囮
五分では終わらなかった。
「知ってた」
リゼットが言った。
「まだ十二分です」
「倍以上」
「五分は目安です」
「信用ない」
セドリックは返事をしなかった。
狭い机には、既出の受領記録、荷物配置、乗員配置が並んでいた。
エリオが王族用品を受け取り、王子らしく見える側へ荷を移し、自分もその車両へ乗ったことは確認済みだった。
ただ、それが命令への服従だったのか、本人が自ら引き受けたのかは分からない。
「今日見るのはそこ?」
「はい。本人の意思を確認できる証言を取ります」
セドリックが新しい紙を二枚出した。
「今日確認したかったのは、こちらです」
「証言?」
「一人目は、当日の出発準備担当者」
「もう一人は?」
「厩務側です」
「オスカーとは別?」
「別です」
その方がよかった。
オスカーの「エリオなら」は、もう十分聞いた。
「本人たち来るの?」
「一人はすでに隣室です」
「もう一人は?」
「勤務が終わり次第来てもらいます」
「こんな時間に?」
「急ぎだと伝えています」
「嫌われるよ」
「仕事です」
「便利」
「何がです」
「その言葉」
扉が叩かれた。
出発準備を担当していた男は、セドリックを見るなり少し緊張した。
リゼットの方は二度見た。
「葬送官もいるんですか」
「今回の身元調査に関わっています」
「分かりました」
椅子へ座る。
「事故当日のことを、もう一度確認します」
セドリックは、エリオという名前を最初から強く押し出さなかった。
追跡者の接近が知らされたあと、出発準備にどんな変更があったか。
男は考えながら答えた。
「急でした」
「何が?」
リゼットが聞く。
「乗る車を変えたんです」
「誰が?」
「最初は、殿下の側近たちで話してました」
「最初は?」
「ええ。どう抜けるかって」
「エリオは?」
「いました」
セドリックが記録する。
「その時点で、王子殿下を別車両へ移す案はありましたか」
「荷物の車へ、という話は出ました」
「誰から」
「そこまでは」
男は眉を寄せた。
「何人かで話してたので」
一人の証言だけなら、また曖昧だった。
「では、エリオ・レンについて覚えていることを」
「エリオですか」
「本人が何をしたかだけで構いません」
男は少し考えた。
「外套を持ってきました」
「王子の?」
「はい」
「誰に着せるため?」
リゼットが聞いた。
「自分です」
部屋が静かになった。
「自分で?」
「ええ」
「誰かに言われて?」
男がリゼットを見る。
「それは違うと思います」
「どうして」
「本人が言ったので」
「何て?」
男は記憶を探した。
「『私がこっちへ乗ります』って」
「こっち?」
「目立つ方です。殿下の車」
「それだけ?」
「殿下は荷物の方へ、と」
リゼットはセドリックを見る。
彼はまだ何も言わない。
「命令を伝えたんじゃなくて?」
「少なくとも、そういう言い方じゃなかったです」
「侍従長から言われたって話は?」
「聞いてません」
「殿下本人からは?」
「それも」
男は少し迷った。
「むしろ、止めた人はいたと思います」
「誰が?」
「覚えてません。急だったんで」
「何を止めた?」
「エリオがそっちへ乗るのを」
「危ないから?」
「追われる車でしょう」
当然のように言った。
「本人は?」
「時間がないって」
「それで?」
「外套を受け取って、荷を動かす指示をしてました」
「指示?」
「細かいことです。こっちの箱を向こうへ、これは残すとか」
記録と合う。
王子用品の一部を目立つ側へ。
別の小荷物を目立たない側へ。
「それ、エリオが決めた?」
「全部かは知りません」
男は首を振った。
「でも、自分が乗るって言ったのは本人です」
そこは明確だった。
「怖がってた?」
リゼットが聞いた。
「分かりません」
「平気そうだった?」
「それも」
男は困った顔をする。
「みんな急いでました。エリオだけ見てたわけじゃないです」
いい答えだった。
勇敢だったとも。
笑っていたとも。
死ぬ覚悟をしていたとも言わなかった。
「他に何か言ってた?」
「追いつかれる前に出せ、とか」
「最後の言葉みたいなのは?」
男が怪訝そうにする。
「出発前ですよ?」
「そうだった」
リゼットは黙った。
セドリックが少しだけこちらを見た。
確認が終わる。
男が退室すると、リゼットはすぐ言った。
「本人が言ってる」
「一人目です」
「まだ足りない?」
「重要な判断なので」
「分かってる」
リゼットは反論せず、次を待った。
厩務員が来たのは、それから少し後だった。
仕事を終えたばかりなのか、袖にまだ馬屋の匂いが残っていた。
「何かまずいことしましたか」
座る前に聞いた。
「現時点では、あなたの行為を問題にしているわけではありません」
セドリックが答える。
「怖い言い方ですね」
「普通に聞けばいいのに」
リゼットが言う。
「では普通に聞きます」
本当に言い直した。
「事故当日、エリオ・レンから馬の準備を頼まれましたか」
「ああ」
厩務員はすぐ頷いた。
「頼まれました」
「どこへ?」
「街道の分岐の先です」
地図を出す。
「ここ?」
リゼットが指す。
「もう少し先」
厩務員が位置を直した。
王子らしく見える車両が進んだ道。
事故地点より手前で、さらに脇へ抜けられる場所。
「何頭?」
「一頭です」
「何のため?」
「乗り換え」
「誰が?」
「エリオが」
今度はリゼットもすぐには聞き返さなかった。
セドリックが続ける。
「本人からそう聞きましたか」
「聞きました」
「いつ?」
「出る前です。かなり急に」
「具体的には」
厩務員は机の上に肘をつきかけ、セドリックを見てやめた。
「追手が来るって話になったあとです」
「何と頼まれた?」
「分岐の先へ、足の速いのを一頭回してくれって」
「理由は?」
「途中で車を捨てるかもしれないから」
「本人が使う?」
「そう言ってました」
リゼットは地図を見る。
「馬車のまま最後まで行くつもりじゃなかった」
「最初からじゃないですよ」
厩務員が言った。
「何が?」
「最初の予定にはなかった」
「追われてから?」
「ええ」
「エリオ本人が来た?」
「本人です」
「誰かの命令書は?」
「ありません」
「侍従長の指示だとか」
「言ってません」
同じだった。
別の部署。
別の男。
オスカーを通していない。
「そのあと、どこへ行くって?」
セドリックが聞く。
「合流すると」
「誰と」
「そこまでは聞いてません」
「場所は?」
厩務員が地図の別の箇所を指した。
「確か、この辺りです」
「再集合地点?」
「私はそう聞きました」
リゼットは指先でその位置を追った。
事故現場ではない。
追跡者を引きつけたまま進み続ける道でもない。
一度離れて、馬へ乗り換え、その先で合流する。
「馬は実際に回した?」
「回しました」
「記録は?」
「あるはずです」
セドリックがすでに用意していた紙を出した。
「これですね」
「ああ、それです」
馬の管理番号。
出庫時刻。
届け先。
返却欄は空いている。
「事故で使われなかったから?」
「取りに戻しました」
「誰が?」
「事故の知らせのあと、こっちから」
その記録もあった。
予備馬は、分岐先で使われないまま回収されている。
「エリオは何か言ってた?」
リゼットが聞く。
「急いでくれ、くらいですよ」
「怖いとか」
「知りません」
「死ぬかもしれない、とか」
厩務員が変な顔をした。
「そんな話なら馬一頭じゃ足りないでしょう」
リゼットは黙った。
「どういう意味?」
「死ぬつもりなら、乗り換える馬なんか頼まないでしょう」
あまりに普通の答えだった。
セドリックの筆が止まる。
「それはあなたの推測です」
「そうですけど」
「証言としては、本人から乗り換え用の予備馬を頼まれた。それだけで結構です」
「分かりました」
厩務員は少し不満そうだった。
リゼットは、今の言葉を忘れないようにした。
証拠ではない。
でも、考えるときには必要になりそうだった。
確認を終え、厩務員も帰った。
部屋に二人だけになる。
セドリックは二つの証言記録を離して置いた。
「別々に聞いた」
リゼットが言う。
「はい」
「二人とも、エリオ本人」
「そう証言しています」
「記録もある」
王族用品の受領。
荷物配置の変更。
乗員変更。
予備馬の出庫。
全部が事故前の同じ短い時間帯へ集まる。
「じゃあ」
リゼットは言った。
「命令されただけじゃない」
セドリックはすぐ答えなかった。
紙を順番に並べた。
「出発準備担当者は、エリオ本人が自分の乗車変更を申し出たと証言」
一枚。
「厩務員は、本人から乗り換え用の予備馬を依頼されたと証言」
二枚目。
「その二つは互いの証言内容を知らない」
「うん」
「既存の受領記録と配置変更記録にも矛盾しない」
「うん」
「エリオ本人が、自分から王子らしく見える側へ乗ると申し出て、その実行に能動的に関与したと判断できます」
「自分から?」
「そこまで言ってよいでしょう」
ようやく確定した。
オスカーがそう思ったからではない。
エリオが忠実な従者だったからでもない。
本人が動いた。
本人が言った。
本人が準備した。
「囮」
リゼットが言った。
「はい」
「自分で選んだ」
「危険な役を引き受けることは」
セドリックが付け足した。
リゼットは彼を見る。
「そこ、分けるの?」
「分けます」
「何と」
「この先に起きたことと」
机の上には、予備馬の記録もある。
エリオが使うはずだった馬。
事故後、誰にも乗られないまま回収された。
「でも危ないって分かってた」
「追跡される役ですから、危険性は理解していたでしょう」
「怪我するかもしれないことも」
「そう考えるのが自然です」
「死ぬことも?」
セドリックは少し間を置いた。
「可能性として予想できた、ということと、死ぬことを選んだ、は違います」
リゼットは地図を見る。
分岐。
予備馬。
その先にある再集合地点。
「戻るつもりだった?」
「それは次に整理しましょう」
「今でも見えるけど」
「見えることと、記録としてどこまで言えるかは別です」
「またそれ」
言ってから、少し笑った。
「久しぶりに言った気がする」
「そうですか」
「たぶん」
セドリックは気にせず、調査記録を書き始めた。
エリオ・レン。
追跡接近後、自ら王子らしく見える側への乗車を申し出た。
第二王子を目立たない車両へ移し、自身が王族用品を身につけて目立つ車両へ乗る準備に関与。
別途、分岐先への予備馬準備を本人が依頼。
「長い」
「短くすると意味が変わります」
「『自分から囮になった』で」
「それでは、その後の行為まで本人意思だったように読めます」
リゼットは黙った。
オスカーの言葉を思い出した。
エリオなら望んだ。
今日分かったのは、その一部だけだった。
王子を逃がすため、自分が追われる側へ乗る。
そこまでは、本当にエリオが選んだ。
それより先は、まだ本人の言葉ではなかった。
セドリックが記録を書き終える。
予備馬の出庫票は、その横に残っていた。
事故の知らせを受けたあと、未使用のまま回収。
リゼットは返却時刻まで読んだ。
その馬に、エリオが乗ることはなかった。




