62、(閑話)千波領入国審査(あるいは、どん底から見上げた泥だらけの理想郷)
世界が終わりを迎える時、それは劇的な炎や氷に包まれるわけではなく、ただ静かに、帳尻を合わせるように日常が崩れていくものらしい。
少なくとも、ネピア聖王国の元・名門貴族、ミモコール家の次女エルサにとってはそうだった。
政争という名の泥に塗れ、無実の罪を着せられた両親は断頭台の露と消えた。屋敷は焼かれ、財産は没収され、エルサはまだ十歳にも満たない四男のサムサと、数人の忠実な従者の手を借り王都を逃げ出した。
追っ手の恐怖に怯え、靴底をすり減らし、泥水を啜りながらたどり着いたのは、教会の影響力が及ばない「死の森」の深奥。
噂に聞く、帝国軍すらも退けたという謎の亜人武装勢力の拠点。
「……ここが、その集落ですか」
エルサは、泥だらけのドレスの裾を握り締めながら、目の前に広がる光景に絶句した。
武装勢力の厳格な要塞を想像していた彼女の視界に飛び込んできたのは、無秩序に立ち並ぶ粗末なテントと、大勢の難民たちが形成する果てしない順番待ちの列だった。
「姉様、お腹が空きました……」
弟のサムサが、虚ろな目で彼女の袖を引く。
「我慢なさい。私たちは誇り高きミモコール家の人間です。どのような蛮族が相手であろうと、毅然とした態度で交渉を……」
エルサが自らを奮い立たせようとしたその時、列の前方から、想像を絶するものが姿を現した。
巨大な、緑色の鋼鉄の塊。
教会で見た神機とも違う、見たこともない恐ろしい兵器が、低い駆動音を響かせながら広場を横切っていく。
そして、その鋼鉄の塊の上には、異国の奇妙な青い服(ジャージである)を着た、自分と年端も変わらぬ少女が胡座をかいていたのだ。
「あー、新規の受け入れは第三区画の方に回して! あ、そこの列の人たち、とりあえずこれ食べて落ち着いて!」
少女が指示を飛ばすと、大柄な獣人たちが湯気を立てる木箱を運んできた。
中に入っていたのは、無骨に塩茹でされただけの芋だった。
「ほら、お嬢ちゃんたちも食いな」
エルサの前に、鼻に傷のある恐ろしげな獣人が芋を差し出す。
毒が入っているかもしれない。あるいは、これを食べれば永遠に奴隷として使役される契約かもしれない。貴族の令嬢としての警戒心が、エルサの脳内で警鐘を鳴らす。
「わ、私はミモコール家の……このような身元の知れない食べ物を……」
エルサが拒絶の言葉を紡ぎ終える前に、弟のサムサが芋をひったくり、無我夢中で噛み付いた。
「サムサ! はしたないことを……」
「姉様……これ、すごく温かくて、美味しいです」
弟の頬に、安堵の涙が伝う。
それを見た瞬間、エルサの中に残っていた「貴族の誇り」という名の薄っぺらな鎧が、音を立てて崩れ去った。
彼女は差し出されたもう一つの芋を受け取り、両手で包み込んだ。じんわりとした熱が、冷え切った手に伝わってくる。泥だらけの芋の塩味は、王都で食べたどんな高級料理よりも、生きているという実感を彼女の胃袋に叩き込んだ。
「名前と特技があるなら、あそこの木の板の前にいる書記官に言ってくれ。字が読めるなら歓迎するそうだぜ」
獣人はそれだけ言うと、次の難民へと芋を配りに行った。
エルサは芋をかじりながら、鋼鉄の怪物の上で欠伸をしている少女を見た。
ここには、貴族も平民も、人間も獣人もないらしい。あるのは、ただ「生き延びるための泥臭い熱」だけだ。
彼女は弟の手を引き、書記官の列へと歩き出した。ある決意を胸に。
同じ頃、難民の列の最後尾で、周囲の目を極端に警戒している男女の姿があった。
シドとナンシー。彼らは数日前まで、神聖大八洲魔導帝国軍の先遣隊に所属する兵士だった。
「ねぇ、シド。本当にここに入るつもり? あの上に乗ってる旧式……私たちのドローン部隊を紙屑みたいに切り裂いたバケモノよ」
ナンシーが、震える声で囁く。
「馬鹿野郎、声が大きい。帝国に逃げ帰ったって、部隊を全滅させた罪で銃殺されるだけだ。だったら、この混沌に紛れ込んで農民のフリをするしか生き残る道はない」
彼らは軍服を捨て、泥を顔に塗りたくり、重税から逃げ出してきた村人を装っていた。
あの悪夢のような戦闘。プログラム制御の最新鋭戦車が、泥濘を利用した旧式の異常な機動力の前に次々とスクラップにされていく光景は、彼らの軍人としての常識を完全に破壊していた。
列が進み、彼らは村の端に広がる広大な農地へと差し掛かった。
そこで、彼らは信じられないものを見て、足の裏を地面に縫い付けられたように立ち止まった。
「嘘だろ……」
シドの口から、絶望的な呟きが漏れる。
畑の真ん中で、一人の男が重い鍬を振り下ろしている。
泥だらけの粗末な服を着て、額から汗を流し、息も絶え絶えに雑草を引っこ抜いているその男の顔に、見間違いようがあるはずもなかった。
彼らの直属の上官であり、常に鼻持ちならないエリート風を吹かせていた大尉、ヴィルヘルムその人だった。
「腰が高い! 大地の声を無視するなと言っているだろうが! 鍬の重さを利用しろ!」
その大尉に向かって、農民の姿をした恐ろしげな男が容赦のない怒号を浴びせている。ヴィルヘルム大尉は反抗するどころか、涙目で「はいぃぃっ!」と返事をし、さらに深く腰を落として泥を掘り返していた。
「……なぁ、ナンシー」
「なんだい、シド」
「この村のヒエラルキー、帝国軍の階級よりよっぽど怖い気がするんだが」
「同感だ。私たち、どうやって生き残ろうか」
二人は無言で顔を見合わせた。
最新鋭の兵器も、軍人の誇りも、ここでは全く通用しない。
彼らは即座に決断を下した。あの恐ろしい農民に目をつけられる前に、自ら進んで鍬を握り、世界一従順な小作農として生まれ変わることを。
難民の列には、人間だけでなく、鉄の首輪の跡を残した獣人たちの姿もあった。
雷獣の血を引く兄弟、サンダーとライガーは、帝国の鉱山での過酷な強制労働から命からがら逃げ出してきたばかりだった。
「兄貴、人間どもがいっぱいいるぜ。また捕まって、石掘りに戻されるんじゃねえか」
弟のライガーが、警戒心を剥き出しにして牙を見せる。
「落ち着け。ここは違う。匂いでわかる」
兄のサンダーは、周囲の空気を深く嗅いだ。
彼らの前に、見上げるほど大柄な獣人の男が歩み寄ってくる。
村の警備隊長を務めるタゴサックだった。
「お前ら、帝国の採掘場から来たクチだな。その首の擦り傷を見ればわかる」
サンダーは身構えたが、タゴサックは威圧するわけでもなく、懐から取り出した木の軟膏入れを放り投げた。
「そいつを首に塗っとけ。化膿を抑える薬草だ。……ここでは、誰も鎖に繋がれたりしねえ。その代わり、自分の飯は自分で稼ぐんだ。石を砕ける腕力があるなら、木材の切り出しを手伝え。腹一杯食わせてやる」
その言葉に、兄弟は目を丸くした。
彼らを「労働資源」ではなく、一人の「住人」として扱う場所。
サンダーは、差し出された軟膏を固く握りしめ、深く頭を下げた。自由の対価が労働であるなら、これほど安い取引はない。
そして、その混沌とした難民の群れから少し離れた場所で、一人静かに目を輝かせている男がいた。
サウザンド商会の家長、リクウである。
彼は教会の平等という名の不条理な税制に巻き込まれ、全財産を失い、借金奴隷に落とされる寸前で家族を連れて夜逃げしてきた元・豪商だった。
彼が見つめていたのは、配給の芋でも、農地の広さでもなかった。
広場の隅で、行商人と思われる小男が、帝国の装甲車の残骸を解体し、見たこともない特殊合金の板を数えながら、狂気じみた笑い声を上げている光景である。
(……なんという宝の山だ。あれだけの物資を独占しているあの商人は、いずれ確実に供給過多で手が回らなくなる。物流のボトルネックが発生するはずだ)
商人として、サウザンドのリクウの血が、激しく沸騰し始めていた。
(この村には、圧倒的な武力と資源がある。だが、インフラも商業システムも全く追いついていない。あの領主とおぼしき小娘は、明らかに事務処理能力の限界を超えている)
彼は、家族の手を強く握った。
借金取りから逃れてきたどん底の男の目に、この泥だらけの難民キャンプは、無限の可能性を秘めた新大陸に見えていた。
「おい、お前たち。荷物を下ろせ。私たちは、ここを死に場所にするのではない」
リクウは、泥で汚れた外套を翻し、力強く宣言した。
「ここから這い上がる。まずは、あの行列の整理と、水配りのシステム構築から請け負う。日銭を稼ぎ、あの行商人の物流ルートに食い込むのだ」
没落貴族、脱走兵、逃亡奴隷、そして破産した商人。
外の世界では居場所を失い、社会の底辺へと転がり落ちた者たちが、この日、千波領という名の巨大な吹き溜まりに集結した。
彼らはまだ知らない。
この泥だらけの理想郷が、やがて星の運命すらも巻き込む、世界で一番やかましくて面倒くさい騒動の中心地になるということを。
今はただ、配給の温かい芋をかじり、明日も生きていけるという小さな事実に、それぞれの形で感謝を捧げるだけだった。




