第106話「不思議な感覚」
城を作り終えた後、別の子どもが「マジック見せて!」と言い出した。
俺はマジックをやったことがない、と言おうとしたが子どもたちの目が一斉にこちらを向いていた。
俺は少し考えた。
コインを一枚取り出した。右手に乗せた。精密な操作でで、コインをほぼ見えないくらい高速で回転させた。コインが、光に溶けたように消えた。
「消えた!!」
左手を開いたとき、コインはそこにあった。
「なんで!!!!」
子どもたちが押し寄せてきた。「もう一回!」「手品教えて!」と声が上がった。
澪がベンチから来て、俺の隣にしゃがんだ。
「楽しそうですね」
「子どもは正直でいいな。喜ぶ時は全力で喜ぶし、楽し時は全力で笑う」
「あなたも笑っていますよ」
「そうか」
「そうです。こういう顔も、好きですよ」
俺は澪を見た。澪が視線を逸らした。
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しばらくして、最初に話しかけてきた女の子が「おままごとしよう!」と言い出した。
「おままごとか」
「うん! 魔王と勇者のごっこ遊びがいい!」
保育士の女性が「最近そのおままごとが流行っていて」と苦笑した。
「誰が魔王をやるんだ」
「お兄ちゃんが魔王!」女の子が即座に言った。
「なぜ俺が魔王だ」
「だってお兄ちゃん、魔王っぽいから!」
澪が噴き出した。笑いを抑えようとして、抑えきれなかった。「ごめんなさい」と言いながら笑っていた。
「澪が笑うのか」
「だって——魔王っぽいって言われて、あなたが一番困った顔をしているので」澪が言った。「珍しくて」
「困った顔をしていたか」
「しています。でも——やってあげてください。子どもたちが楽しみにしているので」
俺は子どもたちを見た。全員が期待の目でこちらを見ていた。
「わかった。やろう」
「やった!!!!」
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おままごとが始まった。
俺が魔王で、子どもたちが勇者だった。澪が「見ています」と言ってベンチに戻ろうとしたが、子どもたちが「お姉ちゃんも!」と言って引き止めた。澪が何役をやろうかと聞くと、女の子が「お姫様!」と即答した。澪が「……わかりました」と言って参加した。
俺が低い声で「よくも勇者どもめ、この城まで来たな」と言った。
子どもたちが「うわあ!!! 魔王だ!!!!」と叫んで、四方八方に逃げた。
設定と真逆だった。
「逃げるのか、勇者が逃げてどうする」
「だって怖い!!!」
「怖いなら魔王役をやれと言うな」
「でも怖かっこいいから!!!」
澪が笑い声を必死に抑えていた。「お姫様役なのに笑っているぞ」
「だってあなたがこんなに困っているのが面白くて」
結果的に、俺が子どもたちを追いかける展開になった。本来の魔王と勇者とは逆だったが、子どもたちは大喜びだった。
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一時間ほど遊んで、保育士の女性が「そろそろ」と声をかけた。
子どもたちが名残惜しそうに立ち上がった。
最初に話しかけてきた女の子が、俺の前に来た。
「また来る? お兄ちゃん」
「わからない」
「来てね!」
「約束はできない」
「来てね!!!!」
「……来るかもしれない」
「やった!!!!」
女の子が走って仲間のところに戻っていった。
保育士の女性が「ありがとうございました、二人とも」と頭を下げた。「あの子、初めて会う人にあんなに懐くことはないんですが——不思議と、あなたには初めから懐いていましたね」
「そうだったか」
「ええ。お兄ちゃんって呼んでいたのも、初めてでした」保育士の女性が言った。「名前も聞いていないのに」
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子どもたちが去った後、ベンチに二人で戻った。
澪が「楽しかったですね」と言った。
「そうだな」
「本当に砂でお城を作るとは思いませんでした。しかも精巧で、あそこまで壮大に」
「子どもが望んだから作った」
「あの力を砂遊びに使うんですね」澪が微かに笑った。「数百年分の技術が、お城作りに」
「悪いことではないだろ」
「全然悪くないです。むしろ——素敵だと思います。持っている力を、誰かを喜ばせるために使えることが」
俺はその言葉を受け取った。
「魔王時代は、そういう使い方をしてこなかったんでしょう」澪が続けた。
「そうだな。戦うためにしか使っていなかった」
「今は違いますね」
「そうかもしれないな」
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帰り道に差し掛かった頃、夕暮れが始まっていた。
橙色の光が、商店街の屋根を染めていた。
「今日、楽しかったです」
「俺もだ」
「即答でしたね」
「楽しかったから即答した」
「そうですか」澪が歩きながら言った。「こういう日が——たまにあるといいですね。次何かまた起きる前にも、こういう日があるといいと思いました」
「何か、か」
「二学期が進めば、また大きな戦いが来ます。覇級との戦いも、冥焔会との問題も、まだ終わっていない」澪が静かに言った。「でも今日みたいな日があったことを、覚えていたいです。何かがあった時に、こういう日のことを思い出せるように」
「俺も覚えている」
「本当に?」
「本当だ。忘れない」
澪が少し間を置いた。
「……今日、彼氏さんかと聞かれましたね」澪が静かに言った。
「そうだな」
「違います、と言いました」
「言っていた」
「でも」澪が前を向いたまま言った。「今日一日——デートみたいだったと、少し思っていました」
俺は澪を見た。澪が前を向いたままだった。耳が赤かった。
「そうだな」
「……同意してくれましたね」
「デートみたいだったと、俺も思っていた」
澪が歩くスピードが、ほんの少し遅くなった。
「……さらっと言いますね」
「本当のことだ」
「わかっています。でも——嬉しかったです、今日」
「そうか」
「そうです」
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商店街に戻ってきた頃だった。
田中老人の店の前を通った。老人が店の前を掃いていた。
「魔王さんじゃないか」田中老人が顔を上げた。「珍しい、日曜に来るとは」
「通りかかっただけです」
「隣のお嬢さんは」
「朝霧澪です」澪が頭を下げた。
「いい子じゃないか」田中老人が笑った。「魔王さんや、最近はどうだ。また強くなったか」
「少し」
「少し、か」老人が笑った。「謙遜するやつになったな。前は何も言わんかった」
「そうでしたか」
「そうじゃった」老人が箒を止めた。「何か変わったか、お前さんに」
俺は少し考えた。
「変わったかもしれません」
「そうか」老人が頷いた。「悪くない顔をしとる。前は何かを探している目をしていたが、今は——少し違う目だ」
「何が違いますか」
「答えが少し見つかってきた目じゃ」老人が静かに言った。「まだ全部ではないがな」
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田中老人と別れて、駅に向かった。
夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばしていた。
「田中さん、いい人ですね」
「そうだな」
「あなたのことをよく見ている」
「昔から、そういう人だ。先祖が魔王時代の戦いを目撃していたと言っていた」
「そうでしたね」澪がしばらく歩いた。「縁がある人がいるんですね、あなたの周りには。田中さんも、ヴィオラさんも、ルナさんも——前の時代から繋がっている人たちが」
「そうだな」
「今の仲間たちは——初めて繋がった人たちですよね。この時代で、初めて」
「そうだ」
「その中に、私もいますか」
「いる」
澪が少し止まった。
それから、また歩き出した。
「……よかったです」澪が静かに言った。
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駅の前で別れた。
澪が「今日はありがとうございました」と言った。
「俺が誘ったわけではないが」
「でも付き合ってくれたので。また、こういう日があればいいですね」
「そうだな」
「次は私が行き先を決めてもいいですか」
「どうぞ」
「では考えます」澪が言った。「あなたが喜ぶ場所を」
「俺が喜ぶ場所か」
「難題でしたか」
「難題だ」
「考えます」澪が微笑んだ。「おやすみなさい、黒瀬くん」
「おやすみ」
澪が改札を通って、消えた。
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一人になった。
夕暮れの駅前に、人が行き交っていた。
今日という一日を、頭の中で辿った。澪と歩いた。お婆さんの荷物を持った。子どもたちと砂場で遊んだ。魔王と勇者のおままごとをした。田中老人と話した。
全部が、普通の一日だ。戦いも、訓練も、作戦もない。ただの、一日だ。
だが——悪くなかった。
むしろ。
「楽しかった」
俺は静かに言った。誰にも届かない声で。
夕暮れの駅前に、その言葉が溶けた。
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帰り道の途中だった。
横の路地を通り過ぎようとした時、気配を感じた。
いや。
感じなかった。
それが、おかしかった。
路地の向こうに、誰かがいる気がした。だが気配がない。完全に、存在の気配がなかった。だが視界の端に、人影のようなものが見えた気がした。
振り返った。
路地に、誰もいなかった。
だが——何かがあった感覚が、消えなかった。気配のない何かが、そこにいた感覚が。
俺は路地を確認した。
誰もいなかった。
風が吹いた。
その時、声が聞こえた気がした。
ほんの一瞬だった。
子どもの声だった。
「お兄ちゃん」
振り返った。
誰もいなかった。
商店街の雑踏の音が、遠くから聞こえていた。
俺は少し立っていた。
今日、公園で最初に話しかけてきた女の子の声に似ていた。だがあの子は、とっくに帰っているはずだ。
気のせいかもしれない。
だが——気配のない人間が、この世に存在するとしたら。
俺はもう一度、路地を見た。
誰もいなかった。
風だけが、路地を通り過ぎていった。
「まあ」
俺は歩き出した。
「なんとかなるだろ」
いつも出ている口癖が夕暮れの街に溶けたが、今日に限っては——少しだけ、確信が薄かった。




