王子の手
ネリスが右手を持ち上げた。
「少し曲げます」
リゼットは頷いた。
指の位置を整え、手首を支える。死後の硬さが残る身体を無理に動かせば、必要のない傷を増やす。
第二王子とされる遺体の身体確認は、まだ終わっていなかった。
右肩の痕については、受領時の記録と合わない点をすでに書いた。
今は手を見る。
指を一本ずつ確かめていく。
爪の際に小さな荒れがある。
掌の一部には硬くなったところがあった。
強く目立つものではない。
けれど、一度や二度、何かを握っただけでできるものでもなさそうだった。
「こっちも」
左手を取る。
同じではないが、似た痕がある。
リゼットは親指の付け根へ指先を当てた。
物を持つ。
紐を引く。
金具を扱う。
そういう動作を何度も繰り返した手にも見える。
「よく使っている」
口にすると、ネリスが遺体の手を覗き込んだ。
「何をです?」
「手を」
「それは王子様でも使うでしょう」
リゼットは顔を上げた。
ネリスは大真面目だった。
「剣くらい握るでしょうし。馬にも乗りますよね」
「乗るでしょうね」
「荷物を自分で持たないとは思いますけど」
「たぶん」
「じゃあ、分からないじゃないですか」
そのとおりだった。
リゼットはもう一度掌を見る。
王子の手なら、もっと滑らかなはずだ。
そう考えかけていた。
だが、第二王子が日々どの程度身体を使っていたか、リゼットは知らない。
剣を握る頻度も、馬の手綱を取る時間も知らない。
書類の上に王子と書かれているからといって、その人間の手まで勝手に作ることはできない。
「記録はする」
「異常として?」
「所見として」
ネリスが頷いた。
「それなら」
リゼットは掌の硬化と爪周囲の状態を書き込んだ。
右肩の痕とは別の項目にした。
二つを結びつける理由は、まだない。
記録を終えると、今度は顔の処置へ戻った。
損傷が大きい。
片側は元の輪郭を追えるが、傷の深い側はそうはいかない。
洗浄と一次保存の段階で確認していた箇所を、改めて見直す。
ネリスが布を替えた。
「儀礼部から伝言が来てます」
「何て?」
「できるだけ、殿下らしく」
リゼットの手が止まった。
「それだけ?」
「だいたい」
「誰の希望?」
「宮廷側、としか」
それ以上は聞かなかった。
誰が言ったか分からないことを、王妃の願いにも、兄の願いにもする必要はない。
ただ、求められている内容だけは分かる。
殿下らしく。
リゼットは損傷した顔を見た。
「無理ね」
「言い方」
「完全には戻せない」
「最初からそっちを言えばいいんです」
ネリスが布を置き直す。
リゼットは傷の縁を確認した。
元の顔を知っている者が見て、第二王子らしいと感じる程度まで整えることはできるかもしれない。
しかし、失われた輪郭を勝手に作れば、それは復元ではない。
左右を対称にすれば本人らしくなるわけでもない。
「生前の肖像は?」
「儀礼部に確認中です」
「来ても、そのとおりにはできない」
「はい」
ネリスは今度は何も足さなかった。
リゼットは処置の順序を決める。
腫れと崩れを抑える。
残っている輪郭を基準にする。
損傷の少ない側から、顔全体の均衡を見る。
やれることと、やってはいけないことを分ける。
「殿下らしく、って便利ですよね」
ネリスがぽつりと言った。
「便利?」
「誰も、どこまでとは言わなくていいので」
リゼットは少し考えた。
「葬送官には不便」
「だから便利なんでしょう」
返す言葉がなく、リゼットは作業へ戻った。
ネリスの言葉はときどき雑だが、外れていない。
求める側は、希望だけを伝えればいい。
どこまで応え、どこで止めるかは処置する側が決める。
朝が進むにつれ、葬送院の廊下を行き交う人が増えた。
扉の向こうから、棺材の確認をする声が聞こえる。
装束の包みは、処置室の端に置かれたままだ。
まだ着せない。
身体確認が終わっていないからだ。
リゼットは手へ戻った。
今度は角度を変えて掌を見る。
強い労働の痕ではない。
少なくとも、それだけで身分を疑うほどではない。
それでも、何も書かずに済ませるほど普通とも言い切れなかった。
右肩も同じだ。
記録との違いはある。
ただし、記録の方が不正確かもしれない。
手にも使った痕がある。
ただし、王子がそういう手を持たないとは言えない。
二つあるからといって、急に一つの答えになるわけではなかった。
「どうします?」
ネリスが聞いた。
「続ける」
「疑わないんですか」
「疑ってる、とはまだ言えない」
「気にはなる?」
「なる」
ネリスは肩をすくめた。
「じゃあ、いつもどおりですね」
リゼットは少しだけ口元を緩めた。
「そうね」
処置記録を開く。
右肩。
手。
別々に所見を書き足す。
どちらにも、身元疑義とは書かなかった。
ペンを置き、手袋を替える。
次に確認する箇所へ手を伸ばした。




