水から帰った兵士
第二王子の処置は、そこでいったん止まっていた。
止めたのはリゼットではない。
過去の身体記録、装束目録、儀礼部からの確認。いくつかの書類が揃わなければ、次の処置へ進めない。
一次保存は済んでいる。
だから待つ。
待っているあいだにも、葬送院には別の死者が来る。
「次、入ります」
ネリスの声に、リゼットは王子の記録紙を閉じた。
運び込まれたのは近衛兵だった。
王宮に関わる水路で事故に遭い、死亡したと受領記録にある。
遺体は長く水に浸かっていた。
リゼットは布を外す。
まず顔を見る。
水と時間の影響で、輪郭には崩れがある。皮膚の状態も、乾いた場所で亡くなった者とは違う。
それでも、誰なのか分からないほどではない。
リゼットは顔の左右を確かめ、髪へ触れた。
「ご家族、来てます」
ネリスが言った。
「もう?」
「本人確認は済んでます。顔を見るかどうかで迷っているみたいです」
「分かった」
リゼットは手を洗った。
遺族と話す部屋には、二人いた。
片方は椅子へ座ったまま、もう片方は立っている。
リゼットが入ると、二人ともこちらを見た。
「葬送官のオルディスです」
そう名乗ると、座っていた方が先に口を開いた。
「顔は、見られますか」
「見られます」
答えてから、続ける。
「ただ、事故の前とまったく同じではありません」
相手の手が膝の上で動いた。
「ひどいんでしょうか」
「損傷はあります。水に浸かっていた時間の影響もあります」
そこで一度言葉を切った。
以前の自分なら、このまま「見られます」とだけ言って終えていたかもしれない。
リゼットは少し考えてから付け足した。
「整えられるところは整えます。顔を見たい気持ちと、見るのが怖い気持ちは、どちらもそのままで大丈夫です」
自分で言っておいて、最後の一文が少し不慣れに聞こえた。
遺族もすぐには返事をしなかった。
それでも、やがて頷いた。
「お願いします」
「はい」
立っていた方が尋ねた。
「いつ頃なら」
「状態を確認してから決めます。終われば呼びます」
今度は余計なことを言わず、実務へ戻った。
処置室に戻ると、ネリスが待っていた。
「どうでした?」
「見るって」
「説明は?」
「した」
「ちゃんと?」
「たぶん」
ネリスは何か言いかけて、やめた。
「じゃあ、お願いします」
それで終わった。
リゼットは遺体へ向き直る。
髪を洗い、汚れを落とす。
顔は、変化したところをすべて隠せばいいわけではない。
本人だと分かるものを残す。
損傷によって崩れたところを整える。
その境目を探しながら、少しずつ手を入れていく。
王子の顔を扱ったときとは違う。
こちらには「本人らしく」という漠然とした宮廷の注文はなかった。
家族が最後に見たい。
それだけだった。
リゼットは頬の位置を整え、口元を見る。
傷を隠す。
残せる輪郭は残す。
髪を梳かしていると、遺族の一人が処置室の外まで来た。
直接入るわけではない。
ネリスが対応したあと、戻ってきて言った。
「髪は、少し横へ流してほしいそうです」
「普段そうしてた?」
「そうみたいです」
リゼットは櫛の角度を変えた。
髪は完全には元へ戻らない。
それでも、肖像も残っていない人間の顔を、生前の様子へ寄せる手がかりとしては十分だった。
「あと」
ネリスが続ける。
「釣りが好きだったそうです」
リゼットは手を止めなかった。
「そう」
「でも魚は嫌いだったって」
「食べるのが?」
「見るのもだそうです」
「じゃあ、何を釣るの」
「それを私に聞かれても」
ネリスが笑った。
「釣るのが好きだったんじゃないですか。魚は嫌いでも」
「面倒な趣味ね」
「ご家族も同じこと言ってました」
リゼットは髪を流す。
魚が嫌いなのに釣りが好きだった。
その情報は処置記録には何の役にも立たない。
身元確認にも関係ない。
傷の原因も説明しない。
それでも、髪をどちらへ流すかという話をしているあいだ、遺体は少しだけ「近衛兵」ではなくなった。
ただ、そのことをリゼットは言葉にはしなかった。
髪が落ち着いたところで、全体を見る。
傷は残っている。
水に浸かった痕跡も消えない。
事故の前と同じ顔にはならない。
それでも、本人を知る人が見れば分かるところまでは戻せた。
「呼びます?」
ネリスが聞いた。
「もう少し」
リゼットは口元を直した。
ほんの少しだけ。
それで終える。
遺族が入ってきた。
今度は二人とも立っていた。
最初に近づいた方が、途中で足を止めた。
リゼットは急かさなかった。
棺の中まで近づかなくてもいい。
顔を見るのをやめてもいい。
しばらくして、その人が一歩進んだ。
もう一人も続く。
声は出なかった。
ただ、片方が目元を押さえた。
「分かります」
それだけ言った。
リゼットは頷いた。
「はい」
「もっと、ひどいと思っていました」
どう返すべきか迷った。
「見られるところまでは整えました」
結局、実務的な答えになった。
それでも、相手は頷いた。
「ありがとうございます」
その後は、ネリスが案内した。
リゼットは処置室に残る。
机の上に記録紙を置き、使ったものを順に書いていく。
途中で、廊下の向こうから別の職員の声が聞こえた。
第二王子の追加資料が届いたらしい。
リゼットは一度だけ顔を上げた。
だが、目の前の記録はまだ終わっていない。
先にこちらを書く。
近衛兵の顔をどう整えたか。
髪をどうしたか。
どこまで処置したか。
魚のことは書かない。
釣りのことも書かない。
それは記録には要らなかった。
最後の行を書き終える。
紙を閉じる。
処置台のそばに残っていた櫛を洗浄用の器へ移した。




