名のない娘
その娘には、名前が三つあった。
リゼットが最初に気づいたのは、遺体受領記録と職員記録の表記が違っていたからだ。
「こっちは出生時の登録名です」
記録部の係が紙を指した。
もう一枚には、王宮付属施設で奉公を始めた際に届けられた別の名がある。
「では、どちらが本人の名前?」
「どちらも本人です」
「二つあるけど」
「だから確認しています」
係は困った顔をした。
処置台には若い女が横たわっている。
王宮の付属施設で下働きをしていたという。大きな外傷はない。事故でも事件でもなく、葬送院へ運ばれてきた時点で死亡確認も身元確認も済んでいた。
問題になっているのは、その身元の横に何と書くかだった。
「職場では、こちらの名で登録されています」
係が奉公記録を示す。
「でも本人が普段名乗っていたのは別?」
「そう聞いています」
「それはどこに書いてあるの」
「書いてありません」
リゼットは眼鏡の奥から係を見る。
「書いてない名前を、どうして知ってるの」
「同僚がそう呼んでいるので」
それは記録ではなかった。
だが、無視してよい話でもなかった。
葬送記録の主名は、出生時の登録に残されたものを用いる。
それが正式な身元の土台になる。
一方、本人が継続して別の名を使い、周囲もその名で本人を認識していたことが確認できるなら、その名を併記することはできる。
リゼットが決めた制度ではない。
記録を勝手に書き換えることもできない。
だから、まず確認する。
「本人を知っていた人は?」
「来ています」
「話を聞く」
ほどなく、一人の若い女が通された。
同じ付属施設で働いていたという。仕事着のままで、袖口にはまだ小さな汚れが残っていた。
処置台の遺体を見た途端、彼女の顔が強張った。
「近づいても?」
リゼットが聞く。
女は頷いた。
少しずつ台へ近づく。
そこで、記録部の係が尋ねた。
「この方を、普段は何と呼んでいましたか」
女は怪訝そうに係を見る。
「ミレです」
出生記録にも奉公記録にも、その名はなかった。
「本人もそう名乗っていましたか」
「はい」
「いつ頃から?」
「私がここで働き始めたときには、もう」
「本人が、自分のことをそう呼んでいた?」
「そうです」
係が書き留める。
女はまだ納得していないようだった。
「何か問題があるんですか」
「葬送記録に残す名前を確認しています」
「ミレじゃないんですか」
今度はリゼットが答えた。
「出生時に登録された名前が別にあります」
「知ってます」
「知ってる?」
「前に本人から聞きました。嫌いだって」
記録部の係の筆が止まった。
「なぜ嫌いだったか聞いていますか」
「そこまでは」
「では書けませんね」
リゼットが言うと、女の表情が険しくなった。
「嫌いだったって言ってるのに?」
「嫌いだった理由を勝手に作ることはできない」
「でも、ミレって呼ばれてたのは本当です」
「それは書けます」
女が黙った。
記録係がリゼットを見る。
リゼットは続けた。
「出生時の登録名を主名にする。本人が継続して用いた名として、ミレを併記する」
「奉公記録の名は?」
「記録の照合に必要なら残す。主名にはしない」
係は頷いた。
紙の上で三つの名前が、ようやく別々の役割を持った。
処置に戻る。
若い女の髪は肩ほどまであった。
同僚の女は帰らず、少し離れたところで見ていた。
「普段、髪はどうしていました?」
「後ろでまとめてました。仕事中は」
「休みの日は?」
「下ろしてました」
「今日はどちらがいいと思う?」
女はすぐには答えなかった。
「下ろしてあげてください」
「分かりました」
リゼットは髪を梳いた。
大きく手を入れる必要のない遺体だった。
顔色を整え、口元を落ち着かせる。
髪は肩へ自然に流した。
同僚の女が、途中で小さく笑った。
「そういう方がミレっぽい」
リゼットは手を止めずに聞いた。
「仕事中は違った?」
「もっときっちりしてました。髪が一本出てても気にするくらい」
「下働きなのに?」
「下働きだから、って言ってました」
それ以上の説明はなかった。
なぜそう思っていたのか。
誰に教わったのか。
何を目指していたのか。
それらは、この処置には必要なかった。
リゼットは髪をもう一度だけ梳いた。
廊下の向こうを、大きな木材が運ばれていく音がした。
第二王子の棺に使うものらしい。
続いて、儀礼部の職員が布と箱を抱えて通る。
国葬の準備は、別の場所で進んでいた。
リゼットはそちらを見なかった。
今、目の前にいるのは王子ではない。
髪を整え終え、同僚を呼ぶ。
「これでどう?」
女は近づいた。
少し俯いて、遺体の顔を見る。
「ミレ」
呼びかけは小さかった。
返事はない。
「そんな顔して寝たことないくせに」
リゼットには、その意味が分からなかった。
聞き返さなかった。
同僚が何かを言い足すこともなかった。
しばらくして、その女は遺体の手へ触れず、台の脇で一礼した。
記録部の係が、完成した葬送記録を持ってくる。
主名には出生時の登録名。
その下に、本人が継続して使用していた名として「ミレ」。
奉公先で使われていた名も、照合用の記載として残されている。
「これで処理します」
「はい」
リゼットは確認欄へ署名した。
同僚の女が帰り際、もう一度だけ振り返った。
「じゃあね、ミレ」
扉が閉じる。
リゼットは記録紙を処置台の脇へ戻した。
紙の一番上に書かれた名と、今この部屋で最後に呼ばれた名は違っていた。
どちらも、消されずに残っていた。




