63、迷子の迷子の聖女ちゃん
人間の持つ能力の中で、最も恐ろしく、かつ最も頼りになるものは何かと問われれば、わたしは迷うことなく「適応力」と答える。
かつて地球という星で、ある偉大な学者が「生き残る種とは、最も強いものでも最も賢いものでもなく、最も変化に適応できるものである」と語ったらしいが、その言葉の正しさを、わたしは今この異世界の難民キャンプで痛いほど実感している。
数日前まで王都の豪邸で絹のシーツに包まって寝ていたはずの元・貴族の令嬢が、今や村の広場で泥にまみれながら、難民の配給列を的確に捌いているのだから。
「そこの列、間隔を詰めなさい。秩序なき配給は暴動の引き金になります。それから、芋の分配は世帯の人数と年齢を係数化して算出しなさい。老人と乳幼児を抱える家族には消化の良い葉野菜を多めに割り当てること。……ああ、千波様。ごきげんよう」
木箱の裏にチョークのような石で複雑な計算式を書き込みながら、書記官エルドを完全に顎で使っているその少女は、エルサ・ミモコールといった。
政争に敗れ、着の身着のままで逃げ出してきたという名門貴族の次女である。
彼女の着ているドレスはすっかり泥と煤で汚れ、裾のあたりは擦り切れて原形を留めていない。だが、彼女の背筋は定規を当てたように伸びており、その声には一切の悲壮感がない。
「ごきげんよう、エルサちゃん。ずいぶんと仕事に慣れたみたいだね」
わたしが声をかけると、彼女は優雅なカーテシーでお辞儀をした。服が泥だらけなのでひどくシュールな光景ではあるが、本人の気品がその矛盾を強引にねじ伏せている。
「お褒めにあずかり光栄です。私たちはミモコール家の人間。誇り高き貴族として、庇護者の元でただ口を開けて餌を待つような真似はいたしません。持てる知力を尽くし、この領地の生産性に寄与することこそが、生存権を獲得する唯一の手段と心得ております」
十代前半の少女の口から出る言葉とは思えないほど、極めて現実的で血の通った生存戦略だった。
彼女の後ろでは、まだ十歳にも満たない弟のサムサが、自分と同じくらいの大きさの木樽を抱え、ひたむきに水を運んでいる。
数日前にこの村へ辿り着いた時、彼らは間違いなく死の淵に立つか弱き亡命者だった。だが、たった一個の塩茹での芋を食べた瞬間から、彼らは自らの階級という名の重たい装飾品を窓から投げ捨て、見事なまでにこの泥臭い開拓村の歯車として回り始めたのだ。
絶望的な環境に置かれた人間は、泣き言を言う暇すら惜しんで生きるための最適解を探し始める。
彼らの適応力の高さを見るにつけ、人間というのは本当にしぶとくて、そして愛おしい生き物だと思う。
そんな感慨に耽りながら、わたしが広場の端で配給の芋をひとつ拝借して皮を剥いていた時のことだ。
「千波様! 大変です、また厄介なのが来やがりました!」
村の境界線を警備していたタゴサックさんが、血相を変えて走ってきた。
「また厄介なの? 今度はどこの国の亡命者? もうテントを張る場所なんて、森の木を切り倒さないと残ってないんだけど」
「いや、それが……亡命者というより、行き倒れです。森の入り口の罠の近くで、何かに怯えるようにうずくまっていまして。その、身なりが……」
タゴサックさんは言葉を濁し、ひどく困惑した顔でわたしと、その後ろに控えるチハたんを交互に見比べた。
屈強な獣人の警備隊長をここまで動揺させる行き倒れ。
ただ事ではない予感に従い、わたしは食べかけの芋をポケットにねじ込み、チハたんの装甲を軽く叩いて村の入り口へと急いだ。
木柵の外側に設けられた簡易的な検問所。
そこに、二人の獣人警備兵に両脇を抱えられるようにして、一人の少女が座り込んでいた。
彼女の纏っている衣服は、かつては純白であったはずだが、今は見る影もなく泥と草の汁で汚れ、あちこちが鋭い木の枝で引き裂かれている。
月の光を織り上げたようだったプラチナブロンドの長い髪は、手入れもされずに絡まり合い、土埃を吸って無惨な灰色に変色していた。
うつむいた顔は泥だらけで、裸足の足には無数の擦り傷から赤い血が滲んでいる。
そこに、「完璧な美しさ」という概念は一ミリも存在しなかった。
だが、その顔の造作には、絶対的な見覚えがあった。
「……セシール?」
わたしがその名前を口にした瞬間、少女の肩が大きく跳ねた。
ゆっくりと顔を上げる。
泥にまみれた顔の中で、唯一かつての面影を残す深海の蒼色をした瞳が、わたしを捉えた。
以前、彼女と対峙した時、その瞳はガラス玉のように無機質で、一切の感情を反射しない完璧な鏡だった。
しかし今、わたしを見つめるその蒼い瞳には、明確な「怯え」と「混乱」、そして隠しきれない「苦痛」の色が浮かんでいた。
「……あ……貴女は……悪性のウイルス……」
乾ききった唇から、擦れた声が漏れる。
録音された音声を再生するような機械的な声帯の振動ではなく、喉の渇きと疲労によって掠れた、生々しい人間の声だった。
『千波。対象の生体反応をスキャンしました』
背後から、チハたんの冷徹な電子音声が分析結果を告げる。
『以前接触した際に確認された、彼女の周囲を覆う高密度の魔素歪曲フィールド、および上位システムとの常時接続リンクが完全に消失しています。さらに、対象の肉体は極度の栄養失調状態にあり、生命維持機能が危険水域に達しています』
「つまり、神様の加護が切れて、ただの腹を空かせた女の子になってるってこと?」
『肯定します。現在の彼女は、歩く戦略兵器ではなく、物理的な限界を迎えたただの有機生命体です』
わたしは大きくため息をつき、セシールの目の前でしゃがみ込んだ。
彼女はわたしから距離を取ろうと身を縮めるが、体力が限界を超えているらしく、腕に力が入らずにそのまま地面に倒れ込みそうになる。
「警告……メインエネルギーの枯渇を検知……装甲表面に多数の物理的損傷……修復プロセス、起動不可……」
セシールは、うわ言のようにブツブツと呟き続けている。
自分の体に起きている現象を、無理やり機械的な用語で解釈しようとしているらしい。
「それはね、メインエネルギーの枯渇じゃなくて『お腹が空いた』って言うの。装甲表面の損傷は『擦りむいて痛い』って言うんだよ」
わたしが冷たく指摘すると、セシールは反発するように睨み返してきた。
「違います……わたくしは、完璧なシステムの一部……このような不快なアラートが、終わらないはずが……」
「完璧なシステムの一部が、どうして一人でこんな森をさまよってるわけ? あんたを崇め奉っていた教会の連中はどうしたのよ」
その質問は、彼女の心の最も脆い部分を的確に突いたらしかった。
セシールの瞳が激しく揺れ、その目から一滴の涙がこぼれ落ちて、泥だらけの頬に一筋の白い跡を作った。
「……排除、されました」
彼女は、消え入るような声で自白した。
「貴女との接触後、わたくしの内部回路に……未知のエラーが残留しました。怒り、混乱、そして……理解不能なノイズ。上位システムである女神のネットワークに再接続を試みたところ、わたくしのデータは『致命的なバグに感染した不良品』として認識されました」
彼女の語る言葉の端々から、絶望の深さが伝わってくる。
「彼らは……教導官たちは、わたくしを異端の魔女として地下牢に幽閉しようとしました。神の声を失い、感情という不純物に汚染されたわたくしは、もはや聖女ではなく、教会の教義を脅かす欠陥品であると」
自らが絶対の真理だと信じていたものから、たった一つのエラーを理由に見捨てられる。
完璧主義を掲げる組織の冷酷さが、そこにはあった。少しでも傷がつけば、昨日までの神の使いであっても平気でスクラップにするのだ。
「それで、逃げ出してきたってわけね」
「逃げたのではありません……。わたくしはただ、この不快なエラーの発生源である貴女を解析し、再び清浄な状態に戻るための手がかりを探しに……」
そこまで言いかけて、セシールのお腹のあたりから、極めて可愛らしく、かつ盛大な音が鳴り響いた。
空腹を知らせる、人間の胃袋が収縮する際の物理的な摩擦音である。
セシールの顔が一瞬にして真っ赤に染まった。感情がないと豪語していた彼女が、恥辱という極めて高度な感情を露わにしている。
「……今の音は、内部冷却水の循環異常です」
「はいはい、わかったから」
わたしは立ち上がり、ポケットにねじ込んでいた食べかけの塩茹で芋を取り出した。
そして、その半分を手で割り、泥だらけの元・聖女の顔の前に突きつけた。
「食べなさい」
セシールは、目の前に突き出された無骨な根菜を見て、激しい嫌悪感を顔に浮かべた。
「お断りします。そのような、土壌菌と不純物にまみれた有機化合物の塊など……わたくしの清浄な肉体に取り込むことはできません。最適な栄養素を配合した溶液以外は……」
「あんたのその清浄な肉体とやらが、今、エネルギー枯渇で死にかけてるんでしょ。四の五の言わずにかじりなさい。それとも、エラーを抱えたまま森の中で野垂れ死にたいの?」
わたしは一歩も引かず、芋をさらに彼女の口元へと押し付けた。
セシールの蒼い瞳が、芋とわたしの顔を何度か往復する。
彼女の中で、かつての完璧な論理回路と、飢餓状態にある動物としての生存本能が激しく衝突しているのがわかった。
やがて、後者が前者を完全に打ち負かした。
セシールは震える両手で芋を受け取ると、恐る恐る、噛みちぎるように小さな一口を口に含んだ。
数秒間の沈黙。
彼女は目を丸くし、口内の感覚器官から脳へと送られてくる未知の電気信号を、必死に処理しようとしているようだった。
「……味覚細胞への……異常な刺激を検知……これは……」
「塩味と、デンプンの甘みだよ」
セシールの口の動きが、次第に速くなっていく。
最初は警戒していた彼女の顎は、やがて本能の赴くままに激しく上下し始めた。残りの芋を両手で掴み、泥で汚れるのも構わずに無心で食らいつく。
芋を完全に飲み込んだ後、セシールはその場にへたり込み、両手で顔を覆った。
「……なんて……不快な……」
彼女の指の隙間から、大粒の涙が次々とこぼれ落ちて、地面の土を濡らしていく。
「こんなもの……ただの土の塊なのに……どうして、喉の奥が熱くなるのですか。どうして、全身の警戒アラートが解除されてしまうのですか。計算が……計算が合いません……」
彼女はしゃくりあげながら、自分の内側で暴れ回る「安心」や「喜び」という名の感情を、懸命に否定しようとしていた。
「それが、生きるってことだよ」
わたしは、彼女の泥だらけの頭に手を置き、乱れた髪を乱暴に撫でた。
「栄養素だけ完璧でも、心は動かないの。泥まみれになって、お腹を空かせて、他人が手で割った不格好な芋を食べて、初めて命は満たされるんだよ。あんたのシステムはバグったんじゃない。正常な人間に戻っただけ」
セシールはわたしの手を振り払おうとはしなかった。
ただ、声を上げて泣き続けた。
それは、教会の地下深くで作られた無機質なシステム端末が、長い長い最適化の夢から覚めて、一人の不完全な少女として生まれ落ちた瞬間の産声だった。
その日の夜。
村の端にある第一農区の一角で、わたしは前世の記憶を探っても絶対にあり得ない、極めてシュールな晩餐の光景を前にして頭を抱えていた。
急造の木製テーブル。その上に置かれた、野菜の切れ端を塩で煮込んだだけの野趣あふれるスープと、硬い黒パン。
その粗末な食卓を囲んでいるのは、世界の運命を左右しかねない三人の人物だった。
一人は、泥だらけの農作業着を纏い、無言でスープを啜る元・異端審問官のザキ。
その隣には、手に大量のマメを作り、腰の痛みに顔を歪めながら黒パンをかじっている元・帝国軍将校のヴィルヘルム。
そして、二人の向かい側には、村の娘から借りたサイズの合わない古着を着せられ、木のスプーンを不器用に握りしめている元・聖女のセシール。
教会の狂信を体現していた男と、帝国の軍国主義を指揮していた男と、女神のシステムそのものであった少女。
世界の対立構造をそのまま圧縮したような三人が、同じテーブルで、同じ泥臭い野菜スープを飲んでいる。
歴史学者が見たら気絶しそうな光景である。
「おい、新入り」
ザキが、スプーンを持ったまま硬直しているセシールに向かって、冷たく言い放った。
「食わんのなら俺がもらうぞ。土を耕すには熱量がいる。貴様のような役立たずに回す栄養はない」
「や、役立たずとはなんですか! わたくしは女神の愛し子……いえ、かつてはそうだった身。貴方のような野蛮な農民に侮辱される覚えは……」
セシールが弱々しく反論するが、その隣でヴィルヘルムが深く長いため息をついた。
「よせ、小娘。その男に口答えをしても無駄だ。我々はここでは、ただの労働資源以下の存在なのだ。逆らえば、明日の夜明け前から肥料用の穴掘りを命じられるぞ。……ああ、背骨が砕けそうだ」
ヴィルヘルムは完全に小作農としてのアイデンティティを受け入れつつあるようだった。かつて最前線で部隊を指揮していた男の姿はどこにもない。
「貴方、見覚えがあります……。帝国の軍服を着ていたはずですが」
「今はただの土いじりの翁だ。軍隊などという非生産的な組織のことは忘れた。さあ、冷める前に食え。明日は畝作りの過酷なノルマが待っているのだから」
ヴィルヘルムの悲壮な言葉に、セシールは信じられないものを見るような目を向け、やがて諦めたようにスプーンでスープを口に運んだ。
その瞬間、彼女の顔に驚愕の表情が広がり、涙ぐみながら無心でスープを飲み干し始めた。
わたしは、少し離れた場所からその光景を眺め、深く息を吐き出した。
『千波。極めて興味深い社会実験のサンプルが形成されました。宗教、軍事、システムの象徴が、農業という物理的基盤の前に完全に均質化されています』
チハたんが、どこか楽しげな演算音を響かせながら脳内で語りかけてくる。
「均質化っていうか、ただのどん底共同生活でしょ、これ」
世界で一番危険な思想を持っていたはずの人間たちが、わたしの村で畑を耕し、芋を食って涙を流している。
もし、これが世界平和の最終形態なのだとすれば、平和というものはとてつもなく泥臭く、そして手のかかるものらしい。
夜空を見上げれば、見慣れぬ星座の間に、動かない光の点が一つ紛れ込んでいる。
あの天空の遺跡「EVE」は、地上で自分のシステム端末が元異端審問官に農作業の説教を食らっている状況を、一体どういう論理で処理しているのだろうか。
「まあ、いっか。みんな美味しそうに食べてるし」
わたしは小さく笑い、自分の分の黒パンをかじった。
迷子の聖女が持ち込んだエラーは、この村の混沌をさらに加速させるかもしれない。
でも、どんなバグだろうと、お腹を満たしてよく眠れば、明日の朝にはただの笑い話に変わっているはずだ。
それが、わたしたちの村の、最高に無駄で愛おしいルールのひとつなのだから。




