88、帝国の深き憂鬱 ――仰天! 地底に轟く「カエダマ」
帝都の中心にそびえ立つ、豪奢にして堅牢なるバイオガ帝城。
その最奥に位置する『黒曜の間』は、本来であれば他国への侵攻や国家の存亡を揺るがす大事件が起きた際にのみ使用される、最高機密の御前会議室である。
だが現在、重厚な円卓を囲む帝国最高指導部の面々の顔色は、いかなる戦争の開戦前夜よりも蒼白に染まっていた。
「――状況の再確認を。帝都地下、旧時代の遺物たる三十六機の『冥界の円柱』が突如として稼働し、莫大な魔素の吸引を開始。しかし、わずか数分後に何らかの物理的干渉を受け、システムが完全に沈黙した……間違いありませんね?」
静寂を破ったのは、宰相トライ・トゥトウアだった。
銀縁の眼鏡の奥にある怜悧な瞳には、隠しきれない動揺が走っている。
「間違いありません。我が技術院の観測機器が、地下空間における魔素濃度の異常な乱高下を記録しております」
技術主任ライブラ・ヨーゼフが、額の汗をハンカチで拭いながら答えた。
「長年、我々がどれほど解析を試みてもピクリとも動かなかった神の重機群が、まるで子供の玩具のようにあっさりと……しかも、人為的に破壊されたのです」
「タイミングを考えれば、犯人は明白でしょう」
近衞連隊警務科長であるブリギッテ・ペータズムッター少佐が、忌々しげに舌打ちをした。
「昨日、我が国に到着した千波領の使節団。連中が到着した直後に、この不可解な事態だ。奴らが関与していると見て間違いない」
「すぐに捕縛し、苛烈なる尋問をもって真相を吐かせますか?」
そう身を乗り出したのは、近衞連隊衛兵科長のベンザ・ザーゼーマンだ。武闘派で知られる彼女の目は、帝国の威信を汚された怒りに燃えている。
「ならん!!」
宰相トライが、机を強く叩いてベンザを制止した。
「考えたまえ。神の遺物をいとも容易く破壊するような化け物どもの集団だぞ? 下手に事を構えれば、帝都そのものが火の海に沈む危険性がある! そもそも、ようやく千波領との直接貿易が軌道に乗り始めたばかりなのだ。ここで対立すれば、喜ぶのは聖王国の連中だけだ!」
「で、ではどうするというのです、宰相閣下! 神の重機を破壊してのけた者たちを、帝都の中心で野放しにしておくなど……!」
「まずは、一刻も早く皇帝陛下との公式な謁見の場を設ける。正面から意図を探るしかない。……ライブラ、千波領の使節団と明日の予定はどうなっている?」
「はっ。明日の午後より、中央魔導技術院にて『技術交流会』を予定しておりますが……」
「今は技術交流などという悠長なことをしている場合ではない! 即座に予定を前倒ししろ! して、今は? 奴らは今、どこで何をしている!?」
宰相の怒号に、衛兵科長のベンザが信じられないものを見るような目で、手元の報告書に視線を落とした。彼女の屈強な肩が、かすかに震えている。
「それが……連中は現在、地下施設の最下層にて、我が軍の警備隊に『夜食』とやらを振る舞っているとの報告が……」
黒曜の間に、不気味な沈黙が落ちた。
「……許可は?」
「出しておりません」
「警備隊からの緊急連絡は?」
「……一切、来ておりません」
「どういうことだ、ベンザ! なぜ現場の兵は報告を上げてこない!?」
宰相の問いに、ベンザは屈辱に顔を歪めながら報告書を読み上げた。
「兵士たちは皆、武器を置き、配給されたものを夢中で貪り食っているとのことです……! なかには、恍惚とした表情で汁をすすり、『カエダマ!』なる謎の隠語を叫んで追加の配給を乞う者まで現れていると……!」
「カエダマとは何だ?」
「不明です」
「暗号名か?」
「不明です」
「兵器の第二段階か?」
「不明です」
「バカな……!?」
技術主任ライブラが、ガタッと椅子から立ち上がった。
「ただの夜食なわけがあるか! 報告にある『凄まじい獣臭と、表面を覆う分厚い脂の膜』……あれはナノマシンを液体内に閉じ込めるための遮断層だ! そして黄色く縮れた紐状の物体は、特殊な吸着構造体に違いない! 千波領は、食事と偽って我が帝国の精鋭の肉体を、分子レベルでハッキングしようとしているのだ!」
「なんと恐ろしい……!」
ベンザが戦慄して身震いした。
「つまりあれは、脳内の報酬系を強制的にバグらせ、我が国への忠誠心を書き換える新手の精神汚染兵器……! だからこそ、厳しい訓練を受けたはずの我が部下たちが、完全に武装解除してしまっているのか!」
「いや、それだけではないはずだ」
宰相トライが、限界まで眉間に皺を寄せ、低い声で唸った。
「あえて許可を取らず、しかし逃げも隠れもせず、堂々と警備の心臓部で『炊き出し』を行う。これは『お前たちの警備網など我が領の屋台ひとつで突破できる』という、凄まじい練度の情報戦……いや、事実上の宣戦布告だ。……報告にある『分厚い肉塊』は、次に屠られる我が軍の肉を暗示しているに違いない……ッ!」
未知の侵略兵器『ラー・メン』の恐怖に、帝国最高指導部の面々が絶望の淵に立たされた、その時。
カチャリ、と。
円卓の最上座で、それまで一言も発さずにワイングラスを傾けていた男が、静かにグラスを置いた。
大柄な体躯を豪奢なマントに包み、顔の半分を覆うような立派な髭を蓄えた初老の男。
現帝国皇帝、バイオガ・ドッテンマイヤーである。
皇帝が動いたことで、宰相や軍務長たちはハッと息を呑み、即座に姿勢を正した。
重臣たちの視線を一身に浴びながら、バイオガはゆっくりと口を開いた。
「……して。その『ラー・メン』とやらには、どのような具材が乗っているのだ?」
「へ?」
宰相トライが、間抜けな声を漏らした。
「いえ、報告によりますと、何らかの秘伝のタレで煮込まれた豚の肉塊と、キクラゲなる菌糸類、それに青ネギと……」
「美味いのか?」
「……は?」
「だから。その『ラー・メン』とやらは、我が宮廷の専属料理長が作るディナーよりも、美味いのかと聞いておるのだ」
皇帝の純粋な疑問に、重臣たちは全員でずっこけそうになった。
「へ、陛下ッ!!? 今はそのようなお話をされている場合ではございません!」
トライが半狂乱で叫ぶが、バイオガは太い腕を組んでフンと鼻を鳴らした。
「神の遺物を壊したのであれば、それは責めるべきことではない」
「なんと?」
「我らが数百年かけても動かせなかった物を動かしたということだ。ならば、まず知るべきは罪ではなく技術だ」
皇帝はニヤリと、猛禽類のような笑みを浮かべた。
「明日の技術交流会は、予定通り何もなかった体で開催せよ。そこに余が『偶然』視察に訪れたという形をとり、そのまま会談へ持ち込む。……千波領の領主がどれほどの化け物か、そしてその『ラー・メン』とやらがどれほど恐ろしいものか、この目で直接確かめてくれるわ」
皇帝の鶴の一声により、帝国の命運を賭けた方針が決定した。
彼らは知る由もなかった。その頃、彼らが恐れる「化け物」の領主が、単にお腹が空いて屋台の椅子にだらしなく座り込んでいるだけだということを。
***
「……絶対、上で大騒ぎになってるよね、これ」
わたしは、最後の一滴まで飲み干したラーメンのどんぶりを置きながら、深いため息をついた。
帝都の地下最深部から数百メートル上がった最終関門が設けられた広場。
その厳重なはずの空間には今、強烈な豚骨の香りが充満していた。
セシールが屋台の寸胴鍋をかき混ぜるたびに、食欲をそそるニンニクと脂の匂いが舞い上がる。そして屋台の前には、帝国の最新鋭の鎧に身を包んだ近衛兵たちが、行儀よく一列に並んでどんぶりを啜っていた。
「カエダマ! こっちカエダマお願いしやす!」
「はいはい、ただいま。バリカタですね、少々お待ちくださいな」
セシールが、割烹着姿で優雅に麺の湯切りをしている。その姿は、完全に深夜の国道沿いにある人気ラーメン店の女将だった。
「なあセシール。システムの破壊までなら『バレてない』って言い張れたかもしれないけど、ここでこんだけ堂々と炊き出ししてたら、一発で真っ黒の犯人確定じゃない? こっそり抜け出したほうが良くないかな?」
わたしの提案に、屋台の脇で餃子を焼いていたザキさんが、呆れたように肩をすくめた。
「領主、すでに八十杯以上のラーメンを提供し、地下警備隊の胃袋を完全に掌握した後に『こっそり抜け出す』など、物理的にも状況的にも不可能だ。匂いだけでも三日は消えません」
『ザキの言う通りです、千波』
脳内で、チハたんの冷静な電子音声が響いた。
『当機の傍受した通信記録によれば、現在帝国上層部では緊急御前会議が開かれ、極度のパニック状態に陥っています。しかし、現場の警備隊員たちは、あなたがあまりにも堂々と屋台を引き、迷いなく夜食の提供を始めたため、「上層部から極秘裏に許可を得た慰問である」と完全に勘違いしています』
「……人間の思い込みって怖いね」
堂々としていれば、案外パスポートなしでも国境を越えられるのではないか。そんな前世のしょうもないネットの噂を思い出す。
「じゃあ、このままコソコソ隠れるより、帰りも何もなかったように堂々と正面から戻った方がいいね。不審な動きをするほうが怪しまれるし」
「左様でございますね。スープも麺もまだ余っておりますし、宿舎のドックに帰ってから、夜間警備の方々にも振る舞って差し上げましょうか」
セシールがにっこりと微笑む。このメイド、完全に炊き出しの快感に目覚めている。
「ところでチハたん。システムに直接介入したって言ってたけど、どうなったの? これでこの星の環境問題は解決したわけ?」
わたしが脳内で問いかけると、チハたんは少しだけ誇らしげなトーンで答えた。
『いえ、根本的な魔素不足は解決していません。しかし、先ほどのハッキングにより、軌道上の深宇宙探査船たる『EVE』のメインサーバーとの直接接続経路の構築に成功しました。現状ではまだ一方向のデータダウンロードが精一杯で、双方向の同時通信や環境プラントの細かな制御を行うには至っていませんが、大きな前進です』
「双方向通信ができるようになれば、マザーシップ側のシステムを書き換えて、ナノマシンの再散布とか、あのバカみたいな大掃除の完全無効化ができるってこと?」
『肯定します。ただし、それには当機の演算能力だけでなく、現地の魔術的なアプローチを用いたシステムの物理的・魔力的な同調作業が不可欠となります。セシールの高度な術式構築能力と……そこのザキの協力が必要です』
「え?」
わたしは、熱心に餃子の焼き加減を見ている白衣の男を二度見した。
「……もやしのおじさん、何か役に立つの?」
「もやしのおじさんとは心外だな!」
ザキさんが、フライ返しを持ったままバッと振り返り、大げさに胸を張った。
「私はこれでも、聖王国の元エリート異端審問官だ! あなた方がマザーシップと呼んでいる古代システムは、聖王国における『精霊機械』そのもの。異端の技術を解剖し、神の奇跡の魔力回路を物理的にいじくり回すことにかけて、私の右に出る者はおらん!」
「あ、そっか。アンタ、もやしを生やす才能の前に、聖王国でエリート異端審問官として神の奇跡を解剖してた人だったね。今さらだけど」
大尉の頭頂部にもやしを生やしてしまった一件で完全にポンコツ扱いしていたが、本来の彼は極めて優秀な技術者なのだ。彼が帝国の魔導技術院で堂々と立ち回れているのも、その圧倒的な知識量があってこそだ。
「よし、今後の目標は決まったね。とりあえず宿舎に帰って、明日の予定に備えよう。……セシール、そろそろ店じまいで!」
「承知いたしましたわ。皆様、本日の営業はここまでとさせていただきます!」
セシールのよく通る声に、並んでいた近衛兵たちから「ええーっ!」「明日も来てくれ!」「カエダマァァ!」という悲痛な叫びがあがった。
わたしは彼らに軽く手を振って応えながら、セシールやザキさんと一緒に、屋台をゴロゴロと押し始めた。
帝国の根幹を揺るがす大事件を起こし、最高指導部を恐怖のどん底に叩き落とした張本人たちは、帰り際に警備兵たちから涙ぐみながらの敬礼(美味しいラーメンへの感謝)を受けつつ、堂々とした足取りで地下施設を後にした。
明日の技術交流会が、どれほど胃の痛くなるような探り合いになるのか。
そんなことは微塵も気にすることなく、わたしたちの屋台は、楽しげな車輪の音を地下道に響かせていた。




