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王宮葬儀人 ―リゼット・オルディスの葬送記録―  作者: 高遠雪斎
第五章「生者のための死」

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散湯

 オスカーとの確認を終えて葬送院へ戻ると、ネリスが処置室の前にいた。

「遅かったね」

「長かった」

「何か食べた?」

「まだ」

「また?」

「今日は私が忘れたんじゃない」

「じゃあ誰が忘れさせたの」

「仕事」

「便利ね、それ」


 言われたことのある言葉だった気がした。

 リゼットは返さず、処置室へ入った。

 覆いを開く。

 エリオの身体は朝と同じ場所にある。

 当たり前なのに、毎回確かめた。

 最低限保存。

 大きく手を入れることはできない。

 けれど、何もしなくていいわけでもない。

「ここ」

 ネリスが手指を示す。


「分かってる」

 乾きの進んだところを確認する。

 顔。

 口元。

 指。

 事故による損傷が強かった箇所。

 処置記録と見比べながら、必要な範囲だけ手を入れた。

「いつまで続けるの」

 ネリスが聞いた。


「決まるまで」

「それ、答えになってない」

「私も知りたい」

 今朝届いた儀礼部の期限。

 オスカーの偽証。

 地方から呼ばれるエリオの姉。

 どれも時間が違う。

 身体だけが、全部を同じ速度で待ってはくれない。


「もう少しこっち」

 ネリスに灯りを頼む。

 頬の状態を見る。

「今日の分はこれで」

「本当に?」

「うん」

 覆いを戻した。

 時刻を書く。

 使用したものを書く。

 署名。

 そこまで済ませてから、ようやく肩が重いことに気づいた。


「疲れてる?」

 ネリスが聞く。

「たぶん」

「散湯行ってきたら」

「帰ってからでいい」

「そのまま行政棟行くんでしょう」

 リゼットは手を止めた。


「何で知ってるの」

「さっき監察官の使いが来た」

「本人じゃない?」

「違う。資料が揃ったから確認したいって」

「今日?」

「今日って」

「まだ仕事するの?」

 ネリスが笑った。


「それを私に聞く?」

 自分で言っておいて変だった。

 リゼットは処置衣の袖を見る。

 水。

 薬剤。

 長く着ていると、自分では気づかなくなる匂いが残っていた。

「行ってくる」

「行政棟?」

「先に散湯」

「正解」


 散湯場に入ると、急に静かになった。

 眼鏡を外す。

 髪をほどく。

 留めていた跡が頭皮に残っている。

 濡らすと少し痛かった。

「いた」

 誰も聞いていない。

 今日は湯の温度を確かめる気にもならなかった。

 熱ければ少し下がる。


 冷たければ足す。

 そのくらいでいい。

 髪から水が落ちた。

 肩。

 背中。

 胸元。

 膝。

 処置室で付いた匂いが落ちていく。

 だからといって、今日聞いた話まで落ちるわけではなかった。


 エリオなら望んだ。

 オスカーはそう言った。

 本人ではない人間が、本人をよく知っているからという理由で、どこまで代わりに決められるのか。

「もういい」

 声に出した。

 今ここで考えても進まない。

 髪を洗い流す。

 額から水を拭った。

 腕に触れると、皮膚が少し熱かった。


 疲れている。

 空腹でもある。

 その程度のことなら自分で分かった。

 散湯を出る。

 身体を拭き、清潔な下着と仕事外の服へ替えた。

 今日は家へ帰る前に寄るだけなので、飾る必要はない。

 髪は完全には乾かなかった。

 肩より下の部分にまだ水気が残る。

 束ねようかと思い、やめた。


 濡れたまま結ぶ方が気持ち悪い。

 濃い茶色の眼鏡を掛ける。

 鏡を見る。

 自分だった。

 それ以上見る理由もなく、荷物を持った。

 行政棟では、廊下の灯りがもう夜の数に減っていた。

 セドリックは小さな資料室にいた。

 扉を開ける。


「遅くなった」

「いえ」

 彼が顔を上げた。

 視線が、一拍だけ長く留まった。

 リゼットはそれに気づいた。

 理由は聞かなかった。

「髪、まだ濡れていますよ」

「乾かなかった」

「風邪をひきませんか」

「そのくらいでひかない」

「そうですか」


 それだけだった。

「資料は?」

「こちらです」

 机へ向かう。

 狭かった。

 二人用ではない。

「もっと大きいところなかった?」

「使用中です」

「誰がこんな時間に」


「私たちと同じような人でしょう」

「嫌ね」

「自分も含めていますよ」

「分かってる」

 椅子が二脚。

 並べると肩が近い。

 向かい合わせに置けるほどの幅はない。

 リゼットは座った。

 セドリックも隣へ座る。


「何を見るの」

「エリオの事故前の勤務変更です」

「囮のこと?」

「まだ、そう決めません」

「オスカーが答えなかったところ」

「はい」

 次に調べるための資料だった。

 新しい結論を出すためではなく、何を確認すべきかを整理する。

 受領記録。


 人員配置。

 厩側の準備記録。

 セドリックが一枚を横へずらした。

「これは既出です」

「見た」

「こちらも」

「見た」

「では新しく確認するのは」


 彼の手が紙の上を動く。

 その指を見た。

 しまったと思うほど長くは見ていない。

 ただ、気づいた。

 あの夜、寝台の中で思い出した手だった。

「オルディスさん?」

「何」

「聞いていますか」

「聞いてる」


「今、どこを見ていました」

「紙」

「そうですか」

 嘘ではない。

 紙の上だった。

 リゼットは眼鏡を押し上げた。

「続けて」


 セドリックは続けた。

 事故前に追加で用意された馬。

 変更された従者配置。

 荷物の受領。

 それぞれについて、誰に確認すれば本人が自ら申し出たと判断できるか。

「準備した人」

 リゼットが言う。


「はい」

「厩務員も?」

「候補です」

「オスカー以外で」

「その方がいいでしょう」

「何で?」

「彼には守りたい結論がある」

 リゼットは顔を上げた。

 セドリックの横顔が近かった。


「あなたがそう言うんだ」

「何かおかしいですか」

「前は、人の立場と記録は分けるって」

「今も分けます」

「でも、オスカーの話だけでは決めない」

「記録と独立した証言が取れるなら、その方が強い」

「なるほど」


 紙へ戻る。

 二人とも同時に同じ欄を見ようとして、少し前へ出た。

 肩が近づく。

 触れはしない。

 仕事だけなら、気にするほどの距離ではない。

 今日は分かった。

 セドリックも少し動いた。

 離れるためかと思った。

 そうではなかった。

 紙を自分たちの間へ引いただけだった。


「見えます?」

「見える」

 そのまま読む。

 肩は近い。

 リゼットの髪から、まだ乾ききっていない先端が一筋落ちた。

 紙の端へ触れそうになる。

 セドリックの手が先に動いた。

 紙だけを少しずらす。

 髪には触れない。


「濡れます」

 リゼットは髪を肩の後ろへ払った。

 二人とも、それ以上は何も言わなかった。

 紙を読む距離だけは変わらなかった。

「これ」

 リゼットが別の記録を指す。

「馬の準備、誰が頼んだか残ってる?」

「依頼を受けた側なら覚えている可能性があります」

「じゃあ、明日?」


「今日中に連絡だけ入れます」

「まだ働くの」

「あなたもここにいます」

「私は帰る」

「資料を見終わったら」

「それ、帰るって意味?」

「同じです」

「違うでしょう」


 セドリックの腕が動いた。

 紙を取るために伸ばした手が、リゼットの手のすぐ横を通る。

 指一本分ほど。

 触れない。

 わざと触れなかったのか。

 ただ紙を取っただけなのか。

 分からない。

 分からないことを、前なら考えなかった。

「次」

 セドリックが言う。


「まだある?」

「あと二枚です」

「長い」

「五分です」

「あなたの五分、信用ない」

「根拠は?」

「今まで」


 彼が少し笑った。

 ほんの一瞬だった。

 リゼットは見なかったことにした。

 次の紙が机の中央へ置かれる。

 二人とも椅子を動かさなかった。


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