第109話「切り離す」
静寂があった。
覇級。世界に数人しかいない、最上位の異能者。橘将望もその一人だった。それと同格、あるいはそれ以上の存在が、今俺の前に立っている。
「覇級だと言ったか」
「言った」少女が頷いた。ケロッとしていた。「ちょっと前になったんだけどね」
「ちょっと前とは、いつだ」
「うーんと」少女が少し考えた。「半年くらい前かな。正確には覚えてないや、どうでもいいから忘れちゃった」
「なぜ覇級になった」
「かっこいいからだよ!」少女が即答した。「覇級ってかっこいいじゃん!強くて、世界に数人しかいなくて。そういうの、私大好きなの!」
彼女が少し興奮気味に話す中、俺は少し止まった。
「かっこいいから、アルティマになったのか」
「そうだよー。うーんと頑張ったら取れちゃった。割と簡単だったかな」
割と簡単だった。
その言葉が、倉庫の空気に静かに落ちた。
橘将望がアルティマだった。橘との戦いで、俺は完全詠唱の終環を使ってようやく勝てた。その橘が属する階位に、目の前の少女が「割と簡単だった」と言って到達している。
「能力は何だ」
「最初から言ってたじゃん」少女が微笑んだ。「気配を消せるって。自分に関する全部の事象の気配を消せる。存在を、誰かの意識から切り離せるの」
「意識から切り離す?」
「そう」少女が続けた。「私のことを、誰も無意識に処理するようになる。見えてても、見えていない。聞こえてても、聞こえていない。存在しているのに、誰も私を認識しない。そういう能力」
「だから今日一日、俺に気配を感じさせなかったのか」
「うん。でも——お兄ちゃんは、なんとなく感じてたでしょ」少女が首を傾げた。「不思議。私の能力に気づける人、今まで一人もいなかったのに」
「完全ではなかったということか」
「そうかもね」少女が言った。「お兄ちゃんが特別なのか、私がまだ完璧じゃないのか。どっちかわからないけど——やっぱり面白いね、お兄ちゃんは」
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少女が俺を見上げていた。
その目が、また観察の色に戻っていた。先ほど一瞬揺れた目が、今は静かだった。
「お兄ちゃん?」
「なんだ」
「私のこと、怖い?」
俺は少し考えた。
「怖くない」
「なんで? 覇級って言ったのに。周りの仲良い子も私が覇級だってわかると、みんな離れてくのに」
「覇級だからといって、怖いとは限らない。お前は今、俺を傷つけようとしていない。目的も、今のところ俺には害がない」
「道具にするって言ったよ」
「言っていた」
「それでも怖くないの?」
「怖くない。ただ——厄介だとは思っている」
少女がくすくすと笑った。
「正直だね」
「本当のことしか言わない主義だ」
「知ってるよ。調べたから」
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少女がもう一度、俺を見上げた。
倉庫の外から、誰かが廊下を歩く足音が聞こえた。放課後の学園の音だ。普通の日常の音が、扉一枚向こうで続いていた。
「お兄ちゃん」少女がもう一度言った。
「なんだ」
「まだ答えてくれてないんだけど」少女が少し首を傾けた。「私のお兄ちゃんになってくれるの?」
俺は少女を見た。
覇級だ。世界に数人しかいない最上位の異能者が、学園の体育館倉庫で積み上げられた用具の上に座って、お兄ちゃんになってくれと言っている。
「すぐには答えられない」
「なんで?」
「お前のことを、まだ何も知らないからだ。名前も、本当の目的も、なぜお兄ちゃんが必要なのかも」
「それは、お兄ちゃんになってくれたら教えるって言ったじゃんー」
「順番が違う」
「私の順番がある、って言ったでしょ」
「俺にも順番はある。知らない人間のお兄ちゃんにはなれない。まず名前を教えろ」
少女がしばらく俺を見ていた。
それから、また微笑んだ。今日何度も見た笑顔だが、この笑顔が少女の全てを隠しているとわかってきた。
「交渉上手だね」少女が言った。
「交渉ではない。当然のことを言っているだけだ」
「そういうところ——」少女が言いかけて、止まった。「そういうところが、好きだよ」
その言葉の前半が、何かと比べている言葉だということは、俺にはわかった。誰かと比べている。誰と比べているのかは、まだわからなかった。
「また来るね」少女が扉の方に向いた。
「待て」
「次来た時は、名前を教えてあげる。今日はここまでだよ。あと——今日のこと、みんなに話してもいいよ。どうせ調べてもわからないと思うから」
「なぜわからないんだ」
「私に関する情報が、世界には存在しないから」少女が当然のように言った。「私の能力は、気配を消すだけじゃなくて——私に関する全ての情報を、誰かの意識から消す。記録しても、見ても、調べても——気づいた瞬間に忘れる。私のことだけ」
「それが——お前の能力の本質か」
「そう」少女が扉に手をかけた。「だから安心して話して。どうせ誰も辿り着けないから」
扉が開き、少女が廊下に出た。
俺もそれを追おうとした。
だが、その時にはもう扉の向こうに、誰もいなかった。
廊下に、人の気配がなかった。足音もなかった。存在の痕跡が何もなかった。
まるで最初から、誰もいなかったかのように。
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俺は廊下に出て、しばらく立っていた。
夕暮れの光が、廊下の窓から差し込んでいた。
ポケットの中の手紙を取り出した。好きという文字が敷き詰められ、最後の一行だけ、体育館倉庫で待っていますと書かれた白い紙。
折り畳んで、もう一度ポケットに戻した。
今日わかったことを整理した。
気配を消せる。情報を意識から消せる。覇級である。割と簡単だったと言った。冥焔会の勧誘を断った。俺を道具にしたいと言った。お兄ちゃんになってくれないかと聞かれた。名前を教えるには順番がある。
厄介だ。
橘将望とは全く違う種類の厄介さだ。敵意がない分、余計に掴みにくい。目的が俺を道具にすることだと言いながら、害を与える気配がない。お兄ちゃんになってほしいという言葉の裏に、まだ何かが隠されている。
「まあ」
俺は廊下を歩き始めた。
「なんとかなるだろ」
いつもの口癖が出た。
だが今日二度目の、確信の薄い言葉が口から溢れた。




