82、見つめる女、泳ぐ右目
わたしが小学生だったころ、夜、禁止されているにも関わらず、ゲームで遊んでいた時、階段を上がってくる母の足音が聞こえてくる。
セーブポイントははるか先、そして、いつセーブしたのか覚えていない。
まさに今の状況がそれだった。
「どーするのよ、これ」
わたしが小声で叫ぶと、セシールが素早くコンロの火を弱め、割烹着の襟元を正して言った。
「仕方ありませんわ。親善大使として、お客様を無下にお断りすることはできません。ここは予定通り、炊き出しの予行演習といきましょう」
セシールの提案は完全に論点がずれているように思えたが、他に良い案があるわけでもない。わたしは観念して、ドックの小さな通用口の鍵を開けた。
重い扉が開くと、そこには軍服ではなく私服のコートを羽織ったブリギッテ少佐が立っていた。彼女の目元は、やはり少し赤く腫れているように見える。手には、何か小さな包みを持っていた。
「夜分遅くに申し訳ないわ。親善大使の皆様がお休みのところだとは分かっていたのだけれど……どうしても、ヴィルヘルムと話がしたくて」
少佐は、少し申し訳なさそうに視線を伏せた。昼間の正門で見せた冷徹なエリート軍人の顔は、そこにはなかった。ただの、昔の同僚を心配する一人の女性のように見える。
「いえ、ちょうどわたしたちも夜食の準備をしていたところですから。どうぞ、中へ」
わたしはできるだけ自然な笑顔を作り、彼女をドックの中へと招き入れた。
ドックの中に足を踏み入れた瞬間、ブリギッテ少佐は少しだけ顔をしかめた。無理もない。ここは親善大使のゲストハウスのはずなのに、充満しているのは高濃度の豚骨スープの匂いと、ザキさんの怪しい薬品の青臭さなのだから。
「その……随分と、特徴的な香りね」
少佐が戸惑いながら言うと、セシールが優雅な足取りで近づいてきた。
「我が千波領の誇る、伝統的な薬膳スープですわ。大尉の病の進行を抑えるための、特別な成分が溶け込んでおりますの」
セシールは息をするように嘘をつき、スープのお玉を軽く揺らした。
「そう……ヴィルヘルムの病のために」
少佐の視線が、部屋の奥で直立不動のまま固まっている大尉へと向けられた。彼女の瞳に、再び痛ましいものを見るような色が浮かぶ。
「ヴィルヘルム。昼間は、あまりゆっくり話せなかったから。私、あなたの力になりたくて、軍の医療班の記録や未開地の生態データを少し調べてみたの。その……あなたの頭に寄生しているという、未知の植物について」
少佐は、手にしていた包みを胸の前で強く握りしめながら、大尉へと歩み寄った。
大尉は、冷や汗をかきながらも、なんとか軍人らしい声を出そうと努めていた。
「ブリギッテ少佐。お気持ちは感謝する。だが、先ほども言った通り、この病は帝国の医療ではどうにもならないのだ。私の体は、すでに未知の生態系に深く侵されている。手遅れなのだ」
大尉の芝居がかった台詞に、わたしは背中が痒くなるのを必死に堪えた。どうして男という生き物は、こういう時に限って無駄に格好をつけたがるのだろう。
しかし、ブリギッテ少佐の反応は、大尉の予想とは少し違うものだった。
彼女は、悲しそうな顔をする代わりに、鋭く冷ややかな視線を大尉の頭頂部に向けたのだ。
「ええ、その寄生植物については理解しているつもりよ。でもね、ヴィルヘルム。私が調べた軍の極秘データの中に、あなたと同じような症状の記録は一切なかったの。それどころか、その頭の植物……どう見ても、ただの食用の野菜の一種にしか見えないのだけれど」
少佐の鋭い指摘に、ドック内の空気が再び凍りついた。
大尉の顔から、さっきまでの悲劇のヒーローの余裕が完全に消え去り、分かりやすく動揺の色が広がっていく。
さすがは帝国のエリート軍人。個人的な感情だけで目が曇るほど、彼女は甘くはなかったようだ。
「そ、それは……自然界の恐るべき収斂進化だ。この寄生生物は、宿主の周囲に溶け込むため、あえて一般的な農作物の姿を模倣するという、悪魔的な生存戦略をとっているのだ」
大尉の言い訳が、急速に苦しくなっていく。もはや生物学の講義だかオカルト雑誌の特集だか分からない。論理の破綻が、素人のわたしにもはっきりと分かるレベルだ。
このままでは、大尉の嘘がバレるのは時間の問題だ。そして、大尉の嘘がバレれば、わたしたちの不自然な関係性も露呈してしまう。
「セシール」
わたしが小声で合図を送るよりも早く、セシールはすでに動いていた。
「少佐。夜の冷え込みは、精神の不安を増長させます。難しいお話の前に、まずはこの薬膳スープを一口、お召し上がりになってはいかがですか。大尉と同じ釜の飯を食うことで、彼の苦しみを少しでも分かち合えるかもしれませんわ」
セシールは、有無を言わせぬ手つきで、熱々の豚骨スープが注がれたどんぶりをブリギッテ少佐の目の前に差し出した。
自家製の太麺の上に、煮卵と厚切りのチャーシュー、そしてザキさんが育てた通常サイズの新鮮なもやしが山のように盛られている。どう見てもジャンクフードの極みであり、薬膳スープという主張には無理がある外見だ。
「え……? あ、ありがとう。でも、私は……」
少佐は突然のラーメンの登場に戸惑い、どんぶりを受け取るのを躊躇した。
しかし、その圧倒的なカロリーの匂いが、彼女の鼻腔をくすぐったのだろう。激務で疲弊しているはずの彼女の喉が、微かに動くのが見えた。
「さあ、冷めないうちに。これが千波領の流儀ですわ」
セシールの圧力に押し切られるように、少佐はどんぶりを受け取り、添えられた箸を手にした。
そして、恐る恐る、一口スープを口に運ぶ。
その瞬間、ブリギッテ少佐の目が見開かれた。
帝国の配給食で鈍らせてきた彼女の舌に、豚骨とニンニクの暴力的な旨味が直撃したようにみえた。
少佐は何も言わず、今度は麺を掬い上げ、無心で口へと運んだ。
彼女の顔から、エリート軍人としての緊張が急速に抜け落ちていくのが分かる。そこにあったのは、ただ美味しいものを食べている人間の顔だった。
ものの数分で、どんぶりは空になった。
少佐は小さく息をつき、口元をハンカチで拭うと、少しだけ頬を染めて顔を上げた。
「……信じられないわ。こんなに美味しい食べ物が、この世に存在したなんて」
彼女の声は、先ほどまでの張り詰めたトーンとは打って変わり、驚くほど柔らかくなっていた。
「お気に召したようで何よりですわ」
セシールが微笑みかける。
少佐は、少しだけバツが悪そうに大尉の方を見た。
「ヴィルヘルム。あなた、千波領で毎日こんなものを食べているの」
「はっ……はい。領主様のご慈悲により、これを糧として、日々の過酷な闘いを生き抜いております」
大尉は、ラーメンがどう事態を好転させたのか理解できないという顔をしながらも、なんとか話を合わせようとしている。
少佐はしばらく大尉の顔と、そして彼の頭の上の植物を見つめていた。
疑念が晴れたわけではない。彼女の理知的な瞳は、大尉の安っぽい嘘などとうに見抜いているように見えた。それでも、彼女はこれ以上の追及をしなかった。
「病については分からないわ。でも、少なくとも余命わずかな人の目には見えない」
少佐はじっと大尉を見つめた。
「昔と同じよ。無茶な任務を前にした時の顔をしている」
その言葉に、大尉の肩が微かに震えた。
嘘に塗り固められたメロドラマの設定ではなく、彼の内底にある軍人としての覚悟。それだけは、かつて共に過ごした彼女の目をごまかすことはできなかったらしい。
彼女は、自分が持ってきた小さな包みを、テーブルの上にそっと置いた。
「これ、差し入れのつもりだったのだけれど。この素晴らしいスープの前では、帝国の保存食なんて必要ないわね」
少佐は、ドックの扉へと向かって歩き出した。
しかし、扉に手をかけたところで立ち止まり、肩越しに大尉へと視線を投げた。
「でも、その植物についてはもう少し調べてみるわ」
「え?」
「ただの勘よ。けれど、あなたは昔から嘘をつく時だけ右目が泳ぐもの」
それだけを言い残し、ブリギッテ少佐はドックを後にした。
鉄の扉が閉まる音が響き、後には再び静寂と、ラーメンの匂い、そして完全に右目を泳がせて固まっている大尉だけが残された。
わたしは、大きく肩で息をした。
「……助かりましたな」
大尉が、膝から崩れ落ちるようにして床に座り込んだ。
「勘違いなさらないでください。今回は彼女の情けに救われただけですわ。明日以降、少しでも隙を見せれば、すぐにでも我々は捕縛されます」
セシールは冷ややかに言い放ち、再びコンロの前に戻っていった。
「大尉。次はもう、あんな三文芝居の嘘をつかないでよ。寿命が縮むかと思ったんだから」
わたしが文句を言うと、大尉は力なく頷いた。
テーブルの上に残された、少佐の差し入れの包み。
わたしはそれを目に焼き付けながら、長巻を手に取った。
時刻はすでに深夜。技術院の機能も、最低限の監視を残して静まっている頃合いだ。ここからが、お母さんの残した理不尽なデバッグ作業の、本当のスタート地点である。
わたしたちは、ラーメンの匂いを身にまとったまま、地下三千メートルへ続く階段の入り口へと足を踏み出した。
どこまで続くのか分からない暗がりの中へ……。お玉を携えて。




