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王宮葬儀人 ―リゼット・オルディスの葬送記録―  作者: 高遠雪斎
第一章「死者を迎える者」

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散湯

 散湯へ入る前に、リゼットは眼鏡を外した。

 それを決められた場所へ置き、白い処置衣を脱ぐ。袖覆いも外す。髪をまとめていた留め具を抜くと、肩の下へ髪が落ちた。

 そこでようやく、一日の仕事が身体から少し離れた。

 完全に終わったわけではない。

 第二王子の処置はまだ続いている。

 つい先ほども儀礼部から、翌日に装束の確認を行うという連絡が来た。棺の準備も別の部屋で進んでいるらしい。

 それでも、今は洗う時間だった。

 リゼットは湯を出した。

 最初に落ちてきた水はぬるかった。

 しばらく待つ。

 温度が上がってきたところで肩へ当てる。


「熱っ」

 反射的に身を引いた。

 すぐに湯量を絞る。

「今日も機嫌が悪いですね」

 少し離れたところからネリスの声がした。

「誰が?」

「湯です」

「人みたいに言わないで」

「人の方が調整しやすいですよ」

「そう?」

「少なくとも話は聞きます」


 リゼットは返事をせず、もう一度手を入れて温度を確かめた。

 今度は大丈夫だった。

 高いところに設けられた貯水槽から流れてくる湯は、いつも同じ温度、同じ勢いでは落ちてこない。

 慣れてはいる。

 慣れていても、熱いものは熱い。

 髪を濡らす。

 長い髪に湯が入り込むと、その分だけ重くなった。

 首筋から肩へ流れる。

 今日一日、遺体へ向かっていた肩がようやく下がった気がした。


 目を閉じる。

 右肩の傷のことは考えなかった。

 手の痕も。

 セドリック・ハルヴェイが並べた書類のことも。

 何も考えないようにしたわけではない。

 今ここで考える必要がなかっただけだ。

「石鹸、変わりました?」

 ネリスが言った。

 リゼットは手元を見る。


「同じじゃない?」

「匂いが違います」

「分からない」

「だから資材部に任せると駄目なんですよ」

「洗えればいい」

「その考え方で全部選ばないでください」

「石鹸でしょう」

「毎日使うものです」

 ネリスの声は真剣だった。

 リゼットは石鹸を鼻へ近づけた。

 確かに、いつもより香りが強い気もする。


「少し甘い」

「でしょう?」

「でも洗える」

「そこじゃないんです」

 ネリスは不満そうだった。

 リゼットは髪を洗い流した。

「だったら資材部に言えば?」

「言いました」

「何て?」


「香料を増やす前に石鹸の質を上げてくださいって」

「返事は?」

「香料についての苦情として処理されました」

 リゼットは笑った。

「何がおかしいんですか」

「ちゃんと聞いてない」

「笑うところじゃありません」

「さっき、人の方が話を聞くって言ってたから」

 ネリスが黙った。


「訂正します」

「早いね」

 散湯には、仕事場とは違う会話がある。

 誰の遺体をどう整えるかでもなく、どの記録が正しいかでもない。

 石鹸の匂いが強いとか、湯が熱いとか。

 それくらいの話だった。

 リゼットは腕を洗い、指の間を念入りに流した。

 器具を扱う手は、夕方になると少し重い。

 手首を回す。


 痛みはない。

 ただ、長い作業の後だと分かる程度の疲れがあった。

 ネリスが先に湯を止めた。

「そういえば」

「何?」

「机の引き出し、開けました?」

「開けてない」

「本当に?」

「何が入ってるの」

「聞かないでください」

 リゼットは振り返った。


「聞かれたくないなら言わなければいいのに」

「確認したかっただけです」

「開けてない」

「ならいいです」

「焼き菓子?」

 間があった。

「どうして分かるんですか」

「この前、屑が落ちてた」

「見なかったことにしてください」


「別にいいけど」

「資材部の人に見つかると食べられます」

「資材部を何だと思ってるの」

「人の菓子を見つける人たちです」

 それ以上、リゼットは追及しなかった。

 ネリスにも、葬送院の外から持ってきた菓子を机へ隠すくらいの事情はある。

 それが何味なのかは知らない。

 知る必要もなかった。

 湯を止める。


 途端に、散湯の中が静かになった。

 髪から落ちる水の音だけが残る。

 リゼットは布で身体を拭いた。

 新しい処置衣へ腕を通し、濡れた髪をまとめ直す。

「もう戻るんですか」

 ネリスが言った。

「まだ記録が残ってる」

「明日でもいいでしょう」

「明日は装束確認がある」


「知ってます」

「なら今日やる」

「そう言うと思いました」

 ネリスはもう止めなかった。

 リゼットは置いていた眼鏡を取った。

 細い金属の蔓を耳へ掛ける。

 鼻の上で位置を合わせる。


「焼き菓子は食べないでくださいね」

「食べない」

「本当に」

「早く着替えて」

 ネリスを残し、リゼットは散湯を出た。

 処置室には、まだ第二王子の遺体がある。

 リゼットは眼鏡を掛け直したまま、残っている記録を取りに戻った。


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