第100話「最弱と、過去の話」
東雲が話し始めたのは、踊り場に沈黙が落ちてから五分ほど経った頃だった。
最初は短かった。
「……あいつらとは、入学してすぐから、です」
それだけ言って、また黙った。俺は何も言わなかった。急かさなかった。東雲が話す準備をしているのがわかったから、無理に引き出す必要はない。そう考えた。
しばらくして、また声が出た。
「最初は、ちょっとからかわれる程度でした。でも——だんだん、エスカレートして」
「今はどのくらいの頻度だ」
「毎日、じゃないですけど。週に、三日か四日は」東雲が弁当を持つ手に力を込めた。「昨日みたいなことが、ずっと続いています」
「どのくらい続いているんだ」
「一学期が始まってから、ずっとです」
一学期が始まってから。約四ヶ月間だ。毎週三日から四日。それだけの時間、あの廊下の角みたいな状況が繰り返されていた。
「教師たちには言っていないのか」
「言えないです」東雲が首を振った。「言ったら、もっとひどくなると思って」
「他の生徒には」
「友達が、いないので」東雲が静かに言った。事実を述べるような、感情を抑えた声だった。「一年生になってから、誰とも仲良くなれなくて。それも——多分、これのせいで」
「これ、というのは」
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東雲が少し間を置いた。
弁当を踊り場の手すりに置いて、両手を見た。その手を、しばらく見ていた。
「俺の異能のことです」東雲が言った。「知ってますか、最弱って言葉」
「ああ、もちろんだ」
「俺の異能、本当に最弱なんです。名前は体弱化。自分の体を弱くする異能です」
俺は少し止まった。
「自分の体を、弱くする」
「そうです」東雲が自嘲するように笑った。笑いに、力がなかった。「強化系でも操作系でも変換系でもなくて、自分の体を弱らせる異能なんです。常時発動していて、止めることもできない。だから一般の人間より体力が低くて、持久力もなくて、普通の運動も人より下です」
「制御はできないのか」
「できないです。生まれた時からずっとこれで、弱くなる一方で」東雲が手すりを掴んだ。「覇凰学園に入れたのは、テストの筆記で点数が良かったからです。実技はほぼ最下位でした。入学してからも、訓練で毎回一番最後まで残っていて——それをあいつらに笑われて、始まりました」
俺はその話を、黙って聞いていた。
体弱化。自分の体を弱くする異能。制御できない。常時発動。一般人より弱い。
異能者の学園に、そういう生徒がいる。笑いの種にされる。廊下の角に追い詰められる。助けを求めることすら諦めた目になる。
全部が、繋がった。
「だから——誰も近づいてこないんです」東雲が続けた。「弱い異能を持っている人間は、迷惑だって思われる。足を引っ張るって。最初は気を遣ってくれる人もいたけど、だんだん離れていって——今は、誰もいないです」
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東雲が手すりから手を離した。
また俯いた。
「黒瀬くんが言ってくれた通り、話せました」東雲が言った。「でも——話しても、どうにもならないと思っていて。どうせ変わらないから」
「なぜそう思う」
「だって——」東雲が顔を上げた。「俺の異能は、変わらないんです。弱くなる一方で、強くなる方向がない。努力の方向がない。どれだけ頑張っても、体弱化が全部打ち消す。そういう異能なんです」
「それを、誰かに言われたのか。努力の方向がないと」
「自分でわかります。黒瀬くんは無能者でもSランクになった。だから努力が報われると思う人もいる。でも——俺は違うんです。無能者は異能がないだけだけど、俺は異能のせいで普通より弱い。同じじゃないんです」
俺は東雲の言葉を、頭の中で整理した。
「そうかもしれない。同じではないかもしれない」
「でしょ」東雲が少し投げやりな声になった。「だから黒瀬くんが俺の気持ちわかるって言っても——わからないと思います。強いし、かっこいいし、無能者でもSランクになった人が、俺の何がわかるんですか」
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東雲の声に、熱が混じっていた。
それまでの抑えた声とは違う。感情が、表面に出てきていた。
「みんなそうなんです」東雲が続けた。「頑張れって言う。前を向けって言う。でも俺の異能は弱くなる一方で、頑張る方向がわからなくて、前を向いた先に何があるかもわからない。それでも頑張れって言う人の気持ちがわからない」
「そうだな」
「黒瀬くんも、そう言うんですよね」東雲が言った。「頑張れとか、大丈夫だとか。でも——本当に大丈夫かどうか、わかるんですか。俺の何がわかるんですか。Sランクで強くてかっこよくて、何でもできる人に、俺の気持ちがわかるわけない」
東雲の目が赤くなっていた。
半ば逆ギレのような言葉だった。だが俺には、それが逆ギレに見えなかった。ずっと言えなかったことが、初めて出てきた言葉だ。誰にも言えなくて、言っても無駄だと思っていて、それでも今日初めて口から出てきた言葉だ。
俺はその言葉を、静かに受け取った。
「そうかもしれない。俺が強いのは事実かもしれない。Sランクなのも本当だ。お前の気持ちが全部わかると言えば、嘘になる」
「でしょ」
「だが——」
「だが、何ですか」東雲が俺を見た。その目に、怒りと悲しみが混在していた。「どうせ、それでも頑張れとか言うんでしょ。みんなそう言う」
「言わない」
東雲が止まった。
「言わない」俺はもう一度言った。「頑張れとは言わない。今は言える状態じゃないとわかるから」
「じゃあ、何と言うんですか」
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俺は少し間を置いた。
東雲が俺を見ていた。怒りと悲しみの混じった目で、俺を見ていた。
「俺の気持ちはわからないと言いましたよね。それは認めてくれた。でも——それだけですか。結局、何も言えないんですか」
「何の面白みもない昔話をしようか」俺は静かに言った。
「どういうことですか」
「俺の過去の話を、しよう」
東雲が少し止まった。
「黒瀬くんの、過去?」
「お前はこの学校で流れている、俺が魔王の転生体であるという噂を聞いたことはあるか?」
「小耳に挟む程度には」
「なら話が早いな。あれは噂なんかでもなく、紛れもない事実だ。」
「にわかには信じられないですが、、、」
「信じてもらわなくてもいい、ただ聞いてくれさえすれば」
俺は踊り場の手すりに背中を預けた。「お前の気持ちが全部わかるとは言えない。だが——異能がないことを笑われた経験は、俺にもある。誰にも理解されないと思っていた時間も、俺にはある」
「でも黒瀬くんは——」
俺は遮らずに、ただ静かに言った。「長い話になるかもしれない。それでも、聞いてくれるなら話す」
東雲がしばらく俺を見ていた。
怒りが、少しずつ引いていく様子があった。代わりに、何かを測るような目になった。この人間は信用できるのか、という目だ。子どもが初めて大人を試す時の目に似ていた。
「……聞きます」東雲が静かに言った。
「そうか」
俺は踊り場の端に座った。東雲も、少し迷ってから隣に座った。
二人分の沈黙が、非常階段の踊り場に落ちた。
風が通った。
俺は話し始めた。




