69、宇宙にある何かを見つめていたい
夜の帳が下りた平原は、二つの巨大な狂気によって完全に埋め尽くされていた。
東側から押し寄せているのは、ネピア聖王国の正規軍。純白の装甲を纏い、神への祈りを口ずさむ数千の聖騎士たちの背後には、教会の地下深くから引っ張り出してきたという「断獄の巨神兵団」が控えている。
それは、大理石を彫り出して作られた巨大な人型の彫像群だった。魔素という名のナノマシンを極限まで濃縮して駆動する、いわば歩く神殿である。
対する西側から陣形を展開しているのは、神聖大八洲魔導帝国の第三機甲師団。分厚い鋼鉄の装甲を持つ無数の無人戦車が幾何学的な陣形を組み、上空にはおびただしい数の爆撃用無人ドローンが編隊を組んで旋回している。
魔法を否定し、劣化した科学技術を崇拝する彼らにとって、この物量こそが神の代用品なのだろう。
合わせて一万五千。
小さな田舎町ひとつ分の人口が、すべて殺戮のための武装を施し、わたしたちの村のすぐ手前で激突しようとしていた。
わたしは、チハたんの砲塔の上に立ち、その絶望的な光景を見下ろした。
恐怖は、不思議と全く感じなかった。
あるのはただ、呆れと、深い徒労感、そして母親が丹精込めて作った庭を荒らそうとする泥棒たちへの、純粋で絶対的な怒りだけだった。
「セシール。そっちのハッキングの進捗はどうなっているの」
わたしがハッチの奥に向かって尋ねると、泥だらけのオーバーオールを着た元・聖女が、チハたんの内部コンソールに十本の指を高速で走らせながら答えた。
「ネピア聖王国の断獄の巨神兵団、その駆動系を構成する環境ナノマシンの制御コード、解析完了しました。彼らの言う『祈り』とは、単なる音声認識によるパスワードの入力に過ぎません。現在のわたくしとチハたんの持つサブマスター権限であれば、そのパスワードを最上位から書き換えることが可能です」
セシールの声には、かつての教導官への恐れも、神への盲信もなかった。
彼女は今、自らが信じていた神聖な奇跡を、極めて物理的で無機質な「プログラムの脆弱性」として冷徹に処理している。最高のデバッガーへの華麗なる転身である。
『並行して、帝国軍の機甲師団における通信プロトコルの解析も完了しています。彼らの無線通信は、当機の時代から数千年かけて劣化した、極めて低俗な暗号化しか施されていません。指揮車両からの命令を遮断し、当機の信号を強制的に割り込ませる準備が整いました』
チハたんの報告が続く。
異世界の魔法と科学の頂点が、女子高生と元聖女と旧式戦車による即席のハッキングチームによって、完全に丸裸にされようとしていた。
「上出来だよ。それじゃあ、この世界で一番スケールの大きくて、一番やかましいお説教を始めるよ。チハたん、全周波数、全魔素帯域にわたしの声を繋いで」
『了解しました。環境ナノマシンの振動を利用した大気音波変換、および全電波帯域への強制ブロードキャストを実行します』
わたしは大きく息を吸い込んだ。
そして、魔素の出力を限界まで引き上げ、夜空に浮かぶ二つの月に向かって、腹の底から声を張り上げた。
「あー、あー。マイクテスト、マイクテスト。東の狂信者どもと、西の鉄屑ども、聞こえているかな」
その瞬間、戦場を支配していたエンジンの重低音と、聖騎士たちの軍歌が、完全に掻き消された。
わたしの声は、空気を震わせるだけでなく、周囲の大気中に漂う魔素そのものをスピーカーの振動板として利用し、一万五千の兵士たちの鼓膜へ、あるいは脳の聴覚野へ直接叩き込まれたのだ。
巨大なステレオシステムの中心に放り込まれたような、圧倒的で逃げ場のない音声。
両軍の進軍が、不自然なほど一斉に停止した。
聖騎士たちも、帝国軍の指揮官たちも、天空から降り注ぐ正体不明の少女の声に、武器を構えたまま硬直している。
「わたしは、千波領の領主。そして、お前たちが奪い合おうとしている天空の遺跡、あるいは女神とやらから、この星の管理者権限を正式に相続した者だよ」
平原を包み込むのは、完全な静寂だった。
一万五千の人間が、ただ一人の少女の言葉に耳を傾けている。いや、傾けざるを得ない状況に陥っている。
「わざわざこんな夜更けに、うちの村の庭先までご苦労なことだけどね。先に言っておくよ。お前たちが崇めているものの正体を、ここで全部ばらしてあげる」
わたしは、カマヤツさんの長巻を砲塔に突き立て、腕を組んだ。
「まず、教会の連中。あんたたちが数千年にわたって祈りを捧げてきた『女神』なんてものは存在しない。あれはただの、迷子になった宇宙船のメインコンピューターだ。あんたたちが奇跡だの魔法だのと呼んでいる現象は、そのコンピューターがこの星の有毒な大気を中和するために撒き散らした、環境改造用のナノマシンでしかない。あんたたちの祈りは、単なる機械への音声コマンドだよ」
東の陣営から、動揺の波が広がるのが見えた。
だが、それは信仰を暴かれた絶望ではなく、純粋な「困惑」であった。
「……こんぴゅーたー? な、な・の・ま・し・ん……?」
「異端の魔女め、深淵の呪いの言葉を紡いでおるのか……!?」
聖騎士たちが、聞いたこともない単語の羅列に顔を見合わせ、恐怖に引き攣った顔で十字を切っている。
「そして、帝国の連中。あんたたちが最新鋭だと誇っているその技術は、ただの劣化コピーだ。天空の宇宙船が、環境を開拓するために地上へ降ろした土木工事用の重機。その残骸を不器用に繋ぎ合わせて、自ら進化を止めた哀れな後退の歴史が、あんたたちの帝国の正体だよ。証拠に、あんたたちの最新鋭の戦車は、うちの二百五十年も前のポンコツに手も足も出なかったでしょ」
西の陣営からも、指揮官たちの怒声が上がる。
「ええい、何を言っているのか全くわからん! 『宇宙船』とはなんだ! 重機だと!? 我らの神機を愚弄する気か!」
「やはりあの小娘の頭は狂っている! 悪魔の戯言だ!」
平原を包み込んでいるのは、「圧倒的な真実を突きつけられた絶望」ではなく、「IT用語を早口でまくし立てられたファンタジー世界の住人たちの、完全な置いてけぼり感」だった。
誰も、わたしの言葉の意味を1ミリも理解していない。
わたしは、大きく、深く、溜息を吐いた。
「……あー、もう。これだからファンタジー世界の住人にSFの設定を説明するのは面倒くさいんだよ。単語の概念から教えなきゃいけないの?」
ハッチの中から、セシールが冷静な声で突っ込みを入れる。
「千波。対象の文明レベルと貴女の語彙に致命的な乖離があります。彼らのデータベースに『宇宙』や『ナノマシン』という概念は存在しません。貴女の言葉は現在、単なる『気味の悪い呪文』として処理されています」
「わかってるよ。でも、今更『星の海を渡る鉄の箱』とか『目に見えない極小の妖精さん』とか、厨二病みたいな翻訳をしてあげる親切心はわたしにはないの」
わたしは、長巻を肩に担ぎ直し、極めて日常的な、それでいて絶対の威圧感を込めた声で宣言した。
「神様なんていない。超古代の魔法技術なんてものもない。あるのは、一人の母親が、子供たちが生きていけるようにと命を削って残した、ただの泥臭い開拓システムだけだ。……だからね」
わたしは、声を一段と低く、そして冷たくした。
「お母さんの持ち物で、勝手に殺し合いの喧嘩をするな。この星は、あんたたちのおもちゃ箱じゃないんだよ」
ハッチの中から、セシールの声が響く。
「千波。ネピア聖王国の陣営より、大規模な攻撃魔法の術式構築を確認。彼らは貴女の言葉を『悪魔の虚言』と断定し、物理的排除に動いたようです。同時に、帝国軍の無人機甲師団も、こちらの声の発信源を特定し、全砲門をこちらへ指向しています」
人間というものは、自らのアイデンティティを根底から否定された時、それを素直に受け入れることは決してない。事実を提示する者を異端として排除し、自分たちの信じる心地よい幻想を守ろうとする。
彼らの行動は、狂信者としても、軍人としても、極めて模範的な防衛本能だった。
だが、わたしは彼らのその「模範的な行動」を、根っこからへし折るボタンを持っている。
「いいよ、やってみなさい。……チハたん、セシール。全対象のアクセス権限を剥奪して」
『了解しました。対象空間内の環境ナノマシンの動作権限を、上位マスターコマンドにて完全凍結します』
「帝国軍の自律機動ネットワークに対し、強制シャットダウン・シークエンスを実行。全システムをスリープモードへ移行させます」
魔法の詠唱も、軍事的な命令も、すべてが無意味となる絶対の魔法の言葉。
東の陣営で展開されようとしていた、夜空を焦がすような巨大な炎の魔法陣や、氷の槍の群れが、まるで幻灯機の電源を落としたかのように、フッと掻き消えた。
彼らがどれだけ熱烈な祈りを捧げようとも、その祈り(コマンド)を受信して現象を起こすはずのナノマシンが、管理者の命令によって活動を停止したのだ。
さらに、教会の切り札であった巨大な大理石の「断獄の巨神兵団」も、駆動力を失い、ただの巨大な石の塊となって平原に立ち尽くした。
西の陣営でも、全く同じことが起きていた。
砲身をこちらへ向けていた無人戦車の群れは、動力を完全に断たれ、巨大な鉄屑のオブジェと化した。上空を旋回していた数千の爆撃ドローンは、プロペラの回転を止め、重力に従って次々と地面へ落下していく。雨霰のように降り注ぐ金属の雨が、平原に虚しい衝突音を響かせた。
両陣営の兵士たちが、自分の手にしている武器がただの棒切れや鉄の塊になったことに気づき、戦慄の表情を浮かべる。
剣を振るうことすらできない。引き金を引くことすらできない。
彼らの誇る軍事力は、星の管理者権限という絶対的なルールの前には、何の意味も持たなかった。
「どう? 魔法が使えない気分は。自慢の機械が動かない気分は」
わたしは、静まり返った平原に向かって、冷酷なまでに落ち着いた声で語りかけた。
「あんたたちは、自分たちが世界の支配者だと思い上がっていたかもしれない。でも、この星のシステムから見れば、あんたたちはただの『利用者』に過ぎない。そして、管理者のルールに従えない不良利用者は、強制的にアカウントを停止される。それだけのことだよ」
わたしの言葉が、一万五千の兵士たちの心に、絶望という名の冷たい水を浴びせかけていく。
神の奇跡も、帝国の科学も、すべては虚構だった。
彼らが命を懸けてきたものは、たった一人の少女の機嫌ひとつで、いとも簡単に機能停止してしまう借り物に過ぎなかったのだ。
「もう一度だけ言うよ」
わたしは、長巻を肩に担ぎ直し、極めて日常的な、それでいて絶対の威圧感を込めた声で宣言した。
「家に帰って、顔を洗って、寝なさい。次にわたしの村の庭先で騒ぎを起こしたら、今度は武器を止めるだけじゃ済まさない。あんたたちの国の大気中の酸素濃度を、直接いじってやることになるからね」
酸素濃度を操作できるかどうかなど、わたしには分からない。ただのハッタリだ。
だが、奇跡を無効化され、兵器を無力化された彼らにとって、そのハッタリは神の絶対的な宣告と同義であった。
誰かが、手から剣を取り落とした。
その音が引き金となった。
東の聖騎士たちも、西の帝国兵たちも、我先にと武器を放り出し、背を向けて走り出した。
誇り高き行軍などそこにはない。あるのは、理解の及ばない絶対的な存在に対する根源的な恐怖と、ただ一刻も早くこの場から逃げ出したいという生存本能だけだった。
一万五千の軍隊が、戦うことなく、泥にまみれて蜘蛛の子を散らすように敗走していく。
わたしは、その情けない背中を見送りながら、深く、長い溜息を吐き出した。
「……終わったね」
わたしが呟くと、ハッチの中からセシールが顔を出した。
彼女の額には疲労の汗が浮かんでいたが、その表情はどこか晴れやかだった。
「はい。対象の完全な撤退を確認。……千波。貴女の言葉の選び方は、論理的な説得というよりは、感情的な恐喝に近い手法でしたが、結果として最大の効果を発揮しました。交渉術としては評価に値します」
「恐喝って言わないでよ。正当な地権者の主張だよ」
『千波。マザーシップEVEとのリンクを一旦切断し、システムをスタンバイモードへ移行させます。これ以上の管理者権限の連続使用は、当機の情報処理回路に致命的な負荷をかけます』
「わかった。お疲れ様、チハたん。よくやってくれたよ」
わたしはチハたんの装甲を優しく撫でた。
夜空を見上げると、二つの月の間で、あの星が静かに光を放っていた。
一万五千の軍隊を追い払ったところで、根本的な問題が解決したわけではない。教会も帝国も、すぐに諦めるほど物分かりの良い連中ではないだろう。この世界の真実を知ってしまった以上、わたしたちの千波領は、文字通り世界の中心として、ありとあらゆる厄介事の標的になり続ける。
スローライフという名の夢は、完全に粉砕された。
でも、不思議と後悔はなかった。
お母さんが命を懸けて残したこの庭を、誰かの勝手な理屈で荒らされるのだけは、絶対に我慢できなかったからだ。
「帰ろうか」
わたしは、村の方角へと視線を向けた。
「ガメッチが、キメラの肉の残りを美味い具合に燻製にしてる頃だと思うんだ。お腹すいちゃった」
「……同意します。大規模な演算は、極めて大量のブドウ糖を消費しますから。明日の農作業のノルマのためにも、早急なカロリー摂取が必要です」
セシールが、すっかりこの村の住人らしい、極めて現実的な返事をした。
わたしたちはチハたんに乗り込み、来た道を戻り始めた。
世界で一番スケールの大きな遺産を押し付けられ、世界大戦をたった数分のお説教で終わらせた夜。
その結末は、歴史の教科書に載るような英雄的なものではなく、ただ空腹を満たし、泥だらけのベッドで眠りにつくための、極めて個人的で、ささやかな帰還だった。
背中越しに感じる星の光が、まるで「よくやったね」と頭を撫でてくれているような気がして。
わたしは少しだけ照れくさくなりながら、夜の森を駆け抜ける鋼鉄の鼓動に、静かに身を委ねた。




