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第102話「過去、その少女の残したもの」

その朝は、妙に騒がしかった。


魔界において、騒音そのものは珍しくない。怒号や悲鳴、衝突音――それらは常にどこかで鳴っている。だが、その日に限っては違っていた。


そこに混じっていたのは、暴力の音ではない。


もっと粘りつくような、湿った熱。


興奮と、好奇と、期待が混ざり合った、異様なざわめきだった。


まるで――見世物を前にした群衆のように。


「……?」


浅い眠りから目を覚ましたヴァルセイドは、その違和感にわずかに眉をひそめた。


胸の奥が、ざわついている。


理由は分からない。


だが、本能が何かを拒んでいるような、不快な感覚だった。


嫌な予感がする。


それでも、確かめずにはいられなかった。


煉はゆっくりと立ち上がり、外へと足を向けた。


---


外に出た瞬間、その異様さはより明確になる。


普段はそれぞれが勝手に動く魔族たちが、一箇所に集まっている。円を描くように、中心を囲み、誰もが同じ方向を見つめている。


その視線の先に、“何か”がある。


ヴァルセイドは無言のまま歩き出した。


本来であれば、彼が近づけば何らかの反応があるはずだった。嘲笑か、あるいは軽い暴力か。だがこの時ばかりは、誰一人として彼に注意を払わない。


それほどまでに、中心にあるものが“面白い”のだろう。


人の隙間に身体を滑り込ませる。


視線を向ける。


そして――


視界が、開けた。


その瞬間、時間が止まったように感じた。


思考が、追いつかない。


理解が、現実を拒絶する。


「……は?」


喉から漏れたのは、言葉にもならない音だった。


そこにあったのは――


彼女だった。


だが、それはもはや“彼女”と呼べるものではなかった。


全身は血に塗れ、衣は裂け、皮膚は無数の傷に覆われている。斬撃だけではない。焼かれ、叩き潰され、削られた痕跡が、容赦なく刻まれていた。


片腕は不自然に折れ曲がり、指先は力なく震えている。


そして――


その瞳だけが、まだ閉じられていなかった。


「……なんで」


声が、やけに遠く感じる。


現実味がない。


まるで夢の中の出来事のように、すべてがどこか曖昧だった。


だが、周囲の反応はあまりにも現実的だった。


「お、来たぞ。“最弱”」


「いいタイミングだな」


「ほら見ろよ、お前の“守り手”の末路だ」


笑い声。


軽い調子の言葉。


それらが、容赦なく耳に入ってくる。


誰かが、肩をすくめながら言った。


「やったのは“上”だ」


その一言で、すべてが繋がる。


魔界の上位に位置する者たち。


個ではなく、集団で。


力を合わせて、一人を潰した。


理由は単純だ。


――気に入らなかったから。


それだけのこと。


煉の中で、何かがきしむ。


だが、それはまだ形を持たない。


怒りでも、悲しみでもない。


ただ、重く沈む何か。


煉は、一歩踏み出そうとした。


だが、足が動かない。


前に進まなければならないと分かっているのに、身体がそれを拒んでいる。


(行け)


どこかで声がする。


(行かなきゃいけない)


分かっている。


それでも――動かない。


怖いわけではない。


むしろその逆だった。


目の前の現実を、認めてしまうことが怖かった。


だが。


その時。


彼女の瞳が、わずかに動いた。


ほんのわずかに。


それでも確かに。


ヴァルセイドの方を見た。


「……ゔぁる、せ、いど、」


かすれた声。


その一音が、すべてを引き戻した。


次の瞬間、煉の身体は勝手に動いていた。


人の間を押しのけ、駆け寄り、彼女の前に膝をつく。


「……なんでだよ」


初めてだった。


内側に閉じ込めていた感情が、そのまま外へと漏れ出たのは。


「なんで、こうなってる」


問いに意味はない。答えが返ってくるはずもない。それでも、口にせずにはいられなかった。


彼女は、微かに笑った。


血が、口元から零れ落ちる。


「……いいの、私のことなんて」


その声は、今にも消えてしまいそうだった。


「それより、これから私はあなたを守ってあげられないわ。しっかりできるわね、、、?」


「やめて、、、もうやめて、喋らないで、俺のことなんかどうでもいいから生きてよ、生きてよ!」


「それは厳しいお願いね。」彼女は朗らかな笑みをこぼした。


「流石の私でも叶えてあげられそうにないわ。だから、代わりになるかわからないけど、これ……あげる」


震える手が、ゆっくりと差し出される。


煉は、それを受け取った。


黒い剣。


光を吸い込むような、底の見えない刃。


触れた瞬間、ぞくりとした感覚が背筋を走る。


冷たい。


重い。


まるで、意志を持っているかのような存在感。


「……あなたなら」


彼女の声が、遠くなっていく。


「使える……から」


「待て」


思わず、言葉が出た。


それは命令でも、懇願でもない。


ただ――止めたかった。


「まだ、話が――」


「……ごめんね」


その言葉で、遮られる。


わずかな悔しさが、そこに滲んでいた。


「守ってあげれなくて、、、」


その一言に、思考が止まる。


守る?


何を?


誰を?


だが彼女は、もうその先を見ていた。


終わりを、受け入れていた。


「……生きて。頂点を、、、取るのよ」


たった一言。


それだけを残して。


彼女の瞳から、光が消えた。


完全に。


もう二度と、動くことはない。


---


音が、消えた。


周囲のざわめきも、笑い声も、すべてが遠ざかる。


世界が、静止する。


煉は動かなかった。


ただ、黒剣を握りしめたまま、彼女の亡骸を見つめ続ける。


「終わったな」


誰かが言う。


「やっぱり、数で押せばどうにでもなるな」


「結局あの程度だろ」


軽い調子の会話。


まるで、遊びが終わった後のように。


「おい、“最弱”」


別の声が、煉に向けられる。


「次はお前か?」


挑発。


だが――


誰も構えない。


誰も警戒しない。


「やめとけって」


「そいつ殺したら、遊び相手いなくなるだろ」


「そうそう、“残しとく枠”だ」


笑い声が重なる。完全に見下している態度。


だが煉は、何も返さない。


ただ、彼女から託された黒剣を握る。その手に力がこもり、指先が白くなる。


それでも、離さない。


やがて、周囲の者たちは興味を失ったように散っていく。


残されたのは――


煉と、彼女の亡骸だけ。


静寂。


風の音だけが、かすかに響く。


「……ああ」


ぽつりと、声が漏れる。


「……そうか」


ゆっくりと、理解していく。


何が起きたのか。


なぜこうなったのか。


そして――


自分が、何もできなかったという事実を。


「俺は……」


喉が焼けるように熱い。


言葉が、重い。


「何も持ってなかった」


それがすべてだった。


力も、守る術も。


何も。


だから――奪われた。


最初から。全部。


「……なら」


黒剣を、強く握る。


その刃が、わずかに脈打つように感じる。


応えるように。


「……手に入れるしかないよな」


低く、押し殺した声。


「全部」


視線が、変わる。


「全部、奪ってでも。とってやるよ、頂点ってやつを」


その瞬間だった。


“最弱”は、終わった。

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