86、最後の審判!? 一杯の豚骨ラーメンがもたらす哲学的考察
昔観たパニック映画で、コップの水の揺れで恐竜が近づいてくるのを表現するシーンがあったけど、今のわたしのどんぶりの中はまさにそれだ。
ただ、波紋を浮かべているのは濃厚な豚骨スープだし、波紋の原因はバルコニーの眼下に立ち並ぶ三十六機の巨大な世界初期化装置の起動音だった。
千波領を襲った『ダイソン』みたいな自走型掃除機とは違う。今回の相手は、世界そのものを吸い尽くす超巨大な空気清浄機『ON-G』だ。
わたしは、どんぶりの縁に直接口をつけ、スープと一緒に波紋ごと胃袋へと流し込んだ。
美味しい。信じられないくらいに美味しい。
疲労の底に沈んだ身体の全細胞が、塩分と脂質と炭水化物の暴力的なまでの供給を受けて、一斉に歓喜の声を上げているのがわかる。深夜、テスト勉強の現実逃避として台所で隠れて作った即席麺もなかなかの背徳感と美味を誇っていたが、現在の絶望的な状況がもたらすスパイスは、そんな学生レベルの次元を遥かに超えていた。
何しろ、眼下では世界を物理的に吸い尽くそうとする巨大な掃除機(ON-G)群が、鼓膜を圧迫するような重低音を響かせながら青白い光を激しく点滅させているのだ。
世界の終わりという、これ以上ないほど壮大な光景を眼下に眺めながらすする豚骨ラーメンの味は、どう控えめに表現しても最高だった。周りがどんなにヤバい状況でも、目の前に超高カロリーなごちそうを出されたら、人間の胃袋って案外あっさり受け入れちゃうみたいだ。
「領主様、チャーシューの追加はいかがですか。本日は特製のタレに漬け込んだ、とろけるようなバラ肉をご用意しております」
セシールが、白い割烹着姿のまま、屋台の寸胴鍋から顔を上げて微笑みかけてくる。彼女の背後では、先ほどわたしが物理的に破壊した純白の自動人形の残骸が、機能停止した家電製品のように無残に転がっている。さすがに絵面がシュールすぎて、頭が完全にフリーズしそうだった。
「ありがとう、セシール。でも、これ以上食べたら、動く前に横っ腹が痛くなりそうだから遠慮しておくよ」
わたしはどんぶりを屋台の台に置き、額の汗を手の甲で拭った。
大尉とザキさんも、壁際で無言のまま麺をすすっている。彼らの目は、食事の喜びに満ちているというよりは、これから待ち受ける理不尽な死地へ向かう前の、最後の燃料補給を義務的にこなしている兵士のそれに近いように見えた。大尉の頭頂部に寄生しているもやしだけが、地下空間の熱気と魔素の充満に当てられて、まったく空気を読まずに青々と葉を広げている。
『千波。当機の推算によれば、現在あなたが摂取したカロリーと塩分は、成人女性の一日の推奨摂取量を約三倍超過しています。これから想定される極限の物理的負荷を考慮したとしても、その脂質の過剰摂取は内臓への深刻なダメージを引き起こすと愚考します』
わたしの脳内に、地上から状況を監視しているチハたんの、相変わらず冷徹で事務的な電子音声が響いた。世界が終わるかもしれないって時に、食事の栄養バランスでネチネチ説教されるなんて、絶対にわたしぐらいだと思う。
『うるさいな。これくらい食べないと、精神が持たないの。それに、今からあの巨大な鉄の塊三十六機を相手に大立ち回りを演じるんだから、これでもカロリーは足りないくらいだよ』
『その野蛮な補給方法も、現状では一定の合理性があると判断します。十分に充填してください。ただし――消化不良による戦闘中の嘔吐だけは、当機のメインコアの尊厳にかけて絶対に回避するよう要請します』
どこまでも辛辣な相棒だ。だが、その声の奥底に、わずかながらもわたしの疲労を気遣うような響きが含まれているように聞こえるのは、わたしの都合の良い思い込みだろうか。いや、あの論理の塊のような魔導戦車に限って、そんな人間臭い感情があるはずがない。わたしは小さく息を吐き出し、眼下の光景へと再び視線を向けた。
バルコニーの下に広がる空間は、何度見ても人間の常識というスケールを狂わせる。
高層ビルに匹敵する漆黒の円筒形構造物が、等間隔に三十六機。その表面を走る青白い光の線は、先ほどまでの穏やかな明滅から、血液が沸騰するかのような激しい脈動へと変化していた。
そして何より恐ろしいのは、空間全体を満たし始めた異常な気配だった。
風が、吹いている。
いやそれは風っていうより、この空間にある目に見えない魔素が、三十六機の巨大な筒に向かって猛烈な勢いで吸い込まれてる感じだ。髪の毛が、強力な静電気を帯びたように円筒の方向へと真横に引き寄せられる。
息をするたびに、酸素じゃなくて自分の寿命がストローで吸い出されていくような、めちゃくちゃ嫌な感覚に襲われる。
『地下空間の三十六機の環境管理プラントは、現在、吸引モードへの移行プロセスを進行中です。完全な臨界に達するまで、残りおよそ二十分。臨界を突破した場合、ここを中心とした半径五百キロメートル圏内の魔素が完全に枯渇し、地表のあらゆる生態系は致命的な崩壊を迎えます。唯一の解決策は、あの三十六機の円筒のちょうど中心に位置する、メインコントロール端末への直接干渉のみです』
チハたんが、わたしの視界に仮想要素のマーカーを表示させた。
巨大な三十六機の円筒が立ち並ぶ、その陣形のちょうど真ん中。そこには、周囲の巨大な構造物とは不釣り合いなほど小さな、純白の台座のようなものが設置されているのが見えた。距離にして、このバルコニーからおよそ五百メートル。
『あの台座の中心に長巻を突き立て、直接フォーマットコマンドを流し込むことで、強制終了が可能です。しかし、中心に向かって進むということは、三十六機の巨大な掃除機の吸引力がすべて交差する「魔素の台風の目」に向かって、生身で歩いていくことと同義です。千波の擬似筋肉にかかる負荷は、前世の台風の暴風域の比ではありません』
チハたんの言う通りだった。巨大なミキサーの中に自分から飛び込むような、圧倒的な自殺行為。
それでも、行くしかない。
「領主様。ご決断の時のようです」
大尉が、空になったどんぶりを置き、破壊された突撃銃の残骸を捨てて、腰の軍刀だけをしっかりと握り直してわたしの横に立った。
「私とザキ殿で、可能な限り風除けの盾となります。領主様は、ご自身の魔素を防御ではなく、前進することと、あの中央の台座に刃を突き立てることのみに集中してください。我々の命に代えても、必ずあなたをあそこまでお連れします」
「大尉の言う通りだ。私の可愛い植物たちも、この理不尽な環境変化にひどく腹を立てているようでな。魔素を吸われる前に、根を張って防壁となるくらいはやってくれるはずだ」
ザキさんが、白衣のポケットから黒ずんだ巨大な種子の束を取り出して不敵に笑う。
彼らの言葉に、胸の奥が熱くなるのを感じた。
彼らが今、自分の命を賭してまで、わたしの無茶な後始末に付き合ってくれようとしている。
「二人とも、ありがとう。でも、命に代えてもなんて言わないで。わたしたちは全員で生きて帰って、セシールのラーメンのおかわりを食べるの。これは領主としての命令だからね」
わたしは長巻を右手にしっかりと握り締め、バルコニーから眼下のフロアへと続くスロープへ足を踏み出した。
スロープを下りきり、巨大な黒い円筒の足元と同じ高さのフロアに降り立った瞬間、わたしは自分の足元がすくわれるような強烈な圧力を全身に受けた。見えない激流の中に、いきなり首まで放り込まれたような感覚だった。前進しようと片足を上げるだけで、強烈な吸引力がその足をあらぬ方向へ持っていこうとする。
「ザキ殿、今だ!」
大尉の叫び声とともに、ザキさんが黒い種子の束を前方の床に叩きつけた。種子は床の石畳の隙間に瞬時に根を張り、信じられない速度で成長を開始する。大蛇のように太く黒光りする硬質な蔦の塊が、高さ数メートルの分厚い生け垣のような防壁を形成し、わたしたちの前方からの魔素の吸引力をわずかに和らげてくれる。
「よし、進むぞ! 植物の壁が耐えられている間に、少しでも距離を稼ぐ!」
大尉が先頭に立ち、植物の壁の裏側に張り付くようにして前進を開始した。わたしとザキさんもそれに追従する。
だが、植物の壁も長くは持たなかった。中心に近づくにつれて、黒い蔦の表面から水分が一瞬にして奪われ、乾いた繊維が剥がれ落ちていく。
植物の水分というか、生きる力そのものがものすごい勢いで吸い取られてるみたいだ。
「まずいな……。この深度の魔素の枯渇速度は、私の想定を遥かに超えている。この防壁も、もう限界だ」
ザキさんが額から脂汗を流しながら呻いた直後、わたしたちを守っていた黒い蔦の防壁が、凄まじい吸引力に耐えきれずに砕け散った。
乾ききった植物の繊維が、細かい塵となって前方の空間へと吸い込まれて消えていく。
遮るものを失った瞬間、致死量の魔素の暴風が直接わたしたちの身体に襲いかかった。
息ができない。呼吸をするという行為そのものが、周囲の圧倒的な力の流れに押し潰されて機能しない。だが、本当の恐怖は風そのものではなかった。
三十六機の巨大な掃除機は、魔素だけでなく物理的な質量をも引き寄せ始めていたのだ。
周囲の床の破片、砕け散った照明器具、そして何より恐ろしいのは、先ほどわたしが破壊したばかりの純白の自動人形の残骸だった。
機能停止し、ただの鉄くずになったはずの高級家電の部品たちが、凄まじい気流に乗って宙を舞い、鋭利な刃物となってわたしたちの行く手へと飛来してくるのだ。さっきまでスタイリッシュなデザインだと呆れていた純白の装甲片が、今は世界で最も致命的な散弾となって、わたしたちの命を刈り取ろうとしている。お母さんの設計は、ゴミの分別という概念を完全に無視しているらしい。
残り距離、およそ百五十メートル。
飛来する装甲片を長巻で弾き落としながら前進を試みるが、足が鉛のように重い。
異変が起きたのは、そんな時だった。
床自体が、吸引流に削られ続けて限界を迎えていたのか、足元の石畳が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
支えを失ったわたしの身体が、無重力状態のように宙に浮き、そのまま暴風の中心へと真っ直ぐに引かれていく。
「しまった――」
声にならない悲鳴を上げた瞬間。
「領主様!」
大尉が背後から飛び込み、わたしの腕を力強く掴み取った。彼は自分自身の身体の重心を後方に沈め、巨大な壁となってわたしを庇うように立ち塞がった。
次の瞬間、暴風に乗って飛来したルークの純白の装甲片が、見えないギロチンの刃となって大尉の左肩を深々と切り裂いた。
大尉の軍服が瞬時に赤黒く染まり、血の飛沫さえもが風に引かれて前方に吸い込まれていく。
「大尉……!」
わたしは目を見開き、彼の名前を叫んだ。
大尉の顔は激しい苦痛に歪んでいたが、それでもわたしを掴む右手だけは決して離さなかった。彼は荒い息を吐きながら、わたしを安全な、まだ崩落していない床へと強引に引き戻した。
「行ってください……!」
大尉は血まみれの肩を押さえながら、静かに、しかし断固たる声で言った。
「私はここまでで十分だ。これ以上進めば、ただの足手まといになる。……あとは、領主様のお力で、この理不尽な世界を救っていただきたい」
大尉はそう言い残し、膝から崩れ落ちそうになる身体を、後ろから駆け寄ったザキさんに支えられた。ザキさんは無言のまま大尉の身体を引きずり、後方の比較的安全な物陰へと退避していく。
わたしは、大尉の血の跡が残る床を見つめた。
どうして、そこまでしてくれるのだろう。わたしはただの、前世の記憶を持った少し変わった女子高生に過ぎない。領主なんて肩書きも、自分から望んだものではない。平穏な日常の中で、ただ美味しいラーメンを食べて、適当に生きていきたかっただけなのに。
だが、彼らはわたしを「領主」と呼び、命を懸けて道を切り開いてくれた。その事実が、さっき呑み込んだラーメンの熱と一緒に、胃の底にずっしりと居座っている。
わたしは奥歯を強く噛み締め、大尉たちが退避した方向へ背を向けた。
長巻を両手で握り直し、ひとりで暴風の最前線へと身を晒す。
残り、百メートル。
飛来する白い破片が頬をかすめ、制服のあちこちを切り裂く。痛みを感じる余裕すら、今のわたしには残されていなかった。肌を刺すような魔素の摩擦熱が全身を焼き、自分の身体の輪郭が曖昧になって、風景の一部に溶け込んで吸い込まれていくような恐ろしい錯覚に襲われる。
それでも、わたしは進んだ。
お母さんがどんな意図でこんなものを残したのかは、もうどうでもいい。わたしは今、この世界で出会ったちょっと変な人たちと一緒に、美味しいラーメンを食べて、くだらない文句を言い合いながら生きていきたいのだ。そのためなら、こんな理不尽な大掃除のシステムごと、全部ぶっ壊してやる。
残り、五十メートル。
十メートル。
五メートル。
そしてついに、わたしは魔素の暴風の完全な中心、その台風の目の領域に足を踏み入れた。
嘘のように、風が消えた。
周囲の三十六機からの異常な吸引力がお互いに干渉し合い、奇跡的な無風地帯を作り出しているようだった。だけどその代わりとして、圧縮された空気がゼリーのように絡みついて動くのがめちゃくちゃしんどい。
目の前には、純白の台座。
その上面には、わたしの長巻の刃とぴったり一致するような、細長いスリットが静かに口を開けていた。
『千波。目標への到達を確認しました。三十六機の臨界まで、残り六十秒。ただちに長巻をスリットへ挿入し、管理者の生体魔素を流し込んでください』
チハたんの電子音声が、最後の決断を促す。
わたしは深く息を吸い込み、重いゼリーの中を動くような不自由な感覚に抗いながら、両手で長巻の柄を高く振り上げた。
刃の切っ先を、台座のスリットへと真っ直ぐに向ける。
これで、終わる。
そして帰ったら、絶対にセシールのラーメンをおかわりしてやるのだ。大盛りのチャーシューを乗せて。
わたしは渾身の力を込め、純白の台座に向かって、長巻の刃を深々と突き下ろした。




