事故のあと
朝一番に見たのは、紙ではなく身体だった。
リゼットは手袋を替え、覆いを胸元まで戻した。
保存を止めたわけではない。
ただ、本格的な整復と装束へ進めないまま、必要最低限の処置を繰り返している。
その違いが、日を重ねるほど大きくなっていた。
「ここ、昨日より乾いてる」
ネリスが言った。
「うん」
頬の一部。
手指。
損傷の強かった場所。
リゼットは最初の処置記録と見比べた。
「追加する」
「まだ保つ?」
「保たせる」
ネリスはそれ以上聞かなかった。
必要なものを渡す。
リゼットは手を動かした。
名前はまだ公にはルシアンのまま。
身体については、エリオ・レンとの一致を自分で記録している。
どちらの名で最終処置をするのか決まらないまま、身体だけが日を重ねる。
「終わったら監察官が来るって」
「聞いてる」
「今日は何?」
「事故」
「今さら?」
「今だから」
ネリスは少し考えたらしかった。
「じゃあ、これ終わるまで待ってもらいなよ」
「そのつもり」
セドリックが来たのは、その少し後だった。
処置室の外で待っていた。
「入らなかったの?」
「処置中だと聞いたので」
「前は入ったでしょう」
「今日は急ぎません」
「珍しい」
「急いでも処置は早くならないでしょう」
リゼットは手袋を外した。
「正しい」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
「知っています」
いつもの眼鏡を掛け直し、記録へ署名する。
「終わり?」
ネリスが聞く。
「今日の分は」
「今日の分、ね」
その言い方には何も返さなかった。
セドリックと資料室へ移る。
机にはすでに紙が並べられていた。
「また多い」
「今日は順番だけです」
「それが多い」
事故前の追跡記録。
街道の警備記録。
現場へ向かった回収隊の報告。
医療側の記録。
それから遺体移送の書類。
セドリックは一枚ずつ時刻の順に置いていた。
「ここまでは前に見ました」
指が止まる。
追跡側が王子だと思っていた車両へ近づき始めた時刻。
「前から来た人」
「はい」
先回りした一団が、狭い街道で進路を絞った。
完全に道を塞いだわけではない。
ただ、そのままの速さで通り抜けるには無理がある。
「後ろからも」
「別の一団が接近しています」
これまでに確認したものと同じだった。
前方。
後方。
射撃は確認されていない。
車体へ刃を向けた形跡もない。
追跡者は、中にいる人物を第二王子だと思っている。
生きたまま止めるつもりだった。
「ここから新しい記録です」
セドリックが警備報告を寄せた。
事故後に現場へ入った警備担当者が、路面と車両の位置を記録している。
「読んで」
「ご自分で」
「字が細かい」
「眼鏡を掛けているでしょう」
「あなたが読んだ方が早い」
セドリックは一度こちらを見てから読んだ。
車輪の位置。
路面に残った轍。
馬具の破損。
車体が横倒しになった場所。
追跡側の馬がいた位置についても、複数の証言と照らして書かれている。
「崖から落ちたんじゃない?」
「落ちていません」
「故意に車体をぶつけられた?」
「その痕跡も確認されていません」
「じゃあ何で転んだの」
「そこです」
別の証言。
街道脇にいた者は、前方から出てきた騎馬を避けようとして、馬車側が大きく進路を変えたのを見ていた。
後ろからも馬が迫っている。
さらにもう一つ。
回収隊員が、馬具の一部が強く引かれた状態で切れていたと記録している。
「馬が暴れた?」
「当時の御者への聴取では、制御を失ったとあります」
「御者は生きてたの?」
「負傷していますが生存しています」
「その人は何て」
「前を塞がれ、後ろからも騎馬が来た。止めようとしたが馬が横へ逃げた、と」
リゼットは地図を見た。
道は狭い。
左右へ十分逃がせるほど広くない。
「前に馬。後ろにも馬」
「はい」
「自分たちも馬車」
「そうです」
「撃たなくても危ないでしょう」
「危険です」
セドリックは迷わなかった。
「殺すつもりがなかったから事故は仕方ない、にはなりません」
「うん」
「武装して追跡し、狭路で複数方向から停止を強いた。事故を生んだ行動として記録します」
リゼットはもう一度紙を見る。
殺そうとしたわけではない。
生かして連れていこうとした。
そのために前を塞ぎ、後ろから追った。
結果として馬車は転倒した。
「変なの」
「何がです」
「生かそうとして追ったのに」
続きは言わなかった。
セドリックも補わなかった。
次の紙を出す。
「転倒後です」
回収隊の報告だった。
壊れた車体。
負傷した者。
その中に、第二王子と認識された人物がいる。
「エリオ」
リゼットが言った。
「現在の調査上は」
回収された時点では、まだ死んでいなかった。
リゼットの指が止まった。
「呼吸あり」
「ごく弱い、とあります」
「脈も」
「同じです」
事故直後に死んだわけではない。
回収隊は生存者として扱っていた。
その場で医療側へ引き渡している。
「意識は?」
「確認できた記録はありません」
「一度も?」
「少なくとも、医療記録には回復したとはありません」
リゼットは紙を取った。
文字を追う。
呼吸。
脈。
外傷。
出血。
胸部と腹部の損傷は、横倒しになった車体と路面へ身体を打ちつけた状況に合っていた。
医療側は、その損傷による出血を死亡へ至った主因として記録している。
救命のための処置が行われている。
その後、反応なし。
さらに時刻が進む。
死亡確認。
「何も言ってない」
「何をです」
「最後に」
「記録にはありません」
遺言も。
王子への伝言も。
自分がエリオだという訴えも。
何もない。
それでよかったとは思わない。
ただ、なかったものを作ることはできない。
「死んだ時刻はこれ?」
「はい」
セドリックが別の紙を横に置いた。
その少し後。
移送指示。
それまでの扱いは、事故による高位者の負傷・死亡として通常経路に乗っている。
「ここ」
リゼットが言った。
記録の区分が変わっている。
王族機密移送。
以前から追ってきた切替だった。
「死亡確認のあと」
「はい」
「前じゃない」
「少なくとも、残っている記録上は」
事故。
回収。
生存確認。
救命処置。
死亡確認。
その後に、機密扱いへ切り替わる。
「じゃあ、事故になる前からエリオの死体を王子にするつもりだった、は」
「その証拠はありません」
「ない、じゃなくて?」
「違います」
セドリックが言った。
「なかったと証明したわけではない。事故前に確認できる計画は、生きた第二王子の確保です」
「死体を作る計画は見つかってない」
「そうです」
「エリオを殺す計画も」
「確認できません」
そこは大事だった。
エリオは王子の服を着た。
目立つ車両へ乗った。
追跡側を引きつけた。
それが危険な役だったことは変わらない。
だが、そこから最初から死ぬ予定だったとは言えない。
「死んでから変わってる」
リゼットが移送記録を指した。
「遺体の扱いは、死亡後に通常経路から外れています」
「誰が変えた?」
「まだ追っています」
「クララ?」
「切替処理をした人物です。決定者とは限りません」
「尚書府」
「認証系統はそこへつながっています」
「誰が決めたかは」
「まだです」
今日は、順番が一つ見えただけで先を急ぐ気にはならなかった。
順番はもう一つ見えた。
「こっちもあります」
セドリックが追跡側の資料を出した。
「事故より後?」
「死亡公表後です」
宿所の予約取消し。
護衛人員への支払い停止。
交換用の馬の手配中止。
地方へ出された連絡の写し。
「一気に止まってる」
「はい」
「王子が死んだから?」
「追跡側はそう認識しています」
死亡したと公表された第二王子。
それまで用意していた宿も、護衛も、移動用の馬も不要になる。
「死体はいらないんだ」
リゼットが言った。
セドリックは返事を急がなかった。
「彼らの計画には、生きている第二王子が必要だった。それはかなり明確になりました」
「でも、本物は生きてる」
「彼らは知りません」
「だから全部止めた」
「そう見てよいでしょう」
リゼットは取消し記録を一枚持ち上げた。
「もしルシアン殿下が生きてるって分かったら、また始める?」
「その可能性はあります」
「だから探してる?」
「それも理由の一つです」
「見つけてどうするの」
「保護が先です」
少し硬い声だった。
リゼットは紙を戻した。
「今日は馬車酔いしないね」
「乗っていませんから」
「そうだった」
「急に何です」
「別に」
セドリックが怪訝そうにした。
気にしないことにした。
机上の記録をもう一度並べ直す。
追跡。
狭路での停止行動。
転倒。
回収時、生存。
救命。
死亡。
王族機密移送への切替。
順番は変わらない。
「これなら書ける」
リゼットが言った。
「何を?」
「事故より前と、死んだあとが違うって」
「はい」
「でも、その間に誰かが考えを変えた、とは書かない」
セドリックが顔を上げた。
「そのとおりです」
「今、ちょっと褒めた?」
「確認しました」
「同じでしょう」
「違います」
リゼットは笑わなかった。
代わりに、医療記録へ目を戻した。
エリオが死んだ時刻。
そこから先の紙だけ、扱いが違っている。
「もう一回、身体を見てくる」
「今朝処置したでしょう」
「処置じゃなくて確認」
「何の?」
「状態」
最低限保存のまま、何日保てるのか。
紙を追っている間にも身体は変わる。
「分かりました」
セドリックは止めなかった。
「こちらは続けます」
「昼、忘れないで」
一瞬、彼が黙った。
「あなたもでしょう」
「私は忘れない」
「知っています」
処置室へ戻る。
ネリスはいなかった。
リゼットは一人で覆いを開いた。
顔。
手。
右肩。
全部、今朝見たままだった。
今のところは。
状態を確認し、必要な箇所だけ記録する。
それから覆いを戻した。
次の状態確認時刻を書き、記録を閉じた。




