70、【聖王国編】 聖王国狂想曲
絶対的な信仰というものは、それが「絶対に揺るがない」という前提の上に成り立っているからこそ、信じる者に安らぎを与える。裏を返せば、その大前提が根底から覆された時、熱烈な信者ほど深刻なパニックに陥るということだ。
千波領という泥だらけの辺境で、一万五千の軍隊が女子高生の「お説教」によって一斉に武装解除させられた夜。その絶望的な報告は、数日のうちにネピア聖王国の聖都リュミエルへと届けられ、神聖なる教皇庁の分厚い大理石の壁を内側から激しく揺さぶっていた。
聖都の中心にそびえ立つ、女神チーヨを祀る大聖堂。
その最深部にある円卓の間では、教会の最高意思決定機関である「六个聖」の緊急会議が開かれていた。
いや、会議と呼ぶにはあまりにも空気が荒れ狂っている。正確に言えば、一人の枢機卿による終わりのない怒号と責任転嫁の独演会であった。
「……信じられん。教会の威信を懸けて送り込んだ五千の聖騎士団が、剣を交えることすらなく敗走しただと!? しかも、地下から引き出した『断獄の巨神兵団』までが、ただの石の塊に成り下がったと言うのか!」
円卓を激しく叩き、口角泡を飛ばしているのは、聖都の教区統括であり異端審問局のトップを務める、マホトラダス枢機卿である。
彼こそが、今回の「第二次侵攻作戦」の立案者だった。
彼が掲げた表向きの名目は、実に美しく、かつ教義に忠実なものだった。
「異端に囚われた民を救う」
「穢れた獣人を保護という名の管理下に置く」
「人族の難民を正しい信仰に導く」
だが、そんなものは政治的な建前に過ぎない。彼の真の目的は、天空の遺跡から発せられた『神託』の確保にあった。
教会以外に神託が降ろされるなど、あってはならない。その原因を究明し、確保、あるいは排除することが、異端審問局の絶対的な至上命題だったのだ。
おまけに、隣接する大陸からは、あの忌まわしい神聖大八洲魔導帝国の軍勢までが神託を狙って不法侵入してきているという報告まで上がっていた。
マホトラダスは帝国に対して激しい抗議の使者を送りつつ、出し抜かれる前に千波領を制圧するつもりだったのだ。
それが、蓋を開けてみればこの大失態である。
「女神の奇跡が、聖なる光が、突如として我らの祈りに応えなくなった……。そんな馬鹿な話があるか! 指揮官の怠慢だ! 異端の魔女が使った何らかの幻術に惑わされたに違いない!」
マホトラダスの怒りの矛先は、円卓の末席で床に額を擦り付けて震えている一人の太った男へと向けられた。
領都セグバンチョの教区を任されていた、パルプテ司教である。
彼は大司教への昇進に目がくらみ、独断で「第一次侵攻作戦」を立案して千波領に攻め込み、そして教区の全戦力と最高戦力であるザキを失うという大ポカをやらかした張本人だ。
パルプテがその時の正確な敗戦の理由――ザキの寝返りや、千波の異常な戦闘力――を隠蔽して報告していたため、今回の第二次侵攻の被害が拡大したのだという理屈で、彼は完全なスケープゴートとして聖都に呼び出されていた。
「も、申し訳ございません、マホトラダス枢機卿猊下! しかし、あの村の小娘は本当に悪魔の化身でして……!」
「黙れ! 貴様の虚偽報告のせいで、我が異端審問局の面目は丸潰れだ! 貴様は地下牢で異端の尋問を自ら受けることになるだろう!」
泣き叫ぶパルプテ司教が衛兵に引きずられていくのを、円卓の他のメンバーは冷ややかな、あるいは困惑した目で見送っていた。
その騒ぎの最中、円卓の上座に座る小柄な老人が、ゆっくりと目を閉じて両手で印を結んだ。
ネピア聖王国の教皇、マホトンタスである。
国王の兄でもある彼は、この国の誰よりも強大な決定権を持ちながら、政治や軍事には一切の関心がなかった。彼の頭の中にあるのは、純粋で絶対的な信仰のみ。
「……嘆くことはありません、マホトラダスよ。これもまた、慈母なる女神チーヨの与え給うた大いなる試練。我らの祈りが足りぬゆえに、女神は御心を痛め、奇跡の光をお隠しになられたのです。さあ、共に祈りましょう」
教皇の的外れで浮世離れした言葉に、マホトラダスは奥歯を噛み砕かんばかりに食い縛った。
(この呆け老人め……! 今問題なのは祈りの量ではない! 我が教会の軍事力と権威が完全に崩壊しかかっているという現実だ! それに騎士団からの報告……)
マホトラダスが内心で悪態をつきながら表面上だけは敬虔に頭を下げていた頃。
大聖堂の地下深く、冷たい空気が澱むカタコンベ(地下墓所)の中で、微かな笑い声を漏らしている男がいた。
六个聖の一人、ル・カナン枢機卿である。
彼はカタコンベの調査と古代遺物の保護を専門とする役職にあり、日の当たる円卓の会議には滅多に姿を現さなかった。
薄暗いランプの光に照らされた彼の机の上には、異端指定されている古代の文献が山のように積まれていた。
「……素晴らしい。やはり、私の仮説は正しかった」
ル・カナンは、部下からもたらされた敗戦の報告書を読み返し、細い目を三日月の形に歪めた。
報告書には、戦場で響き渡ったという千波の演説の内容が、断片的にだが記されていた。
『宇宙船』
『コンピューター』
『ナノマシン』
『管理者権限』
他の聖職者たちが「悪魔の呪文」として忌み嫌ったその単語の羅列は、ル・カナンが長年カタコンベの文献を解読して導き出していた「世界の真実の仮説」と、恐ろしいほどに合致していた。
彼は、六个聖という最高位にありながら、教会の信じる「愛と慈悲の女神」などというおとぎ話をとうの昔に捨て去っていた。真性の異端思想の持ち主である。
世界とは、天空にある巨大な「何か」によって管理された法則の箱庭である。彼はそう確信していた。
「祈りが足りないから奇跡が消えたのではない。天空の箱庭の主が、地上の我々から『権利』を取り上げたのだ。……あの千波という名の少女は、悪魔などではない。彼女こそが、神の意思を正しく引き継いだ真の神子なのだ」
ル・カナンは、薄暗い地下室で一人、歓喜の震えを堪えていた。
教会の権威などどうでもいい。彼が求めているのは、この世界の法則の真理を知ることだけだ。
「マホトラダスのような俗物が何万の兵を送ろうと、神子には通じない。……私が行かねば。私が直接あの神子と接触し、その権限の構造を解析しなければならない」
大理石の聖堂の上層で、権力に固執する者たちが泥沼の責任の押し付け合いを演じている中。
地下の暗闇では、狂気じみた探求心を持つ枢機卿が、千波領へ向けて独自の暗躍を開始しようとしていた。




