第108話「倉庫の中の“ ”」
少女の言葉が、倉庫の空気に溶けた。
俺はしばらく、少女を見ていた。
「お兄ちゃんになってよ」
その言葉の意味を、頭の中で整理しようとした。脅しではなかった。怒りでも悪意でもなかった。ただ——純粋に、そう言っていた。当然のことを言うような、当たり前の願いを口にするような、そういう声だった。
「名前を教えろ」
少女が微笑んだままだった。
「私の名前は、まだ教えられないよー」
「なぜだ」
「名前を教えると、調べられちゃうもん」少女が言った。「私、まだあなたに全部知られる準備ができていないの。順番があるからね。だから、待ってて?」
「順番がある?」
「そう」少女が用具の上で足をぶらぶらさせた。子どものような仕草だったが、目が単なる子供ではないとこちらに語りけていた。「知られる順番。私があなたに知ってほしい順番で、知ってほしいの」
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俺は倉庫の中に入った。
扉を閉めると、少女との距離を、三メートルほど保って立った。
少女は相変わらず、積み上げられた用具の上から俺を見下ろしていた。その目が、ずっと俺を見ていた。まばたきが少なかった。観察している目だ。標本を見るような、あるいは宝物を見るような、そういう目だった。
「今日一日、俺を見ていたのはお前か」
「そうだよ」少女が頷いた。「ずっと見てたの。朝から」
「気配がなかった」
「消してたからね」少女が当然のように言った。「気配があったら、気づかれちゃうでしょ。私が見ている間はあなたには見られたくないの」
「なぜ見ていた」
「調べてたからだよ」
「調べていた?」
「お兄ちゃんのことを!」少女が言った。「もう随分調べたけど、実際に見ると新しいことがわかることもあって。今日も、いくつか新しいことがわかって面白かったな!」
「どんなことがわかった」
「秘密!」少女が微笑んだ。「まだ教えてあげなーい」
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俺は少女を見た。
何者なのか、まだわからない。だが——一つだけ確認しなければならないことがあった。
「冥焔会の人間か」
少女が、きょとんとした顔をした。
「冥焔会? なにそれ」
「知らないのか」
「知らない」少女が首を傾げた。「なんか強そうな名前だねー」
「異能者の組織だ」
「ふうん」少女が興味なさそうに言った。「組織かあ。そういえば、前に誰かに誘われた気がするけど」
「誰かに?」
「なんか、黒いコート着た人が来て、一緒にどうですかって言ってきたけど、興味なかったし、入らなかった。なんか面倒くさそうだったし」
俺は少し止まった。
「冥焔会の勧誘を断ったのか」
「そうなの? そこが冥焔会っていう組織だったんだ」少女がケロッとした顔で言った。「まあ、興味ないし別にいいけどさ」
「なぜ興味がなかった」
「だって、私がやりたいことと関係ないもん」少女が俺を見た。「私がやりたいことは、お兄ちゃん、黒瀬煉のことを全部知ること。そして——」
少女がそこで一度止まった。
それから、また微笑んだ。
「私の“もの”にすることだよ」
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俺はその言葉の意味を、静かに受け取った。
「私の“もの”にする、というのはどういう意味だ」
「そのままの意味だよー。お兄ちゃんっていう存在を、私が全部理解して、全部知って、全部持つの。そうしたら、その後初めて——世界に広めるの」
「世界に広める?」
「お兄ちゃんがどういう存在か、私が全部解析して、私の道具として世界に示す」少女が静かに言った。感情の起伏がなかった。怒りでも熱狂でもなく、ただ事実を述べているような声だった。「すごい“もの”は、ちゃんと使われないともったいないでしょ」
「道具にする、と言ったか」
「言った」
「俺の意思は考慮しないのか」
「考慮してあげてもいいよ」少女が頷いた。「いや、ちゃんと考慮する。でも——最終的には私の思った通りになると思う。今まで、そうじゃなかったことがないし」
俺は少女を見た。
傲慢だった。だが傲慢を意識していない傲慢だった。自分が傲慢だという認識がなく、ただ経験から導き出した結論を言っているだけだ。それが逆に、底の見えなさをひしひしと感じさせた。
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「一つだけ聞く」
「なんでも聞いて」
「お兄ちゃんになってよ、と言ったな。なぜだ」
少女の顔が、少し変わった。
ほんの僅かだった。表情は動かなかった。だが目の奥で、何かが揺れた。さっきまでの観察するような目とは、違う種類の揺れだった。
「それは、、、、流石にまだ言えないかな」
「まだか」
「うん。まだ言えない。でも——お兄ちゃんになってくれたら、ちゃんと話す。全部話してあげる」
「お兄ちゃんになることと、話すことが繋がっているのか」
「繋がってる。信用できる人にしか、言えないことだもん」
「俺を信用している?今日初めて話したのにも関わらずか?」
「わかってる。でも——ずっと調べてきたから。知ってる量は、普通に友達になってきた人より多いと思うんだよね」
「一方的に調べられても、俺はお前を知らない」
「それでいいんだよ」少女が微笑んだ。「私が先に知る。そうしたら、ちょっとずつ、じっくりゆっくり教えてあげるの。私のことをね」
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俺はしばらく少女を見ていた。
この少女が何者なのか。能力は何なのか。本当の目的は何なのか。まだ全部が霧の中だった。
だが——もう一つ、確認しなければならないことがあった。
「お前の能力は何だ」
少女がにこりとした。
「ああ、そうだ!大事なこと、言ってなかったね!」わざと煉の言葉を無視して彼女は言った。
少女が用具の山から、ひょいと飛び降りたにも関わらず、着地音がなかった。存在が希薄なのか、あるいは音すら消しているのか、床に降り立ったはずなのに何も聞こえなかった。
少女が俺の前に立った。
見上げてくる目が、細くて、眠そうで、だが内側に何かを宿していた。
「能力の話をする前に、もう一つだけ言っていい?」
「なんだ」
「私ね」少女が当然のことを言うように、さも普通のことのように言った。
間があった。
「覇級だよ」




