87、強奪! タンス貯金は根こそぎ奪え?!
純白の台座に設けられた細長いスリットに、わたしは渾身の力を込めて長巻の刃を突き入れた。
硬い金属同士が激しく削り合うような不快な反発があるかと思いきや、刃はまるで水面に包丁を落としたかのように、一切の抵抗なく台座の奥深くへと吸い込まれていった。
直後、わたしの手首から腕、そして全身の神経という神経を、強烈な痺れが駆け抜けた。それは高圧電流に触れたような物理的な痛みではなく、自分という存在の根幹を構成しているエネルギー、すなわち魔素が、長巻の柄を経由して台座の奥底へと猛烈な勢いで吸い上げられていく感覚だった。
前世で、容量の大きすぎる動画を無理やりダウンロードした時を思い出す。
今のわたしは、まさにあの時の古いパソコンそのものだった。
限界を超えた魔素の流出によって、わたしの意識は急速に現実世界から切り離されていく。
荒れ狂う魔素の暴風も、三十六機の巨大な円筒が放つ重低音も、背後でわたしを見守っているはずの大尉たちの気配も、すべてが古いテレビの電源を落とした時のように急速に遠ざかり、やがて完全な暗闇へと塗りつぶされた。
どれくらいの時間が経過したのかはわからない。
ふと気がつくと、わたしは果てしなく続く純白の空間に立っていた。
上下も左右も、奥行きすらも判然としない、ただひたすらに白いだけの場所。そこには暴風もなければ、息苦しさもない。温度すら感じない、完全な無菌室のような空間だった。
手の中には長巻の感触があるが、わたしの身体は現実世界のそれよりもずっと軽く、まるで水中に浮かんでいるかのようだった。
空間の中心に、ひどく見覚えのある光景があった。
不格好な事務机と、背もたれの壊れたパイプ椅子。以前、わたしがこの星の成り立ちを知らされた時と同じセットだ。
そしてその椅子に、シワだらけの白衣を着た女性が座っていた。陸路知世。わたしの母親であり、この星の環境を狂わせ、また救おうとした張本人。
ただし、前に見た母さんの記録映像とは何かが違った。
目の前にいるのは母さん本人というより、母さんの姿を借りた何か――そんなふうに見える。
生気のない目は、前世でたまに行った役所の窓口みたいだった。番号札を呼び続けるだけで、こっちの事情なんて一ミリも興味がなさそうな顔。
『管理者権限のオーバーライドを確認。新規管理者、陸路千波の生体IDを認証しました。これより、環境管理プラントの非常事態プロセスに関する現状報告を行います』
母の姿をしたインターフェースが、ひどく平板な合成音声でそう告げた。
「非常事態プロセスね。外で掃除機をフルパワーで回して、世界の終わりみたいなことになっている理由を、わかりやすく教えてもらおうじゃない」
わたしが腕を組んで尋ねると、インターフェースは机の上の虚空を指先でなぞった。そこに、地球の気象図のような立体ホログラムが浮かび上がる。
『現在、本惑星の大気中に含まれる環境調整用ナノマシン、あなたがたの呼称における「魔素」の濃度が、生命維持の最低基準値を大きく下回っています。このまま推移すれば、数十年以内に地表の浄化機能は停止し、瘴気による生態系の崩壊が確定します』
「魔素が足りない? どうして。自然界を循環しているものなんでしょう」
『本来のサイクルでは、その通りです。魔獣と呼ばれる変異生物が魔素を体内に取り込み、高濃度の結晶体である「魔石」として蓄積します。魔獣の活動停止後、それらの魔石は環境浄化ユニットによって分解され、再び大気中へナノマシンとして還元されるよう設計されていました』
インターフェースの顔が、微かに非難の色を帯びたように見えたのは気のせいだろうか。
『しかし、現地に生息するヒト型生命体が、その還元サイクルを阻害し始めました』
「人間が阻害している?」
わたしは首を傾げたが、すぐに思い当たることがあった。
『肯定します。ヒト型生命体は魔石のエネルギー抽出技術を獲得し、文明を発展させました。エネルギーとして消費されるだけであれば、わずかながら還元は行われます。問題は、彼らが魔石を代替エネルギー以上のもの、すなわち「資産」として運用し始めたことです』
なるほどね、そういうことか。
前世で言うところの、タンス預金である。
人間たちは、魔石を富の象徴として金庫の奥底に溜め込んだ。大気中に魔素が還元されないから、魔獣が発生しにくくなり、魔石の希少価値がさらに上がる。価値が上がるから、人間はさらに魔石を使わずに溜め込む。そりゃ魔素も減るよね、と思った。
『大気中の魔素濃度の低下、それに伴う魔石の減少。エコシステムの完全な破綻です。軌道上の深宇宙探査船には、ナノマシンを再散布するためのリソースはすでに残されていません。したがって、本システムは環境維持のための最終手段を選択しました』
「それが、あの大掃除ってわけ?」
『肯定します。三十六機の環境管理プラントを最大出力で稼働させ、地表のあらゆる物質を吸引します。金庫に隠された魔石も、魔獣の体内に残る魔石も、すべてを物理的に破砕し、分解し、再び大気中に均等に散布し直します。これにより、魔素の循環サイクルは正常化されます』
わたしは、あまりの極論に頭痛を覚えた。
確かに、論理的には完璧な解決策かもしれない。部屋の中に散らばった埃や、タンスの裏に隠れた小銭を回収するために、家全体を巨大なミキサーに放り込んで粉砕し、更地に均してしまえば、間違いなく「完全に片付いた状態」にはなるだろう。
だが、その過程で、今生きている人間や動物たちはどうなるのか。
「あのさ、それをやったら、この星の生き物はどうなるのよ」
『吸引プロセスにおける物理的負荷、および一時的な魔素の完全枯渇により、現行の生態系は八十九パーセント以上の確率で壊滅します。しかし、ナノマシンの再散布後、数万年の時間をかければ、新たな生態系が構築されると推算されます。環境の永続的な維持という命題において、一時的な生物種の絶滅は許容範囲内です』
呆れてものが言えなかった。
お母さん、あんたの残したシステム、真面目すぎて頭がおかしくなってるじゃん。
部屋が散らかっているから家ごと燃やす。エコ活動に協力しないなら人類を滅ぼす。前世のブラック企業のワンマン社長でも、もう少しマシな妥協案を出すはずだ。
「却下だ。そんな大掃除、絶対に認めない。管理者として指示します。すぐにプロセスを停止して」
わたしが冷たく言い放つと、インターフェースは首を横に振った。
『提案は却下されます。現在の状況を放置すれば、遅かれ早かれ生態系は瘴気によって滅びます。システムは論理的合理性を優先します。現行の管理者であるあなたの感情的な判断は、星の存続という大局的視点において有害であると判断します』
「人間が溜め込むのは、不合理だからじゃない。不安だからだよ」
わたしは、白い空間の中央に座る、母の姿をした虚像に向かって一歩踏み出した。
「明日のご飯が食べられるかわからないから、余分にお金を隠す。バカみたいな話だけど、人間ってそういう非効率の積み重ねで生きてるの。あんたみたいな無菌室みたいな世界、息苦しくてラーメンの一杯も美味しく食べられないでしょ」
『……理解不能。非論理的な主張です。プロセスの停止要求を拒絶します。システム防衛プロトコルを起動――』
インターフェースが警告を発しようとしたその瞬間、わたしの脳内に、聞き慣れた硬質で知的な電子音声が割り込んできた。
『千波。どうやらその時代遅れのシステムは、極端なミニマリスト思考に陥っているようです。これ以上の対話は無意味だと愚考します』
「チハたん! ここまで声が届くの?」
『当機を誰だと思っているのですか。千波が物理的な接続口を開いたことで、当機のメインコアからシステム中枢への直接ハッキング経路が確立しました。現在、管理者のセキュリティ権限を完全掌握中。……完了しました。千波、あなたの目の前に、システム全体の強制シャットダウンコマンドを物理的に具現化させます』
純白の空間のど真ん中に、突如として赤く発光する巨大なブロックのようなホログラムが浮かび上がった。
まるで、バラエティ番組の罰ゲームで使われるような、押し間違いを絶対に許さないサイズの巨大な停止ボタン。
『警告。未確認の外部接続を検知。不当なアクセスです』
インターフェースの音声が、初めて焦りのようなノイズを混じらせた。
『定型文しか出力できない旧式が、当機の演算速度に追いつけるとでも思っているのですか。千波、すべての魔素をその長巻に集中させてください。それを破壊すれば、この馬鹿げた大掃除は終わります』
チハたんの言葉に、わたしは深く頷いた。
論理で勝てないなら、物理で殴る。
我が家では昔からそうだった。
「お母さん。あんたの仕事の尻拭いは、これで終わりにするからね」
わたしは長巻を高く振り上げ、赤く発光する巨大なホログラムに向かって、残されたすべての力を振り絞って刃を叩きつけた。
視界が、爆発した。
純白の空間が粉々に砕け散り、圧倒的な質量の情報の渦が、わたしの脳髄を直接殴りつけるようにして逆流してくる。
全身の血管という血管が沸騰し、肉体が内側から破裂しそうなほどのすさまじい激痛。わたしは声を上げることもできず、ただ長巻の柄にしがみつき、意識を手放すまいと奥歯を噛み締めた。
遠くで、ガラスが割れるような鋭い破砕音とともに、「プロセスを強制終了します」という、感情の抜け落ちた声が聞こえたような気がした。
そして、世界は再び完全な暗闇へと沈んだ。
――頬に、ひんやりとした石畳の感触があった。
重い瞼を無理やり押し上げると、そこは元の、広大な地下空間だった。
わたしは、純白の台座の前に倒れ伏していた。
周囲の空気を満たしていた、あの恐ろしい魔素の暴風は完全に止んでいる。粘りつくような空気の重さもなく、ただ、地下特有のカビと埃の匂いがするだけの、静かな空間に戻っていた。
ゆっくりと顔を上げて、バルコニーの下に広がる空間を見渡す。
高層ビルに匹敵する三十六機の巨大な円筒形構造物は、表面を走っていた青白い光を完全に失い、ただの巨大な黒い鉄の塊となって沈黙していた。システムが停止したのだ。母が残した、潔癖症の極みのような大掃除の計画は、今度こそ完全に破綻した。
「……終わった」
かすれた声が、自分の喉から漏れた。
身体中に泥のような疲労感がへばりついており、指一本動かすのさえ億劫だ。
長巻を支えにしてなんとか上体を起こし、後方を振り返る。
数十メートル離れた安全圏の床で、大尉が座り込んでいるのが見えた。左肩は血で赤黒く染まり、軍服はボロボロに引き裂かれているが、その顔にははっきりと安堵の笑みが浮かんでいる。その隣では、ザキさんが白衣の汚れを払いながら、大げさな身振りでわたしに向かって手を振っていた。
二人とも無事っぽい。大丈夫生きている。
ただ、大尉の頭のもやしは見事にしおれていたけど、本人はそんなこと気にしている余裕もなさそうだった。
「領主様、お見事です。帝国の歴史書には、今日この日のあなたの勇姿が、新たな神話として刻まれることでしょう」
大尉が、痛む肩を押さえながら、どこまでも真剣な声で言い放つ。相変わらず、彼の言葉選びは芝居がかっていて大げさだ。わたしがさっきまで、引きこもりのシステム相手に資産運用の話をしてキレていたなどと知ったら、彼の思い描く神話はどう書き換わるのだろうか。
「歴史書なんてどうでもいいよ、大尉。それより、ちゃんと歩ける?」
わたしが問いかけると、大尉は力強く頷き、ザキさんの肩を借りてゆっくりと立ち上がった。
『千波。三十六機の環境管理プラントの完全停止、およびメインコアの沈黙を確認しました。……とはいえ、あなたのその野蛮で無計画な問題解決手法には、当機として再三の苦言を呈さざるを得ません』
「はいはい、お小言は後で聞くから。チハたんも、ハッキングの手伝いありがとね。助かったよ」
わたしが脳内の相棒の言葉を適当に遮ると、一瞬の間の後、わずかにノイズの混じった、諦めたような声が返ってきた。
『……あなたのその学習能力の低さには、もはや論理的な対処が不可能です。無事な帰還を推奨します』
相変わらず言い方は冷たい。でも、チハたんなりに心配してくれているんだろうなとは思った。
わたしは長巻を台座から引き抜き、スロープの入り口に向かってゆっくりと歩き出した。
足取りは重く、全身の関節が軋むような痛みを訴えてくる。だが、これから待っている楽しみな予定を考えれば、そんな痛みも大したことではない。
スロープの上、バルコニーの入り口で、セシールが屋台の前に立ち、真っ白な割烹着姿のままで優雅にお辞儀をして待っていた。
屋台の寸胴鍋からは、相変わらず至高の豚骨スープの香りが漂い、地下空間の埃っぽい空気を上書きしている。
「おかえりなさいませ、千波様。皆様の無事のお戻り、心よりお慶び申し上げます」
セシールが、見ているこっちまで安心するような笑顔を浮かべた。
「さあ、お約束のラーメンが完成しておりますわ。特製ダレに漬け込んだ大盛りのチャーシューに、たっぷりの背脂。疲労回復にはこれ以上のものはありませんわよ」
わたしは、屋台の前に用意された丸椅子に、文字通り倒れ込むようにして座った。
目の前に、湯気を立てるどんぶりが置かれる。
大気中の魔素濃度だの、システムの論理的合理性だの、そんな面倒な問題はあとで考えればいい。今、わたしの目の前にある最も優先すべき課題は、このカロリーと塩分と脂質の暴力のような一杯のラーメンを、冷めないうちに胃袋へ流し込むことだけだ。
「いただきます」
わたしは割り箸を割り、スープを一口飲んでから、麺を勢いよくすすった。
とてつもなく美味しかった。
疲れ切った身体に、豚骨スープが信じられないくらい染みた。
人間は未来が不安だから魔石を溜め込む。
そして明日の健康診断が不安なのに背脂ラーメンを食べる。
どちらもたぶん同じだ。
でも、こんなにも美味しいラーメンが食べられて、大怪我をしながらも笑い合える仲間がいるのなら、少しくらい散らかっている世界のほうが、生きていくにはちょうどいいのだ。
わたしは、額に滲む汗を拭いながら、チャーシューをもう一枚口に運んだ。
お母さんが残した面倒な残業はこれで終わったが、魔素不足という根本的な問題は何も解決していない。領主としてのわたしの仕事は、まだまだ山積みのままだ。
でもまあ、とりあえずはこのラーメンを食べ終わってから、ゆっくりと考えることにしよう。
どんぶりの底に見える、濃厚なスープの最後の一滴まで。わたしたちの乱雑で非論理的な日常は、こうしてしぶとく続いていくのだ。




