第105話「平和な一日」
二学期が始まって、一週間が経った、日曜日だった。
珍しく、何も予定がなかった。颯は里中と訓練を、城島は家の用事が、ヴィオラとルナは二人で出かけるらしい。
そういう日だからこそ、澪からメッセージが来た。
「今日、時間はありますか」
「ある」
「では——一緒に出かけませんか。特に目的はないですが」
特に目的はない、という言葉が澪らしかった。澪が目的なしに何かを提案する時、それは珍しいことだ。普段は全て理由があって動く人間だ。だから今日は、ただ出かけたいということなのだろう。
「どこに行く」
「どこでもいいです。あなたが決めてください」
「俺が決めるのか」
「はい。あなたが行きたい場所に行きます」
俺は少し考えた。行きたい場所、というものを、久しぶりに考えた。
「商店街がいいかもな」
「商店街ですか」
「この前、田中さんという老人と話した場所だ。もう一度行きたかった」
少し間があった。
「……素敵な理由ですね。では十時に駅前で」
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澪が駅前に来た時、いつもの制服ではなかった。
白いブラウスに、淡い青のスカートだった。髪をいつもより少し丁寧にまとめていた。眼鏡は同じだ。だが全体の印象が、学園にいる時とは少し違った。
俺を見て「お待たせしました」と言った澪の耳が、わずかに赤かった。
「待っていない」
「五分前に来てしまったので」
「俺も五分前に来た」
澪が少し目を丸くした。
「……待ち合わせに五分前に来るんですね」
「来ないのか」
「来ます。でも——あなたが来るとは思っていませんでした。時間に頓着しないタイプだと思っていたので」
「約束した時間は守る」
「そうですか」澪が微かに笑った。「では行きましょう」
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商店街に向かって歩き始めた。
日曜日の朝の街は、平日より人が多かった。家族や老夫婦がゆっくり歩いていた。そんな中を子どもが自転車で走り抜けていった。どこにでもある、普通の日曜日の景色だ。
澪が隣を歩きながら、静かに言った。
「今日は何も考えないことにしました」
「何も考えない?」
「はい」澪が頷いた。「作戦も、情報整理も、次の準備も——今日は全部しない。ただ歩く、それだけの日にしようと思って」
「そういう日が必要だったか」
「たまには」澪が言った。「あなたはどうですか。今日は何も考えないでいられますか」
俺は少し考えた。
「考えないことを考えている」
「それは考えているのでは」
「そうかもしれない」
澪がため息をついた。だが笑いが混じっていた。
「あなたと歩くと、なんか変な会話になりますね」
「そうか」
「そうです。でも——嫌いじゃないです」
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商店街に入った。
シャッターが閉まっている店もあったが、開いている店の方が多かった。惣菜屋の前を通ると、揚げ物の匂いがした。八百屋が店先に野菜を並べていた。小さな雑貨屋のウィンドウに、見覚えのない小物が並んでいた。
澪が雑貨屋の前で止まった。
「見てもいいですか」
「どうぞ」
澪がウィンドウを覗き込んだ。小さなガラス細工が並んでいた。動物の形をしたもの、花の形をしたもの、色とりどりだった。
「綺麗ですね」
「そうだな」
「こういうものに興味はありますか」
「特にない」
「正直ですね」澪が笑った。「私は——こういう、あまり実用的ではない、ロマンのあるものが好きです」
「実用的ではないのか?」
「最近のガラスは優秀なものも多くなっていますが、それでもプラスチックなどの方がまだ、実用性があるといえます。」澪が言った。「でもあるだけで、なんか嬉しくなるんですよね。実用的でなくても、あっていいものってあると思うんです」
俺はその言葉を、少し頭の中で転がした。
「そうだな」
「同意してくれましたね」
「ロマンのあるものがある方が、人生が豊かだと思う」
「魔王時代にもそう思っていましたか」
「思っていなかった。だが、今は思っている」
澪が静かに微笑んだ。
「成長しましたね」
「そうかもしれない」
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商店街の中ほどまで来た時だった。
前方で、一人のお婆さんが大きな荷物を抱えて立っていた。買い物袋が三つ、両手に下がっていた。その重さで、少し体が傾いていた。
俺は足を止めた。
お婆さんに近づいた。
「持ちます」
お婆さんが驚いた顔をした。
「魔王さんじゃないか。でも悪いわねえ、頼んでもいいのかい?」
「どこまで行きますか」
「すぐそこなのよ。三軒先の——」
「持ちます」俺は荷物を受け取った。
お婆さんが「まあ、ありがとう」と言って、嬉しそうな顔をした。
澪が俺の隣を歩きながら、小声で言った。
「自然にやるんですね」
「重そうだったから」
「そういうことをさらっとできる人は、、、、
好きですよ」
「、、、、そうか」
「そうです」
三軒先まで荷物を届けた。お婆さんが「良い人ね、彼氏さん?」と澪に聞いた。
「ち、違います!」
「そう? お似合いなのに」そう言い、微笑ましそうにこちらを見ながらお婆さんは家の中へと入った。
澪が俯いて歩き出した。耳が赤かった。
「違います、と言っていたな」
「言いました」
「そうか」
「そうです」澪が前を向いたまま言った。「……今は、違います。今は」
「今は、という言い方だな」
「それ以上は聞かないでください」
「まあいいだろ」
そう言った煉の顔には自然と笑みが溢れていた。
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商店街を抜けた先に、小さな公園があった。
平日は静かな公園だが、日曜日だからか、何組かの親子連れがいた。
その中に、幼稚園児くらいの子どもたちが十人ほど、保育士らしい女性と一緒にいた。日曜日の課外活動だろうか。子どもたちが砂場で遊んでいた。
澪が「少し休みますか ベンチがあります」と言った。
ベンチに座ると、澪が水を取り出し、俺にも差し出した。
「ありがとう」
「お礼を言われることじゃないです」
しばらく、公園の景色を見ていた。子どもたちが砂場で何かを作っていた。保育士の女性が微笑んで見ていた。
その時、一人の子どもが砂場から出てきて、こちらに向かって走ってきた。
四歳か五歳くらいの女の子だ。茶色い髪をツインテールにしていた。頬が丸かった。走り方がおぼつかなかったが、速かった。
俺の前で止まった。
上を見上げた。
「お兄ちゃん!」
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俺は少し止まった。
この子と会ったことはない。見覚えもない。だが女の子は、初めて会う人間に対するような顔をしていなかった。
「お兄ちゃん、砂でお城作って! 上手に作れなくて!」
「俺に言っているのか」
「うん! お兄ちゃんなら作れる気がする!」
澪が隣で小さく笑っていた。「お兄ちゃん呼びされていますね」と小声で言った。
「そうだな、不思議な感覚だ」
「行かないの?」女の子が言った。
「気にするな、行こうか」
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砂場に向かった。
他の子どもたちが俺を見て集まってきた。「お兄ちゃん誰?」「背が高い!」「かっこいい!」と口々に言った。
保育士の女性が「すみません、うちの子たちが」と心配そうに頭を下げたが、俺は「構いません」と目線を外しながら言った。
砂場にしゃがんだ。
子どもたちが全員、周りに集まってきた。
「お城を作りたいのか」
「うん! 大きいお城!」
「わかった」
俺は砂を集め始めた。
魔王時代の力量操作と人間に転生してから培ってきた精密操作を極限まで繊細に、指先に集中させた。砂の一粒一粒を、精密に動かした。積み上げる、固める、形を作る。それを全ての指で同時にやった。
子どもたちが息を呑んだ。
砂が、俺の手の周りで動いていた。
一分後。砂場の中央に、精巧な砂の城が立っていた。子ども五人分の背丈ほどの高さはなかったが、塔があって、門があって、城壁があった。
「すごい!!!」子どもたちが一斉に叫んだ。
「魔法みたい!」
「お兄ちゃん、魔法使い?」
「違う」
「じゃあなに?」
俺は少し考えた。
「ただの通りすがりだ」




