地に入ると、空気が少し変わった。街の喧騒が遠くなった。
李がいた。
昨日と同じ場所だ。壁にもたれて、スマホを見ていた。俺が近づくと顔を上げた。サングラスの奥で、目が動いた。
「遅かったな、黒瀬。よう来たな」
「ああ」
「持ってきたか」
俺は田中老人の文書の写しを取り出した。李に渡した。
李が受け取り、広げた。
一行、また一行と読んでいった。サングラスをかけているから表情が読みにくかった。だが読み進めるにつれて、李の体から空気が変わっていくのがわかった。壁にもたれていた体が、少しずつ起き上がった。最初は流し読みするような速度だったが、途中から遅くなった。丁寧に、一文字ずつ確認するような読み方になった。
しばらくして、李が顔を上げた。
「これは——本物やな」
「そうだ」
「どこで手に入れた」
「知り合いからだ」
「知り合い、か」李が文書を丁寧に折り畳んだ。「その知り合い、只者じゃないな」
「そうかもしれない」
李がしばらく俺を見た。サングラスの奥の目が、何かを計算していた。それから静かに言った。
「ええやろ。等価交換、成立や」
「ありがとう」
「礼は後にしろ。何が知りたい」
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俺はあの少女の特徴を話した。
白に近い髪。細くて眠そうな目。幼い顔立ち。体育館倉庫で出会ったこと。気配を消す能力を持っていること。情報を人の意識から切り離すことができること。覇級だと自称していたこと。
李が聞いていた。
途中から、スマホを取り出した。何かを打ち込んでいた。俺の言葉を一言も漏らさずに聞きながら、片手でスマホを操作していた。
「覇級、か」李が言った。
「自分でそう言っていた」
「気配を消して、情報を意識から切り離す」李が繰り返した。「つまり、俺がこれから調べようとしても、調べた内容を忘れる可能性があるわけやな」
「そうだ。俺の周りの人間は、全員そうなった」
「ほう、おもろいな」李がスマホから目を上げた。「俺には通用してないみたいやけど」
「なぜだ」
「さあ」李が肩をすくめた。「俺、異能者じゃないから。能力が人の意識に干渉するタイプなら、異能者じゃない人間には効きにくいこともある。それだけかもしれんよ」
「異能者ではないのか」
「そうかもな」李がサングラスを直した。「普通の人間や。ただ、ちょっと特殊な仕事をしてるだけ」
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李が路地の壁に背中を預けた。
「黒瀬、少し時間をくれ。調べるのに、一日か二日かかる。今日はここで帰れ」
「わかった」
「連絡先を交換しとこか」李がスマホを出した。
連絡先を交換した。
「一つだけ聞いていいか」俺は言った。
「なんや」
「お前は、どうやって情報を集めるんだ。あの少女の能力を突破できるのか」
「突破できるかどうかは、やってみないとわからん。ただ——俺のやり方は、人の記憶や意識に頼らないことも多い。物の痕跡、データの断片、物理的な記録。そういうものは、意識を消しても残ることがある」
「なるほど」
「あとは、、、、ちょっとした小細工やな」李が少し目線を外しながら言った。
「まあ、やってみる。でも黒瀬、一つだけ言っておく」
「なんだ」
「今回の依頼、俺が調べたことを素直に教えるかどうか、まだわからん」
「どういう意味だ」
「調べてみて、あまりにもヤバすぎたら教えたくなくなることもある」李がサングラスの奥で、静かに俺を見た。「そういう案件が、たまにある。その時は、依頼は途中で終わりや」
「お前が怖気づくということか」
「怖気づく、は語弊があるな。正確には——関わらない方がいいと判断した時に、引く。それが仕事を長く続けるためのルールや」
「今まで引いたことはあるか」
「ある。片手で数えきれるほどしかないが、ある」
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二日後の夕方だった。
李から連絡が来た。
「路地裏に来い」
それだけだった。
学園が終わった後、すぐに向かった。
李が路地裏にいた。いつもの場所だ。だが今日は、壁にもたれていなかった。路地の中央に立って、腕を組んでいた。
顔が、いつもと違った。
サングラスをかけているから表情は読みにくい。だが立ち方が違った。体の重心が、少し沈んでいた。何かを抱えているような、あるいは何かを決めてきたような、そういう立ち方だった。
「来たな」
「ああ」
「調べ終わった」
「わかったか」
李が少し間を置いた。
「わかった」
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李が懐からスマホを取り出した。
「先に言っておく。俺、今まで依頼を途中で辞めたことは片手で数えきれるほどしかない。怖気づくことも、ほぼない。それが俺の仕事に対するプライドや」
「そうだな」
「今回は——」李が一度止まった。「今回は、これっきりや」
俺は李を見た。
「どういうことだ」
「この依頼、これ以上続けない。調べたことを今日話す。それで終わりや。俺はこれ以上この案件に関わらない」
「なぜだ」
「聞けばわかる」李がスマホの画面を見た。「まず基本的なことから言う。お前が言ってた少女、名前の記録が存在しない。生まれた記録もない。戸籍が、ない」
「戸籍がない?」
「そう」李が続けた。「どんな人間でも、どこかに記録が残る。出生届、戸籍、住民票、何かしらある。だがこいつには何もない。存在している、だが記録がない。そういう人間や」
「能力で消したのか」
「最初はそう思った。だがそうじゃない。消した痕跡もない。最初から存在しなかったように、記録が空白になっとる。生まれた時から、記録に残らない存在なのかもしれない」




