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王宮葬儀人 ―リゼット・オルディスの葬送記録―  作者: 高遠雪斎
第一章「死者を迎える者」

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名のない娘

 その娘には、名前が三つあった。

 リゼットが最初に気づいたのは、遺体受領記録と職員記録の表記が違っていたからだ。

「こっちは出生時の登録名です」

 記録部の係が紙を指した。

 もう一枚には、王宮付属施設で奉公を始めた際に届けられた別の名がある。

「では、どちらが本人の名前?」

「どちらも本人です」

「二つあるけど」

「だから確認しています」


 係は困った顔をした。

 処置台には若い女が横たわっている。

 王宮の付属施設で下働きをしていたという。大きな外傷はない。事故でも事件でもなく、葬送院へ運ばれてきた時点で死亡確認も身元確認も済んでいた。

 問題になっているのは、その身元の横に何と書くかだった。

「職場では、こちらの名で登録されています」

 係が奉公記録を示す。

「でも本人が普段名乗っていたのは別?」

「そう聞いています」

「それはどこに書いてあるの」

「書いてありません」

 リゼットは眼鏡の奥から係を見る。


「書いてない名前を、どうして知ってるの」

「同僚がそう呼んでいるので」

 それは記録ではなかった。

 だが、無視してよい話でもなかった。

 葬送記録の主名は、出生時の登録に残されたものを用いる。

 それが正式な身元の土台になる。

 一方、本人が継続して別の名を使い、周囲もその名で本人を認識していたことが確認できるなら、その名を併記することはできる。

 リゼットが決めた制度ではない。

 記録を勝手に書き換えることもできない。

 だから、まず確認する。


「本人を知っていた人は?」

「来ています」

「話を聞く」

 ほどなく、一人の若い女が通された。

 同じ付属施設で働いていたという。仕事着のままで、袖口にはまだ小さな汚れが残っていた。

 処置台の遺体を見た途端、彼女の顔が強張った。

「近づいても?」

 リゼットが聞く。

 女は頷いた。

 少しずつ台へ近づく。

 そこで、記録部の係が尋ねた。


「この方を、普段は何と呼んでいましたか」

 女は怪訝そうに係を見る。

「ミレです」

 出生記録にも奉公記録にも、その名はなかった。

「本人もそう名乗っていましたか」

「はい」

「いつ頃から?」

「私がここで働き始めたときには、もう」

「本人が、自分のことをそう呼んでいた?」

「そうです」


 係が書き留める。

 女はまだ納得していないようだった。

「何か問題があるんですか」

「葬送記録に残す名前を確認しています」

「ミレじゃないんですか」

 今度はリゼットが答えた。

「出生時に登録された名前が別にあります」

「知ってます」

「知ってる?」

「前に本人から聞きました。嫌いだって」

 記録部の係の筆が止まった。


「なぜ嫌いだったか聞いていますか」

「そこまでは」

「では書けませんね」

 リゼットが言うと、女の表情が険しくなった。

「嫌いだったって言ってるのに?」

「嫌いだった理由を勝手に作ることはできない」

「でも、ミレって呼ばれてたのは本当です」

「それは書けます」

 女が黙った。

 記録係がリゼットを見る。

 リゼットは続けた。


「出生時の登録名を主名にする。本人が継続して用いた名として、ミレを併記する」

「奉公記録の名は?」

「記録の照合に必要なら残す。主名にはしない」

 係は頷いた。

 紙の上で三つの名前が、ようやく別々の役割を持った。

 処置に戻る。

 若い女の髪は肩ほどまであった。

 同僚の女は帰らず、少し離れたところで見ていた。


「普段、髪はどうしていました?」

「後ろでまとめてました。仕事中は」

「休みの日は?」

「下ろしてました」

「今日はどちらがいいと思う?」

 女はすぐには答えなかった。

「下ろしてあげてください」

「分かりました」


 リゼットは髪を梳いた。

 大きく手を入れる必要のない遺体だった。

 顔色を整え、口元を落ち着かせる。

 髪は肩へ自然に流した。

 同僚の女が、途中で小さく笑った。

「そういう方がミレっぽい」

 リゼットは手を止めずに聞いた。


「仕事中は違った?」

「もっときっちりしてました。髪が一本出てても気にするくらい」

「下働きなのに?」

「下働きだから、って言ってました」

 それ以上の説明はなかった。

 なぜそう思っていたのか。

 誰に教わったのか。

 何を目指していたのか。

 それらは、この処置には必要なかった。


 リゼットは髪をもう一度だけ梳いた。

 廊下の向こうを、大きな木材が運ばれていく音がした。

 第二王子の棺に使うものらしい。

 続いて、儀礼部の職員が布と箱を抱えて通る。

 国葬の準備は、別の場所で進んでいた。

 リゼットはそちらを見なかった。

 今、目の前にいるのは王子ではない。

 髪を整え終え、同僚を呼ぶ。


「これでどう?」

 女は近づいた。

 少し俯いて、遺体の顔を見る。

「ミレ」

 呼びかけは小さかった。

 返事はない。

「そんな顔して寝たことないくせに」


 リゼットには、その意味が分からなかった。

 聞き返さなかった。

 同僚が何かを言い足すこともなかった。

 しばらくして、その女は遺体の手へ触れず、台の脇で一礼した。

 記録部の係が、完成した葬送記録を持ってくる。

 主名には出生時の登録名。

 その下に、本人が継続して使用していた名として「ミレ」。

 奉公先で使われていた名も、照合用の記載として残されている。


「これで処理します」

「はい」

 リゼットは確認欄へ署名した。

 同僚の女が帰り際、もう一度だけ振り返った。

「じゃあね、ミレ」

 扉が閉じる。

 リゼットは記録紙を処置台の脇へ戻した。

 紙の一番上に書かれた名と、今この部屋で最後に呼ばれた名は違っていた。


 どちらも、消されずに残っていた。


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