散湯
散湯へ入る前に、リゼットは眼鏡を外した。
それを決められた場所へ置き、白い処置衣を脱ぐ。袖覆いも外す。髪をまとめていた留め具を抜くと、肩の下へ髪が落ちた。
そこでようやく、一日の仕事が身体から少し離れた。
完全に終わったわけではない。
第二王子の処置はまだ続いている。
つい先ほども儀礼部から、翌日に装束の確認を行うという連絡が来た。棺の準備も別の部屋で進んでいるらしい。
それでも、今は洗う時間だった。
リゼットは湯を出した。
最初に落ちてきた水はぬるかった。
しばらく待つ。
温度が上がってきたところで肩へ当てる。
「熱っ」
反射的に身を引いた。
すぐに湯量を絞る。
「今日も機嫌が悪いですね」
少し離れたところからネリスの声がした。
「誰が?」
「湯です」
「人みたいに言わないで」
「人の方が調整しやすいですよ」
「そう?」
「少なくとも話は聞きます」
リゼットは返事をせず、もう一度手を入れて温度を確かめた。
今度は大丈夫だった。
高いところに設けられた貯水槽から流れてくる湯は、いつも同じ温度、同じ勢いでは落ちてこない。
慣れてはいる。
慣れていても、熱いものは熱い。
髪を濡らす。
長い髪に湯が入り込むと、その分だけ重くなった。
首筋から肩へ流れる。
今日一日、遺体へ向かっていた肩がようやく下がった気がした。
目を閉じる。
右肩の傷のことは考えなかった。
手の痕も。
セドリック・ハルヴェイが並べた書類のことも。
何も考えないようにしたわけではない。
今ここで考える必要がなかっただけだ。
「石鹸、変わりました?」
ネリスが言った。
リゼットは手元を見る。
「同じじゃない?」
「匂いが違います」
「分からない」
「だから資材部に任せると駄目なんですよ」
「洗えればいい」
「その考え方で全部選ばないでください」
「石鹸でしょう」
「毎日使うものです」
ネリスの声は真剣だった。
リゼットは石鹸を鼻へ近づけた。
確かに、いつもより香りが強い気もする。
「少し甘い」
「でしょう?」
「でも洗える」
「そこじゃないんです」
ネリスは不満そうだった。
リゼットは髪を洗い流した。
「だったら資材部に言えば?」
「言いました」
「何て?」
「香料を増やす前に石鹸の質を上げてくださいって」
「返事は?」
「香料についての苦情として処理されました」
リゼットは笑った。
「何がおかしいんですか」
「ちゃんと聞いてない」
「笑うところじゃありません」
「さっき、人の方が話を聞くって言ってたから」
ネリスが黙った。
「訂正します」
「早いね」
散湯には、仕事場とは違う会話がある。
誰の遺体をどう整えるかでもなく、どの記録が正しいかでもない。
石鹸の匂いが強いとか、湯が熱いとか。
それくらいの話だった。
リゼットは腕を洗い、指の間を念入りに流した。
器具を扱う手は、夕方になると少し重い。
手首を回す。
痛みはない。
ただ、長い作業の後だと分かる程度の疲れがあった。
ネリスが先に湯を止めた。
「そういえば」
「何?」
「机の引き出し、開けました?」
「開けてない」
「本当に?」
「何が入ってるの」
「聞かないでください」
リゼットは振り返った。
「聞かれたくないなら言わなければいいのに」
「確認したかっただけです」
「開けてない」
「ならいいです」
「焼き菓子?」
間があった。
「どうして分かるんですか」
「この前、屑が落ちてた」
「見なかったことにしてください」
「別にいいけど」
「資材部の人に見つかると食べられます」
「資材部を何だと思ってるの」
「人の菓子を見つける人たちです」
それ以上、リゼットは追及しなかった。
ネリスにも、葬送院の外から持ってきた菓子を机へ隠すくらいの事情はある。
それが何味なのかは知らない。
知る必要もなかった。
湯を止める。
途端に、散湯の中が静かになった。
髪から落ちる水の音だけが残る。
リゼットは布で身体を拭いた。
新しい処置衣へ腕を通し、濡れた髪をまとめ直す。
「もう戻るんですか」
ネリスが言った。
「まだ記録が残ってる」
「明日でもいいでしょう」
「明日は装束確認がある」
「知ってます」
「なら今日やる」
「そう言うと思いました」
ネリスはもう止めなかった。
リゼットは置いていた眼鏡を取った。
細い金属の蔓を耳へ掛ける。
鼻の上で位置を合わせる。
「焼き菓子は食べないでくださいね」
「食べない」
「本当に」
「早く着替えて」
ネリスを残し、リゼットは散湯を出た。
処置室には、まだ第二王子の遺体がある。
リゼットは眼鏡を掛け直したまま、残っている記録を取りに戻った。




