医官補佐
右肩は、最初に見たときより見づらくなっていた。
リゼットは処置台の脇へ灯りを寄せた。
「もう少しこっち」
ネリスが台を動かす。
「そこ」
右肩後方。
痕は残っている。
位置も形も変わってはいない。
けれど、死後の時間が進み、保存処置も重なっている。
最初の日と同じ条件で皮膚を見ることは、もうできない。
「前より分かりにくい?」
ネリスが聞いた。
「うん」
「消える?」
「消えない。でも、見えるものは減る」
リゼットは最初の身体記録を横に置いた。
受領直後に自分が書いたもの。
数日後に書いた追加所見。
そして現在。
今の身体だけを見て、最初の日の状態まで言い直すべきではない。
「だから書くんだね」
ネリスが言った。
「何が」
「そのとき見たこと」
「そう」
答えてから、右肩を覆った。
今日はこれ以上触らない。
「監察官、来てるよ」
「知ってる」
「また紙?」
「今日は人」
「どっちが面倒?」
リゼットは少し考えた。
「人による」
「じゃあ頑張って」
無責任なことを言って、ネリスは使った道具を片づけ始めた。
廊下へ出ると、セドリックが待っていた。
「確認できましたか」
「今の状態は」
「判断は変わりません?」
「変わらない。でも、今日初めて見たなら同じところまで言えるかは分からない」
「初期記録が必要?」
「かなり」
セドリックは頷いた。
「では、それも持ってきてください」
「持ってる」
「準備がいいですね」
「私の記録だから」
「そうでした」
二人で行政棟へ向かった。
途中でセドリックが一枚の紙を渡す。
「この人物です」
王宮医官補佐。
ドリアン・メルク。
四十八歳。
外傷処置を主に担当している。
「この人に決まったの?」
「決まった、ではありません」
「でも呼んだ」
「確認できるものが重なりました」
王族機密移送へ切り替わった時間帯。
その夜、王宮医療側で勤務していた者。
外傷処置を行える者。
通常とは別に出された処置材料と器具。
その受領記録。
「名前」
「ドリアン・メルクです」
「本人の署名?」
「確認済みです」
「身体記録も見られた?」
「そこは本人に聞きます」
面談室には、すでに男が一人座っていた。
立ち上がる。
背は高くない。
髪には白いものが混じっている。
医官の上衣を着ていた。
「ドリアン・メルクです」
「王宮監察官、セドリック・ハルヴェイです。こちらは王宮葬送官リゼット・オルディス」
「存じています」
リゼットは座った。
ドリアンも座る。
机の上に、セドリックが紙を三枚置いた。
「事故当夜について伺います」
「はい」
「第二王子殿下と確認された遺体へ、あなたは処置を行いましたか」
「行いました」
返事が早かった。
リゼットはドリアンを見る。
セドリックも次の質問へ進む。
「どこへ」
「複数あります。事故による損傷部分の確認と、外観の調整です」
「右肩は?」
一拍あった。
「処置しました」
リゼットが身体記録を開く。
「どういう処置?」
ドリアンはこちらを見た。
「王子殿下の身体記録にある識別痕を、確認できる状態へ整える処置です」
「整える?」
「そう指示されました」
「何があったの」
「事故で痕の一部が損なわれた可能性がある、と」
「実際に古傷が残ってた?」
ドリアンは答えなかった。
その沈黙を、リゼットは待った。
「ありませんでした」
やがて言った。
「なかった?」
「記録にある形では」
「じゃあ何を整えたの」
ドリアンの口が一度閉じる。
「新たに処置しました」
セドリックは筆を動かした。
リゼットは動かなかった。
「右肩に?」
「はい」
「記録にある古傷へ似せて?」
「はい」
それで終わった。
受領直後から気になっていた痕。
位置は合う。
形も近い。
なのに、幼い頃の深い傷が治った身体には見えなかった。
答えは短かった。
誰かが作った。
その誰かが、目の前に座っている。
「どうやったか、説明できる?」
「できます」
リゼットは必要な範囲だけ聞いた。
皮膚のどこへ処置を加えたか。
記録された痕の形へ、どの程度合わせようとしたか。
事故による損傷として見せるのではなく、以前から存在した識別痕に見えるよう外観を調整したこと。
使った材料と器具は、セドリックが確認した出庫記録と矛盾しなかった。
「深いところまでは?」
「行っていません」
「だから浅い」
「はい」
「古い裂傷と同じにはならない」
「承知しています」
リゼットは顔を上げた。
「承知してた?」
「完全に同じ状態にはできません」
「そうじゃない」
声が少し強くなった。
「古傷を直したんじゃないって分かってた?」
ドリアンは黙った。
「そこにないものを作ったんでしょう」
「そうです」
「それ、整復じゃない」
「通常の整復ではありません」
否定しなかった。
「医療でもない」
「生者への医療処置ではありません」
「そういう話してない」
「オルディスさん」
セドリックが呼んだ。
止める声ではなかった。
リゼットはドリアンから目を離さない。
「あなたは何だと思ってやったの」
ドリアンは机上の紙を見た。
「正式に第二王子殿下と確認された遺体でした」
「それは聞いてない」
「重要です」
初めて、ドリアンの声が少し硬くなった。
「私は身元確認を担当していません。死亡確認後、第二王子殿下の遺体として引き渡された」
「だから?」
「事故で識別痕が損なわれている可能性がある。国葬前に、身体記録と一致する状態へ整える必要があると説明を受けました」
「でも痕はなかった」
「はい」
「だったらおかしいでしょう」
「おかしいとは思いました」
リゼットの言葉が止まった。
ドリアンは続けた。
「通常ではないとも」
「それでもやった」
「上位からの正式な処置指示でした」
「正式なら何してもいいの?」
「そうは言っていません」
「同じでしょう」
「違います」
ドリアンがこちらを見た。
「私が判断したのは、身元ではありません」
「分かってる」
「すでに身元確認は終わっていた。王族の遺体であることを疑う立場にもなかった」
「でも、自分がやる処置が普通じゃないことは分かった」
「はい」
「そこはあなたの仕事でしょう」
返事はなかった。
セドリックが初めて口を挟んだ。
「メルク医官補佐。処置を拒否することはできましたか」
「簡単ではありません」
「不可能でしたか」
ドリアンはすぐには答えなかった。
「不可能とまでは言いません」
「異議を残すことは?」
「できたでしょう」
「しましたか」
「いいえ」
部屋が静かになった。
リゼットは手元の身体記録を見る。
ドリアンは、自分には何も選べなかったとは言わなかった。
「理由は」
セドリックが聞く。
「正式な身元確認が済んでいたからです」
「それだけですか」
「王族案件です。機密指定があり、処置内容も上位から来ている。私の担当は、指定された外傷処置を行うことでした」
「不自然さより、手続を優先した?」
「そう言われれば、そうです」
苦しそうな顔はしていなかった。
開き直っても見えない。
リゼットには、そこが余計に扱いにくかった。
「誰から命令されたの」
セドリックが問う。
ドリアンは、受領した指示経路を答えた。
医療側の上位系統。
王族機密案件。
必要な認証。
ただし、その先で誰が最初に決めたのかまでは知らないという。
「王璽尚書府は?」
「認証系統に含まれていたことは知っています」
「アデル・セルヴァン本人から指示を受けましたか」
「いいえ」
「会いましたか」
「いいえ」
「第二王子殿下が生存していると聞きましたか」
ドリアンの眉が動いた。
「生存?」
「質問に答えてください」
「聞いていません」
「遺体が別人だという情報は?」
「ありません」
「エリオ・レンという名を」
「この件では聞いていません」
セドリックが一つずつ記録する。
リゼットはドリアンを見る。
驚いたようには見えた。
だが、驚いた顔だけで真偽を決めることはできない。
「あなた、誰の身体だと思ってたの」
「第二王子殿下です」
「本当に?」
「それ以外の説明を受けていません」
「でも、ない傷を作った」
「はい」
「それでも?」
ドリアンは少し長く黙った。
「事故で状態が変わったのだと、自分に説明しました」
「自分に?」
「そうです」
それは、上から言われた説明とは少し違った。
「痕が見えなくなっただけかもしれない。損傷で失われたのかもしれない。身元はすでに複数の手続で確認されている。なら、自分が疑う必要はないと」
「疑わなかった?」
「疑いました」
ドリアンははっきり答えた。
「だから、自分に説明したんです」
リゼットは何も言えなかった。
知らなかったのではない。
全部知っていたのでもない。
目の前の仕事の一部だけがおかしいと気づいて、そのおかしさを、自分の担当外へ押し出した。
「もし、今同じ命令が来たら?」
リゼットが聞いた。
セドリックがこちらを見る。
ドリアンは答えるまでに時間を使った。
「今なら、記録を残します」
「断るんじゃないの」
「内容を確認します」
「また命令だったら?」
「それでも、少なくとも異議は残す」
「今なら」
「はい」
リゼットは椅子へ背を預けた。
「遅いね」
「そうですね」
言い訳は返ってこなかった。
事情確認が終わったあと、リゼットは処置室へ戻った。
セドリックもついてきた。
「見るんですか」
「もう一度だけ」
「今朝も見ました」
「本人の説明を聞いたから」
覆いを開く。
右肩。
ドリアンが示した処置位置と、自分が最初に記録した範囲を照らす。
現在の状態だけでは、細部の一部はもう確かめにくい。
受領直後の記録。
後からまとめた追加所見。
ドリアンが認めた処置内容。
三つを合わせる。
「合う」
リゼットが言った。
「何が」
「私が変だと思ったところと、あの人がやったところ」
「記録できますか」
「できる」
机へ移った。
新しい所見ではない。
既存所見と、処置者本人の説明との照合だった。
右肩後面の識別痕。
生前から存在した古い瘢痕ではなく、死亡後、身体記録上の特徴へ近づける目的で追加された処置と確認。
実施者、ドリアン・メルク。
リゼットはそこで筆を止めた。
「何です?」
「この先」
「何かありますか」
「ない」
誰が命じた。
なぜ命じた。
誰の身体だと知っていた。
そこまで自分の記録へ入れる話ではない。
「これでいい」
署名した。
セドリックが横から確認する。
「右肩については確定ですね」
「うん」
「では、次は命令経路です」
リゼットは手袋を外した。
「クララ?」
「もう一度確認します」
「今度は何を見るの」
「見えなかった数時間の中身です」
セドリックは記録の写しを受け取った。
リゼットは覆いを戻し、灯りを元の位置へ戻した。




