64、社会主義と資本主義
政治とか行政とか、そういったお堅い言葉を聞くだけで、わたしの脳味噌は即座にシャットダウンの準備を始める。
前世の高校生活においても、公民の授業は「合法的な昼寝の時間」と同義だった。先生が黒板に書く「三権分立」だの「累進課税」だのといった文字は、わたしの目にはただの難解な幾何学模様にしか見えていなかったのだ。
だが、人生というのは実に皮肉なものである。
そんな「社会の仕組み」を完全に放棄して生きてきたはずのわたしが、いまや異世界の辺境で、人類の経済史を数日間で追体験させられる羽目になっているのだから。
現在の「千波領」は、一言で言えば「カオスのスープ」だった。
聖女セシールを物理的にわからせ、帝国軍の最新鋭(という名のポンコツ)機甲部隊を泥沼に沈めてからというもの、この村の噂は周辺諸国に光の速さで拡散してしまったらしい。
結果として、わたしの目の前には、見渡す限りのテントと、多種多様な種族が入り乱れる巨大な難民キャンプが出現していた。
「……ねえ、チハたん。これ、もう村っていうレベルじゃないよね? スラム街の形成過程を早送りで見てる気分なんだけど」
わたしは、村の中央に鎮座する相棒の装甲に背中を預け、目の前の喧騒を眺めながら呟いた。
『肯定します。現在の人口密度は、都市計画上の受容限界を三五〇パーセント上回っています。衛生環境の悪化、および資源配分の不均衡による内部紛争の発生確率が、指数関数的に上昇中です』
チハたんの電子音声は、いつも通り温度が低かった。
そして、チハたんが指摘するとおり、揉め事の火種はあちこちでパチパチと音を立てていた。
その火種を必死に消し止めて回っているのが、ミモコール家の元令嬢、エルサだった。
彼女は泥だらけになったドレスの裾をたくし上げ、手には木板で作られた大きな名簿を抱え、村の広場に設けられた配給所に立っていた。
「並びなさい! 列を乱す者は、女神チーヨの……ではなく、千波様の慈悲を汚す不届き者です! 配給は一人一食、公平に、かつ厳格に分配されます! 文句があるなら女神にではなく、この私に言いなさい!」
エルサの凛とした声が響き渡る。
彼女が構築したのは、徹底した管理と平等による分配システムだった。
誰がいつ、どれだけの食料を受け取ったかを厳密に記録し、ズルをする者には容赦ないお説教(と配給停止のペナルティ)を浴びせる。まさに「秩序の守護神」である。
彼女の目指すものは、万人が等しく飢えを凌ぐことができる、ある種の理想的な社会主義的空間だった。
「エルサちゃん、本当にお疲れ様だね……」
わたしが感心しながら見ていると、列の後方から、不自然なほど活気のある声が聞こえてきた。
それは配給の列とは別の、テントの影にひっそりと作られた一角から発せられていた。
「さあさあ、お立ち会い! エルサ様の配給を待っていたら、日が暮れるどころか冬が来ちまいますぜ! こちらには、帝国軍の放出品から仕入れた極上の干し肉と、よく冷えた酒精があります。今なら、あちらの列をスキップできる『特権権限』もセットでお付けしやしょう!」
声の主は、サウザンド商会のリクウだった。
彼はガメッチと密かに手を組み、村の裏側に「闇市」を構築していた。
配給列に並びたくない者、もっと贅沢をしたい者、あるいは将来の労働力を担保に借金をしたい者。そんな人間の「欲望」を燃料にして、彼はこの混乱したキャンプの中に、独自の経済圏を爆速で作り上げていたのだ。
「……あ、あいつ。いつの間にあんなシステムを」
わたしが驚いている間にも、リクウのテントの前には、配給列から抜け出した人々が吸い寄せられるように集まっていく。
そこには、エルサの管理下にある「平等」とは真逆の、弱肉強食と資本の論理が支配するギラギラとした熱気が渦巻いていた。
そして、当然の結果として、二つの勢力が激突する。
「リクウ殿! これは一体、何の真似ですか!」
配給所を抜け出したエルサが、憤怒の形相でリクウのテントに乗り込んでいた。
彼女の背後には、不気味なほどの沈黙を保つタゴサックさんと、事務処理に追われて目の下に深いクマを作ったエルドが控えている。
リクウは、商売人特有の柔らかな、それでいて蛇のように油断ならない笑みを浮かべて、エルサを迎え入れた。
「おや、エルサ殿。そんなに眉間に皺を寄せては、せっかくの気品が台無しですぞ。私はただ、村の滞りかけた物資を、より必要としている者の元へ『流動』させているだけに過ぎません」
「流動ですって? 貴方がやっているのは、人々の窮状に付け込んだ卑劣な商売です! 配給は平等であるべきです。金や物資を持っている者が特権を得るなど、この千波領の秩序を根本から破壊する行為ですわ!」
エルサの主張は、正論だった。
極限状態にある難民キャンプにおいて、平等の崩壊は即座に嫉妬と憎悪を生み、暴動へと繋がる。彼女は名門貴族として、秩序が崩れた後に訪れる地獄を誰よりも熟知していた。
しかし、リクウも一歩も引かなかった。
彼は懐から、これまた不気味なほど正確に記録された帳簿を取り出した。
「エルサ殿。貴女のやり方は美しい。だが、あまりにも遅すぎる。平等という名の鎖で全員を縛り付ければ、向上心は失われ、村全体の活気は死に絶える。私は、リスクを冒してでも現状を打破しようとする者に、チャンスを売っているのです。金が動けば、物流が生まれ、いずれそれは村全体の富を底上げすることになる」
「その富が、弱者の犠牲の上に成り立つのであれば、それは悪徳です!」
「停滞は死ですぞ、お嬢さん! 全員が等しく餓死する未来より、一部が先走り、残りを引き上げる未来の方が、よほど現実的だとは思わんかね?」
秩序と平等。
自由と競争。
人類が数千年にわたって答えを出せていない究極の二択が、いまや異世界の泥だらけのテントの前で、火花を散らして衝突していた。
周囲に集まった難民たちも、固唾を飲んで二人の論争を見守っている。
空気が、物理的な重みを持って張り詰めていく。
誰かが咳払いをしただけで、それが火種となって大乱闘が始まりそうな、そんな極限の緊張感。
「……ねえ、これ。わたしがどうにかしなきゃいけない流れ?」
わたしが小声で問いかけると、チハたんの砲塔が静かに左右に振れた。
『肯定します。現在の状況において、最高権力者であるあなたの裁定がなければ、村の統治機構は物理的な衝突によって自壊します。……ただし、あなたの導き出す答えが論理的に破綻していた場合、当機の教育的指導が発動する可能性があります』
「そっちの脅しの方が怖いわ!」
わたしは頭を掻きむしり、意を決して二人の間に割って入った。
魔素の身体の出力を上げ、少しだけ威圧感を放ちながら、わたしは声を張り上げた。
「はいはい、そこまで! 二人とも、お喋りが過ぎるよ。わたしの耳にまで、そのやかましい理屈が届いてるんだけど」
エルサとリクーの視線が、同時にわたしへと向けられた。
期待と、不安と、そして「この小娘に何がわかる」という微かな侮蔑が混ざったような、複雑な視線。
わたしは、前世で読んだ漫画や映画の適当な知識を総動員して、脳内にある「それっぽい解決策」を探り当てた。
「エルサちゃん。あなたの言う『平等』は正しいよ。でも、今の村の規模で、一人ひとりの胃袋を完全に管理するのは無理がある。管理しきれなくなった瞬間に、あなたの秩序は瓦解する」
エルサの顔が、悔しそうに歪んだ。
「そして、リクウさん。あなたの言う『競争』も、一理ある。でも、ルール無用の闇市を放っておけば、いずれ力のある者が弱者を食いつぶし、この村はただの野盗の巣窟になる。それはわたしの望む日常じゃない」
リクウは、薄笑いを浮かべたまま肩をすくめた。
「お二人さん、よく聞いて。わたしたちは今、文明の歴史をスピード攻略してるんじゃないの。ただ、明日も笑って芋を食べたいだけなんだよ」
わたしは、腰に手を当てて宣言した。
「リクウさん。あなたの商売を『公認』してあげる。その代わり、テントを畳んで、村の中央広場に正式な市場を作りなさい。そこでの取引はすべてオープンにして、わたしたちが定めた税金を納めること。あと、ファストパスの売上の半分は、難民の医療費に回してもらうよ」
リクーの目が、驚愕に見開かれた。
「公認、ですと? それはつまり、帝国や教会の法を無視して、この村独自の経済圏を認めると?」
「そうだよ。リクウさんを『千波領・初代商業長官』に任命する。思う存分、その汚い……じゃなかった、商売上手な手腕を振るって、村を豊かにしてちょうだい」
リクウは、毒気を抜かれたように脱力し、やがて低い笑い声を漏らした。
「……面白い。この混乱の中で、あえて『商売』を秩序の一部に組み込もうというのか。領主様、貴女はなかなかの策士だ」
「策士じゃないよ。丸投げした方が楽だって気づいただけ。……そして、エルサちゃん」
わたしは、まだ納得のいかない顔をしている少女の肩を叩いた。
「リクウさんが暴走しないように、あなたが監視するの。エルサちゃんを『千波領・初代財務監査官』に任命する。リクーさんの帳簿を隅から隅までチェックして、一エンの不正も逃さずに税金を搾り取ってやって」
エルサの瞳に、新たな、そして非常に凶悪な光が宿った。
「……監査、ですか。不正を暴き、正当な分配を強制する権限。……いいでしょう。リクウ殿、覚悟なさい。貴方のその蛇のような帳簿、私が神聖な秩序の下で、骨まで洗って差し上げますわ」
リクウの顔から、一気に血の気が引いていくのが見えた。
どんな狡猾な商人だろうと、プライドと正義感の塊のような元貴族令嬢に帳簿を握られるのは、死刑宣告にも等しいだろう。
「お、おい、領主様。それはあまりにも過酷な……」
「頑張ってね、商業長官。監査官殿を納得させるだけのクリーンな経営を期待してるよ」
わたしは、不敵な笑みを浮かべて親指を立ててみせた。
こうして、千波領には、社会主義的な配給制度と、資本主義的な市場経済が奇妙に融合した、ハイブリッドな内政システムが誕生した。
互いに監視し合い、足を引っ張り合いながらも、結果として村の物資はこれまでにない速度で循環し始めた。
リクウが外から仕入れてきた贅沢品を、エルサが税金として没収し、それを難民たちの共有財産に回す。
まさに、毒を以て毒を制す、あるいはバグを以てバグを制御するような、極めて効率的な解決策だった。
『千波。あなたの下した裁定は、社会学的な観点からは極めて不安定な均衡ですが、当面の暴動リスクを回避しつつ、経済発展を促進するという点において、暫定的な合格点を与えます』
チハたんの評価も、珍しく前向きだった。
「でしょ? 女子高生の直感をなめるなよ。……あ、でもエルサちゃん」
わたしは、すでにリクウのテントの在庫を厳しくチェックし始めている少女に声をかけた。
「あんまり厳しくしすぎないでね。リクウさんがやる気をなくすと、わたしの食べるパンケーキの粉が届かなくなるから」
「……検討しておきますわ。まずは、この不透明な『ファストパス』の収益構造を徹底的に解体することから始めます!」
エルサのやる気は、もはや恐怖の域に達していた。
背後でサムサ君が「姉様が、生き生きとしてる……」と呟きながら、少しだけ遠い目をしているのが印象的だった。
村の人口は増え続け、問題は山積みだ。
けれど、泥まみれの内政対立を乗り越えたこの村は、以前よりも少しだけ、しぶとくて強い場所に変わった気がした。
見上げれば、二つの太陽が、新しく生まれた「市場」の喧騒を照らしている。
わたしたちの独立国は、今日もブレーキを壊したまま、最高にやかましい未来へと転がり続けていく。
次はどんな厄介事が舞い込んでくるのか。
まあ、少なくとも、お腹を空かせたまま喧嘩をするよりは、ずっとマシな未来になるはずだ。
わたしは、リクウから「税金の前払い」として没収した干し肉をかじりながら、騒がしい日常の続きへと足を踏み出した。




