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第101話「最弱だった、あの頃の話」

 話し始める前に、俺は少し空を見た。


 非常階段の踊り場から見える空は、狭かった。建物と建物の間に切り取られた、細長い青だ。だがその青は、確かにそこにあった。


「長い話だ」俺は言った。「信じられない部分があっても、最後まで聞いてくれ」


 東雲が小さく頷いた。


「俺は——この体になる前に、別の世界で生きていた」


 東雲が俺を見た。何も言わなかった。


「魔界と呼ばれる世界だ。人間の世界とは違う。強さが全てで、弱い者は価値がないとされていた場所だ」俺は続けた。「お前が今いるこの学園も、異能の強さで序列が決まる。似ているだろ」


「……たしかに似ていますね」東雲が静かに言った。


「その世界で、俺は最弱だった」


---


 東雲が止まった。


 Sランクのエンブレムをつけた人間が、最弱だったと言った。その言葉の意味を、頭の中で処理しようとしているのが見えた。


「最弱、というのは——」東雲が少し動揺した。「黒瀬くんが最弱なんてあるはずないじゃないですか、、、」


「文字通りの意味だ。その世界に生きるもの全員の中で、俺が一番弱かった。力がなかった。異能どころか、普通の存在が当たり前に持っている力さえ、俺にはなかった」


「でも今は——」


「今の話は後だ。まず昔の話を聞いてくれ」


 東雲が口を閉じた。


「弱いということが、どういうことか」俺は静かに言った。「強さが全ての世界で弱いということが、どういうことか。お前には、わかるだろ」


 東雲がゆっくりと頷いた。


「わかります」


「だから話す」


----


魔界という場所は、常にどこか歪んでいた。


空は暗く淀み、地面はひび割れ、風は乾いている。そこに満ちているのは、生の気配ではなく、常に死の影だった。だがこの世界に生きる者たちにとって、それは特別なことではない。むしろそれが“正常”であり、そこに疑問を抱くこと自体が異端だった。


この世界において、価値はただ一つしか存在しない。


――強さ。


それだけが絶対であり、それ以外はすべて切り捨てられる。


ゆえに、弱者は存在することすら許されない。


ただし、例外が一つだけある。


「おい、見ろよ。“最弱”が来たぞ」


嘲るような声が、乾いた空気を裂いた。


その声に続くように、周囲からくすくすと笑いが広がる。だがそれは楽しげなものではなく、どこか飽きの混じった、退屈しのぎのような笑いだった。


呼ばれた少年――ヴァルセイドは、足を止めなかった。


振り返ることもなく、ただ静かに歩き続ける。その背に向けて、さらに言葉が投げつけられる。


「今日の餌、あいつにやるか?」

「いや、もったいねぇだろ。あれに食わせるくらいなら地面に捨てた方がマシだ」

「はは、確かにな。犬の方がまだ価値あるな」


笑い声が重なる。


ヴァルセイドは何も言わなかった。


怒りも、悲しみも、表に出すことはない。出したところで何も変わらないことを、彼はすでに理解していたからだ。


そもそも、この状況は今に始まったことではない。


物心ついた頃から、彼は“最弱”と呼ばれていた。


特別な力があるわけでもない。

知略に優れているわけでもない。

身体能力が高いわけでもない。


この世界において、何一つ“価値”を持たない存在。


それが、彼だった。


その日も、食事は与えられなかった。


空腹はとうに慣れている。腹が鳴る感覚も、いつしか意識の外へと押しやられていた。ただ、身体が少しずつ削れていくような感覚だけが、じわじわと残り続ける。


それでも、彼は生きていた。


理由は分からない。


ただ、死ななかった。


それだけだ。


---


そんなある日だった。


いつものように人目のつかない場所に座り込み、ただ時間が過ぎるのを待っていた煉のもとへ、一つの影が差した。


「……まだ生きてるのね」


不意にかけられた声に、ヴァルセイドはわずかに顔を上げた。


そこに立っていたのは、一人の少女だった。


年齢はそう変わらないように見える。だが、その立ち姿には明らかな違いがあった。隙がない。無駄がない。空気そのものが、彼女を中心に張り詰めているような錯覚を覚える。


――強者だ。


見ただけで分かる。


この世界において、上に立つ者の“気配”。


「……なんで生きてるの?」


少女は興味深そうに首を傾げた。その問いに悪意は感じられなかった。ただ純粋な疑問として投げられている。


ヴァルセイドは少しだけ考えたあと、短く答えた。


「……死なないから」


それが、彼にとっての事実だった。


少女は一瞬だけきょとんとしたあと、小さく笑った。


「変なの」


そう言って、彼女は何の躊躇もなく煉の隣に腰を下ろした。


その瞬間、周囲の空気がわずかにざわつく。


視線が集まる。


だが、誰も近づいてこない。


それは当然だった。


彼女は、強い。


この魔界の中でも、数えるほどしかいない上位の存在。その隣にいる限り、どれだけ“最弱”であっても手出しはできない。

---


それからというもの、少女は毎日のように煉の前に現れた。


「ほら」


そう言って、何気なく食べ物を差し出してくる。


最初のうちは警戒した。罠かもしれないと疑った。だが、少女はそんな素振りを一切見せず、ただ当然のようにそれを差し出してくる。


「食べないなら捨てるけど」


その言葉に、ヴァルセイドはゆっくりと手を伸ばした。


久しぶりに口にした食事は、味を感じる前に喉を通っていった。それでも、身体がそれを欲しているのは分かった。


「……うまい」


ぽつりと零れた言葉に、少女は満足そうに微笑む。


「でしょ」


それだけのやり取り。


だが、それが繰り返されるうちに――


それは確かに、“日常”と呼べるものになっていった。


---


ある日、少女は遠くで繰り広げられている争いを眺めながら言った。


「ねえ、なんで抵抗しないの?」


血が飛び、肉が裂ける音が響く中での問いだった。


ヴァルセイドはその光景から目を逸らすことなく答える。


「……勝てないから」


「やってみなきゃ分からないでしょ」


「分かる」


即答だった。


「全部、見てる」


誰がどれだけ強いか。どんな動きをするか。どこに隙があるか。


ヴァルセイドはずっと観察していた。


生き延びるために。


無意味な抵抗をしないために。


少女はその答えを聞いて、少しだけ考えるように目を細めた。


「……そう」


それ以上は何も言わなかった。


否定もしなかった。


ただ、その事実を受け入れるように。


---


それでも、少女は変わらず隣にいた。


誰も近づかない場所で、誰も関わらない時間に。


「ねえ煉」


「……」


「もし、全部壊せる力があったら、どうする?」


唐突な問い。


煉は少しだけ考えた。


そして、


「……別に」


と答える。


「興味ない」


本心だった。


欲しいと思ったことがない。


持ったところで、どう使うのか分からない。


少女はその答えに、少し驚いたように目を見開いたあと、くすりと笑った。


「つまらないのね」


「そうかもな」


短いやり取り。


だが、その時間は確かに穏やかだった。


この魔界ではありえないほどに。


---


しかし――


そんな日常は、長くは続かなかった。


歪みは、確実に蓄積していた。


強者が弱者を庇うという異質な関係。

それによって奪われた“遊び”。

積み重なる不満と苛立ち。


それらが、一つの結論へと収束していく。


――排除。


この時、ヴァルセイドはまだ知らなかった。


この小さな日常が、どれほど脆いものだったのかを。


そして、それが壊れた時――


自分が、何になるのかを。

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