第107話「倉庫の少女」
月曜日の朝だった。
学園に着いた瞬間から、何かがおかしかった。
おかしい、というのは正確ではない。危険な気配があるわけでも、敵意があるわけでもなかった。ただ——見られている感覚があった。
気配がない。
それなのに、視線がある。
昨日の夕暮れの路地で感じたものと、同じ種類の感覚だ。存在を感知できないのに、そこに何かがあるという確信だけがある。霧の中に立っているような、掴もうとすると消えるような、そういう感覚だ。
昇降口で颯と会った。
「おはよう煉、今日なんか変な顔してるぞ」颯が言った。
「そうか」
「何かあったか」
「わからない」
「わからないって珍しいな」颯が首を傾げた。「煉が気になることに気づかないことって、あるか?」
「ある。今がそうだ」
颯がしばらく俺を見た。それ以上は聞かなかった。颯なりの気遣いだとわかった。
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一時限目が始まった。
授業中も、感覚は続いていた。
後ろから見られているような気がして振り返った。誰も俺を見ていなかった。右から視線を感じて右を向いた。窓の外に誰もいなかった。
倉石の授業だった。倉石が黒板に板書しながら、さりげなく俺の方を見た。俺の様子に気づいているのかもしれなかった。だが授業中は何も言わなかった。
澪が前の席から、小さくメモを後ろに渡してきた。
「大丈夫ですか。朝から顔が少し険しいです」
俺は短く返した。
「違和感がある。気配のない何かに見られている感じだ」
しばらくして返ってきた。
「昨日の路地のことと、関係がありますか」
「あるかもしれない」
「授業が終わったら話しましょう」
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二時限目、三時限目と授業が続いた。
感覚は消えなかった。
廊下を歩く時も、階段を上る時も、教室に戻る時も、ずっとそこにあった。完全に無害な視線だ。敵意も殺気も何もない。ただ、見ている。見ているという事実だけが、確かにそこにあった。
橘将望の時の底が見えない薄さとも、確率操作の男の霧のような気配とも違う。もっと軽い。もっと小さい。だが——それが逆に、不思議だった。
小さいのに、消えない。
軽いのに、無視できない。
それが一日中、俺の周囲のどこかに貼り付いていた。
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昼休みになり、屋上に向かおうとした時、澪が隣に来た。
「感覚は続いていますか」
「続いている」
「どんな感じですか。もう少し詳しく教えてもらいたいです」
「気配がない。だが視線がある。視線の方向が、常に変わっている。後ろにいたかと思えば、右にいる。右にいたかと思えば、上にいる。一箇所に固定されていない」
「移動しながら見ている、ということですか」
「そうだ。だが足音もない。存在の気配も完全にない。もし本当にそこにいるとすれば——俺の気配読みを完全に遮断できる存在だ」
澪がノートに何かを書き込んだ。
「倉石先生に話しますか」
「もう少し待つ。今のところ害がない。もう少し様子を見る」
「わかりました。でも——何かあればすぐ言ってください」
「ああ」
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昼休みの終わりに、昇降口に立ち寄った。
特に理由があったわけではなかった。なんとなく足が向いた。
自分の下駄箱を開けると、入っていた。
四つ折りにされた、白い紙だ。
表に名前はなかった。ただ、俺の下駄箱に入っていた。
開いてみると、、、
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文字が、詰まっていた。
余白がなかった。
紙の端から端まで、隙間なく文字が並んでいた。ただ一つの言葉が、繰り返されていた。
好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き——
最後の行だけ、違う文字が書かれていた。
「体育館倉庫で待っています」
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俺はしばらく、その手紙を見ていた。
気味が悪い、という感情は出てこなかった。
代わりに——直感があった。
今日一日、ずっと感じていた違和感。気配のない視線。存在を感知できないのに確かにそこにある感覚。それが全部、この手紙に繋がっていた。
書いたのは、今日俺を見ていた何かだ。
確信があった。根拠を言葉にする前に、体がそれを知っていた。
行くしかなかった。
危険かもしれない。罠かもしれない。だが——今日一日の違和感の正体を確かめないまま終わらせることは、俺にはできなかった。
手紙を畳んで、ポケットに入れた。
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放課後になった。
「少し用がある」
「デートか?」
「違う、そんな気楽なものだったらそれだけよかったかな」
「澪ちゃんから手紙でも来たのかと思ったんだが」
「手紙は、来た」
「え、本当に?!」
「送り主は澪ではないがな」
「なんだ、、、」
澪には話していなかった。
話せば澪がついてくると言う。だが今回は一人で行くべきだと思っていた。理由は言葉にできなかった。ただ、そう感じた。
体育館に向かった。
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放課後の体育館は静かだった。
授業で使われた後の、片付けられた静けさだ。床が光を反射していた。
倉庫は体育館の奥にあった。
扉の前に立ち、気配を探った。
ない。
やはりない。扉の向こうに誰かがいるはずなのに、気配が完全にない。存在を感知できない。だが——いる、という確信はある。
扉を開けた。
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薄暗かった。
窓が一つだけあって、夕暮れの光が細く差し込んでいた。その光の中に、積み上げられた体育用具があった。マット、カラーコーン、ボール籠、跳び箱の段。それらが壁際に雑然と重なっていた。
その一番高い場所に。
少女が座っていた。
小さかった。子どもに近い体格だ。だが子どもではない。顔立ちが、どこか幼くて、どこか年齢不詳で、どちらとも判断できなかった。
髪が薄い色だった。白に近い、淡い色の髪が、肩の辺りで揺れていた。目が細くて、少し眠そうな印象だった。制服を着ていたが、どこのクラスかも、そもそもうちの学校の制服かもわからなかった。
少女が俺を見ていた。
笑っていた。
嬉しそうな顔で。まるでずっと待っていたおもちゃが、やっと届いたかのような顔で。
俺は少女を見た。
昨日、公園でお兄ちゃんと呼んできた女の子とは違う。体格も顔も違う。だが——何かが似ていた。雰囲気ではなく、もっと根本的な何かが。
少女が積み上げられた用具の上から、俺を見下ろして、口を開いた。
【あなた、私のお兄ちゃんになって】




