散湯
オスカーとの確認を終えて葬送院へ戻ると、ネリスが処置室の前にいた。
「遅かったね」
「長かった」
「何か食べた?」
「まだ」
「また?」
「今日は私が忘れたんじゃない」
「じゃあ誰が忘れさせたの」
「仕事」
「便利ね、それ」
言われたことのある言葉だった気がした。
リゼットは返さず、処置室へ入った。
覆いを開く。
エリオの身体は朝と同じ場所にある。
当たり前なのに、毎回確かめた。
最低限保存。
大きく手を入れることはできない。
けれど、何もしなくていいわけでもない。
「ここ」
ネリスが手指を示す。
「分かってる」
乾きの進んだところを確認する。
顔。
口元。
指。
事故による損傷が強かった箇所。
処置記録と見比べながら、必要な範囲だけ手を入れた。
「いつまで続けるの」
ネリスが聞いた。
「決まるまで」
「それ、答えになってない」
「私も知りたい」
今朝届いた儀礼部の期限。
オスカーの偽証。
地方から呼ばれるエリオの姉。
どれも時間が違う。
身体だけが、全部を同じ速度で待ってはくれない。
「もう少しこっち」
ネリスに灯りを頼む。
頬の状態を見る。
「今日の分はこれで」
「本当に?」
「うん」
覆いを戻した。
時刻を書く。
使用したものを書く。
署名。
そこまで済ませてから、ようやく肩が重いことに気づいた。
「疲れてる?」
ネリスが聞く。
「たぶん」
「散湯行ってきたら」
「帰ってからでいい」
「そのまま行政棟行くんでしょう」
リゼットは手を止めた。
「何で知ってるの」
「さっき監察官の使いが来た」
「本人じゃない?」
「違う。資料が揃ったから確認したいって」
「今日?」
「今日って」
「まだ仕事するの?」
ネリスが笑った。
「それを私に聞く?」
自分で言っておいて変だった。
リゼットは処置衣の袖を見る。
水。
薬剤。
長く着ていると、自分では気づかなくなる匂いが残っていた。
「行ってくる」
「行政棟?」
「先に散湯」
「正解」
散湯場に入ると、急に静かになった。
眼鏡を外す。
髪をほどく。
留めていた跡が頭皮に残っている。
濡らすと少し痛かった。
「いた」
誰も聞いていない。
今日は湯の温度を確かめる気にもならなかった。
熱ければ少し下がる。
冷たければ足す。
そのくらいでいい。
髪から水が落ちた。
肩。
背中。
胸元。
膝。
処置室で付いた匂いが落ちていく。
だからといって、今日聞いた話まで落ちるわけではなかった。
エリオなら望んだ。
オスカーはそう言った。
本人ではない人間が、本人をよく知っているからという理由で、どこまで代わりに決められるのか。
「もういい」
声に出した。
今ここで考えても進まない。
髪を洗い流す。
額から水を拭った。
腕に触れると、皮膚が少し熱かった。
疲れている。
空腹でもある。
その程度のことなら自分で分かった。
散湯を出る。
身体を拭き、清潔な下着と仕事外の服へ替えた。
今日は家へ帰る前に寄るだけなので、飾る必要はない。
髪は完全には乾かなかった。
肩より下の部分にまだ水気が残る。
束ねようかと思い、やめた。
濡れたまま結ぶ方が気持ち悪い。
濃い茶色の眼鏡を掛ける。
鏡を見る。
自分だった。
それ以上見る理由もなく、荷物を持った。
行政棟では、廊下の灯りがもう夜の数に減っていた。
セドリックは小さな資料室にいた。
扉を開ける。
「遅くなった」
「いえ」
彼が顔を上げた。
視線が、一拍だけ長く留まった。
リゼットはそれに気づいた。
理由は聞かなかった。
「髪、まだ濡れていますよ」
「乾かなかった」
「風邪をひきませんか」
「そのくらいでひかない」
「そうですか」
それだけだった。
「資料は?」
「こちらです」
机へ向かう。
狭かった。
二人用ではない。
「もっと大きいところなかった?」
「使用中です」
「誰がこんな時間に」
「私たちと同じような人でしょう」
「嫌ね」
「自分も含めていますよ」
「分かってる」
椅子が二脚。
並べると肩が近い。
向かい合わせに置けるほどの幅はない。
リゼットは座った。
セドリックも隣へ座る。
「何を見るの」
「エリオの事故前の勤務変更です」
「囮のこと?」
「まだ、そう決めません」
「オスカーが答えなかったところ」
「はい」
次に調べるための資料だった。
新しい結論を出すためではなく、何を確認すべきかを整理する。
受領記録。
人員配置。
厩側の準備記録。
セドリックが一枚を横へずらした。
「これは既出です」
「見た」
「こちらも」
「見た」
「では新しく確認するのは」
彼の手が紙の上を動く。
その指を見た。
しまったと思うほど長くは見ていない。
ただ、気づいた。
あの夜、寝台の中で思い出した手だった。
「オルディスさん?」
「何」
「聞いていますか」
「聞いてる」
「今、どこを見ていました」
「紙」
「そうですか」
嘘ではない。
紙の上だった。
リゼットは眼鏡を押し上げた。
「続けて」
セドリックは続けた。
事故前に追加で用意された馬。
変更された従者配置。
荷物の受領。
それぞれについて、誰に確認すれば本人が自ら申し出たと判断できるか。
「準備した人」
リゼットが言う。
「はい」
「厩務員も?」
「候補です」
「オスカー以外で」
「その方がいいでしょう」
「何で?」
「彼には守りたい結論がある」
リゼットは顔を上げた。
セドリックの横顔が近かった。
「あなたがそう言うんだ」
「何かおかしいですか」
「前は、人の立場と記録は分けるって」
「今も分けます」
「でも、オスカーの話だけでは決めない」
「記録と独立した証言が取れるなら、その方が強い」
「なるほど」
紙へ戻る。
二人とも同時に同じ欄を見ようとして、少し前へ出た。
肩が近づく。
触れはしない。
仕事だけなら、気にするほどの距離ではない。
今日は分かった。
セドリックも少し動いた。
離れるためかと思った。
そうではなかった。
紙を自分たちの間へ引いただけだった。
「見えます?」
「見える」
そのまま読む。
肩は近い。
リゼットの髪から、まだ乾ききっていない先端が一筋落ちた。
紙の端へ触れそうになる。
セドリックの手が先に動いた。
紙だけを少しずらす。
髪には触れない。
「濡れます」
リゼットは髪を肩の後ろへ払った。
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
紙を読む距離だけは変わらなかった。
「これ」
リゼットが別の記録を指す。
「馬の準備、誰が頼んだか残ってる?」
「依頼を受けた側なら覚えている可能性があります」
「じゃあ、明日?」
「今日中に連絡だけ入れます」
「まだ働くの」
「あなたもここにいます」
「私は帰る」
「資料を見終わったら」
「それ、帰るって意味?」
「同じです」
「違うでしょう」
セドリックの腕が動いた。
紙を取るために伸ばした手が、リゼットの手のすぐ横を通る。
指一本分ほど。
触れない。
わざと触れなかったのか。
ただ紙を取っただけなのか。
分からない。
分からないことを、前なら考えなかった。
「次」
セドリックが言う。
「まだある?」
「あと二枚です」
「長い」
「五分です」
「あなたの五分、信用ない」
「根拠は?」
「今まで」
彼が少し笑った。
ほんの一瞬だった。
リゼットは見なかったことにした。
次の紙が机の中央へ置かれる。
二人とも椅子を動かさなかった。




