90、皇帝陛下、カエダマをご所望です
帝国の最高権力者が放った一言は、地を揺るがすような大号令なんかじゃなく、ただの食いしん坊の我が儘だった。
だけど、その破壊力はそこらの攻撃魔法よりも凄まじかったらしく、会議室の中は一瞬でパニック映画の終盤みたいな大騒ぎになった。
「へ、陛下!? 何を仰いますか! そのような素性の知れぬ、異端の毒物とも限らぬものを口にされるなど、絶対にあってはなりません!」
宰相のトライさんが、座っていた椅子をひっくり返さんばかりの勢いで立ち上がり、両手を激しく振り回しながら叫んだ。今の姿は、さっきまでの冷酷な官僚とは別人だった。
技術主任のライブラさんにいたっては、ショックのあまり本当に呼吸が止まっていたらしく、隣の若い研究員に背中をドンドン叩かれてようやく「ひゅっ」と息を吹き返していた。
しかし、ヒグマのような皇帝おじさんは、そんな部下たちの必死の懇願を、うるさいハエでも追い払うように大きな手で一蹴した。
「だまれ、トライ。余はな、昨夜から警備兵どもの間で『あの濃厚なスープが脳の髄まで染み渡る』だの『チャーシューという肉の塊が口の中でとろけた』だのという報告書ばかり読まされているのだ。ただでさえ、徹夜の書類仕事で腹が減っているというのに、そんな嫌がらせのような報告を聞かされて、我慢できると思うか?」
まさかの、報告書による飯テロ被害者だった。
どうやら帝国の真面目な警備兵さんたちは、昨夜のラーメンの感動をそのまま公式の任務報告書に書き連ねてしまったらしい。上司への嫌がらせとしては最高に効果的だけど、それを読まされた皇帝の胃袋が限界を迎えるのも、まあ理解できなくはない。
「しかし陛下! あれは聖王国いえ、千波領の魔女どもが持ち込んだ、精神を汚染する呪いのスープに違いありません! 我が国の精鋭たちが、たった一杯の麺のために、いとも容易く警備を放り出してカエダマなどと叫んでいたのですよ!」
トライ宰相がなおも食い下がる。彼の目には、わたしたちが世界をスープで滅ぼそうとする悪の組織に見えているのだろう。
すると、隣にいたセシールが、これ以上ないくらい清々しい、アイドルのような営業スマイルを浮かべて手を挙げた。
「あの、失礼いたします。トライ様。そちらのスープですが、呪いでも何でもなく、ただの豚の骨と数種類の野菜を十時間以上煮込み、そこに醤油と秘密の調味料、それからたっぷりの背脂を掛け合わせた、極めて科学的なカロリーの結晶でございます。精神汚染ではなく、単なる血糖値の急上昇による多幸感ですね」
セシールの丁寧な解説は、かえってトライ宰相を恐怖させたみたいだった。彼は「か、科学的なカロリーの結晶……!」と、まるで禁断の古代兵器の名前でも聞いたかのように戦慄している。ただのラーメンのレシピなんだけどな。
皇帝は満足そうに深く頷くと、テーブルを拳でドスンと叩いた。
「実に素晴らしい。セシールとやら、今すぐその『カロリーの結晶』とやらをここで作れ。余が直々に毒見をしてやろう」
「かしこまりました。千波様、よろしいですね?」
セシールに話を振られ、わたしはただ、小さく溜息をついて肩をすくめるしかなかった。
「いいよ、もう。ここまで言われて出さないのもケチくさいし。どうせなら、そこの隈だらけの大人たち全員分も作ってあげて。みんな、お腹が空きすぎて顔が怒ってるみたいだから」
わたしの言葉に、帝国側の官僚たちが一斉にギクリと身体を強張らせた。
ここはお堅い帝国の中央魔導技術院、その中でも最高ランクの機密を扱うための高級会議室だ。そんな場所に、まさか今から出張ラーメン屋台がオープンするなんて、設計した建築家も夢にも思わなかっただろう。
すぐに、ドックに停めてあるトレーラーから、大尉たちの手によって調理器具と仕込み済みのスープの寸胴が運び込まれてきた。
大尉は頭の草をカサカサと鳴らしながら、無駄にキビキビとした軍隊式の動きで、大理石の床の上にガスコンロを設置していく。
その様子を、帝国の学者たちが「あれが未知の熱源機関か……」「なんと無駄のない洗練された動作だ」とか小声で分析しているのが、おかしくてたまらない。
ただのカセットコンロと、ちょっと手際のいいおじさん兵士なのだが、彼らのフィルターを通すとすべてが超科学の遺物に見えるらしい。
セシールが白い割烹着をドレスの上から羽織り、髪を後ろでまとめると、会議室の一角は一瞬で深夜のガード下にある赤提灯の雰囲気に早変わりした。
コンロに火が点けられ、寸胴の中のスープが温まり始めると、あの独特の、強烈な豚骨の匂いが部屋の中に広がり出した。
高級な大理石の壁や、金ピカの彫刻が施された天井が、容赦ない脂の匂いで侵食されていく。
ダイエット中の女子の目の前に、マヨネーズをこれでもかと乗せた特盛の唐揚げ弁当を突きつけるような仕打ちだ。理性を売りにしているインテリほど、この暴力的な匂いには弱い。
向こう側に座っている官僚たちの様子を盗み見てみると、誰もが必死にポーカーフェイスを維持しようとしながら、その喉が何度も上下に動いていた。技術主任のライブラ主任にいたっては、匂いだけで意識が飛びそうになっているのか、眼鏡を何度も直しながら資料を上下逆さまに眺めている。
脳内で、チハたんの冷静な電子音声が響いた。
『報告。周囲の帝国軍人および官僚の心拍数が、一分前と比較して平均十五パーセント上昇。唾液の分泌量が異常値を示しています。セシールの調理プロセスは、現時点で帝国の心理防壁を完全に無力化しつつあります』
「チハたん、それを世間では『お腹が空いた』って言うんだよ」
わたしは心の中で突っ込みを入れながら、セシールの鮮やかな手つきを眺めていた。
麺が茹で上がり、セシールが大きな平ザルを手に取る。
彼女が精神を集中させ、鋭い眼光でザルを振り下ろした。
水分が一瞬で弾け飛び、完璧な湯切りが行われる。その一連の動作には、聖王国の元聖女としての神聖さなんて微塵もなく、完全に熟練したラーメン職人のそれだった。
「お待たせいたしました。千波領特製、濃厚豚骨ラーメンでございます」
セシールの手によって、皇帝の前に波々とスープが注がれた器が置かれた。
中央には分厚いチャーシューが鎮座し、たっぷりの背脂と、青ネギ、そして海苔が綺麗に添えられている。湯気と共に立ち上る匂いは、まさに健康という概念への挑戦状だった。
「陛下。毒味を――」
トライさんが後ろの兵に合図を送るが、最後まで言わさず遮った。
「無用。静かにしておれ」
皇帝は、じっと器を見つめていた。
その顔は、まるでこれから未知の魔法陣を解読しようとする学者のように真剣だった。彼は用意された箸を不器用に握り直すと、まずはスープを蓮華ですくい、ゆっくりと口に運んだ。
会議室の中の全員が、固唾を呑んでその瞬間を見守っていた。
トライ宰相は、もし皇帝が倒れたら即座に護衛兵を突入させるつもりなのか、腰の剣の柄に手をかけている。
スープが皇帝の喉を通り過ぎた瞬間、彼の太い眉が、ピクリと跳ね上がった。
そして、次の瞬間には、彼は箸で麺を豪快に掴み、口の中へと放り込んでいた。
そこからの皇帝の動きは、まさに圧巻だった。
威厳とか、皇帝としての気品とか、そういうものをすべて大理石の床に投げ捨てたかのように、猛烈な勢いでラーメンをすすり始めたのだ。
大柄な身体を丸め、器を抱え込むようにして、一心不乱に麺を口へと運ぶ。分厚いチャーシューを一口で噛みちぎり、その脂の旨味に目を細めている。
彼の顔からは、さっきまでの「世界を統治する絶対者」としての冷酷さは完全に消え失せていた。代わりに浮かんでいたのは、深夜のサービスエリアで自販機のホットスナックを貪り食うトラックの運転手みたいな、純粋で、どこか哀愁漂う満足感だった。
「へ、陛下……?」
トライ宰相が、恐る恐る声をかける。
皇帝は器をテーブルに置くと、ふう、と深い息を吐き出した。その顔は、信じられないほど上気しており、瞳には怪しい光が宿っていた。
「……これは、美味いなどという生易しいものではないな」
皇帝の声は、かすかに震えていた。
「この塩分と脂質の暴力。脳の奥にある、普段は使われていない理性のスイッチが、次々と焼き切れていくような感覚だ。宮廷の料理長が作る、上品に澄み切ったスープなど、この濁った茶色い液体の前にはただの水に過ぎん!」
絶賛だった。だけど、表現がやっぱりちょっとオカルトに寄っている。……いや、言いたいことは分かるけど。
『千波。対象の血糖値および脳内報酬系の活動が、観測史上最大値を記録しました。帝国の最高権力者は、現在完全に屈服しています』
チハたんがそれを「屈服」と表現するのが、なんだか妙に的確だった。
皇帝は、器の中のスープを最後の一滴まで綺麗に飲み干すと、空になった器をセシールに突き出した。
「おい、メイド! これの、その、カエダマというやつを頼む! 麺はカタめでな!」
しっかりと警備兵の報告書から専門用語を学習していたらしい。
ただ、スープを飲み干しちゃってるので、それはカエダマじゃなくお代わりなんだけどね。
セシールは「はい、ヨロコンデ!」と、居酒屋の店員みたいな良い返事をして、すぐに二杯目の麺を準備し始めた。
その様子を見ていた他の官僚たちから、ついに我慢の限界を迎えたような、小さなお腹の虫の音が聞こえてきた。
ザキさんは、そんな彼らを眺めながら、意地の悪い笑みを浮かべて自分の分のラーメンをすすり始めた。
「いやあ、帝国の偉い方々は大変ですね。国家の体面を守るために、こんなに美味しいものを目の前にして、おあずけを食らっているのですから。皆さん頭がカタメですな」
ザキさんの嫌みたらしい言葉も、今の彼らには届いていなかった。彼らの目は、もうザキさんの顔ではなく、セシールが次々と茹で上げていく麺の行方に釘付けになっていた。
「……トライ」
皇帝が、替え玉を待ちながら、隣の宰相に声をかけた。
「陛下、は、はい!」
「貴様も食え。これは命令だ。我が国の安全を脅かす兵器かどうか、お前自身の舌で確かめてみろ」
それは、どう見ても「自分だけ太るのが嫌だから巻き添えにしようとする友人」の言い訳にしか聞こえなかった。
だけど、トライ宰相は「は、はいっ! 職務として、謹んで毒見をいたします!」と、これ以上ない大義名分を得た顔をして、セシールから器を受け取った。
彼がスープを一口飲んだ瞬間、その眼鏡がカシャリと音を立ててずり落ちた。
「な、なんという……。この、身体に悪そう見た目ながら、どうしても箸が止まらなくなる背徳感……。これが、千波領の技術なのか……!」
トライ宰相も、あっさりと陥落した。彼は眼鏡を直すことすら忘れ、なりふり構わず麺をすすり始めた。
そこからは、もう完全な雪崩現象だった。
「ライブラ主任、あなたも研究の一環として食しなさい」
「う、うむ……。では、帝国の未来のために……」
気がつけば、帝国の重鎮たちが次々と箸を取っていた。高級な会議室の中は、全員が黙々とラーメンをすする音だけが響く、奇妙な空間になっていた。
さっきまでの、神話がどうだの、バグがどうだのという難しい歴史の腹探り合いは、どこか遠い宇宙の彼方に消え去ってしまったみたいだ。
わたしは、自分の前に置かれたラーメンをのんびりとすすりながら、この光景を眺めていた。
大人たちが勝手に難しい理屈をこねくり回して、勝手に怖がって、そして一杯のラーメンで勝手に仲良くなっていく。
さっきまで国家の命運だの神の遺物だのと言っていた大人たちが、今は黙々とラーメンをすすっている。
……案外、外交なんてそんなものなのかもしれない。
スープを飲み干し、満足そうに息を吐く皇帝おじさんを見つめながら、わたしは確信していた。
この帝国のトップは、美味しいご飯さえ与え続けていれば、少なくとも我が領地を侵略しようなんて面倒くさいことは言い出さないだろう。
これからの交渉がどうなるかはまだ分からないけれど、少なくとも、次の議題は「チャーシューの増量に関する国際協定」とか、そういう平和なものになりそうだと、わたしは内心で密かに結論づけていた。




