彼の声
帰宅してすぐ、リゼットは湯を張った。
今日は長かった。
朝から紙を読み、地図を見て、馬車に乗り、宿駅まで出て、また王宮へ戻った。
身体を使った仕事というほどではない。
それでも肩が重い。
服を脱ぎ、髪をほどく。
浴槽へ入ると、湯が肌へまとわりついた。
「熱い」
足を少し引く。
しばらくすると慣れた。
首まで浸かる。
何も考えないつもりだった。
王子が生きていたことも。
エリオの遺体も。
明日から何を調べるのかも。
今考えたところで、増えるものはない。
目を閉じる。
身体の重さだけを湯へ預けた。
しばらくして浮かんできたのは、書類ではなかった。
『あなたに任せます』
目を開けた。
「何」
誰もいない。
今日、セドリックが言った言葉だった。
遺体はあなたに任せる。
それだけ。
仕事の話だ。
リゼットは肩まで沈んだ。
別のことを考える。
夕食。
明日の服。
寝る前に髪を乾かすこと。
そうしていると、今度は馬車の中が浮かんだ。
向かいの座席。
濃い色の上衣。
長い脚。
書類を閉じた手。
『今日は読まないの』
『前回、学習しました』
声までついてきた。
「だから何なの」
湯を手ですくい、顔へ掛けた。
少し長く入りすぎた。
浴槽から出る。
身体を拭き、寝間着を着る。
濡れた髪を乾かす間にも、さっきの声は戻ってこなかった。
それでいいと思った。
寝室へ入る。
私用眼鏡を外し、枕元へ置く。
灯りを落とした。
横になる。
身体は疲れている。
今度こそ眠れるはずだった。
眠れなかった。
寝返りを打つ。
仰向けになる。
もう一度横を向く。
「また?」
小さく言った。
腹の奥に、知っている感覚があった。
珍しいものではない。
面倒ではあるが、自分で済ませればいい。
リゼットは目を閉じた。
寝間着の上から胸元へ手を置く。
ゆっくり押す。
呼吸が少し深くなる。
裾を上げる。
腿に夜の空気が触れた。
手を腹へ滑らせる。
自分の身体だ。
どこへ触れればどう反応するかは、もう知っている。
誰かを思い浮かべる必要もなかった。
指を脚の間へ入れる。
最初は軽く。
呼吸へ合わせる。
身体の奥にあった重さが、少しずつ輪郭を持つ。
それだけで終わるはずだった。
『遺体はあなたに任せます』
指が止まった。
「やめて」
何に言ったのか、自分でも分からない。
セドリックはここにいない。
当然だった。
目を開けても、暗い寝室しかない。
もう一度触れる。
今度は少し強く。
別のことを考える。
何でもいい。
湯の温度。
布の感触。
明日の朝に食べるもの。
それなのに、手が浮かんだ。
セドリックの手。
紙を押さえていた指。
地図の上を動く指先。
馬車の中で書類を閉じたときの手。
「何で」
止める。
息を吐く。
身体の熱は消えなかった。
むしろ止めたせいで、余計にはっきりした。
リゼットは片膝を立てた。
もう一度、指を動かす。
今度は考えないようにしなかった。
すると、すぐに彼の声が戻った。
少し低い。
怒っているときより、仕事が長引いて疲れているときの方が低くなる。
今日、宿駅の外で聞いた声。
『まだ言うんですか』
覚えている。
どうしてそんなものを覚えているのか分からない。
馬車で向かい合った距離も。
脚を少し引かなければ膝が近かったことも。
紙を渡すとき、指が触れなかったことまで。
指を動かす。
呼吸が速くなる。
自分の手なのに、一瞬だけ別の手を考えた。
腰へ触れる手。
そこまで思って、リゼットは顔をしかめた。
「違う」
何が違うのかは分からない。
自分で思い浮かべた。
嫌ならやめればいい。
なのに、手は止めなかった。
むしろ、彼を追い出そうとする方が面倒になった。
目を閉じる。
セドリックの顔をはっきり作ることはできなかった。
仕事中の横顔。
書類を見る目。
眼鏡は掛けていない。
濃い栗色の髪。
それくらい。
身体を想像しようとすると、知らない部分が多い。
上衣の下。
襟の下。
触ったこともない。
だからそこは曖昧だった。
代わりに、声だけが近かった。
『オルディスさん』
呼ばれる。
いつもと同じ呼び方。
それなのに、今は耳の近くで聞いたような気がした。
リゼットは枕へ顔を少し押しつけた。
「もう」
指先の動きが速くなる。
腿に力が入る。
腹が張る。
息を止めかけ、すぐ吐いた。
声を出すつもりはなかった。
それでも喉の奥から小さく音が漏れた。
もう一度。
身体が強く縮む。
指を止めても、しばらく震えが残った。
息を整える。
胸が上下している。
額が少し熱い。
「……最悪」
誰に対する評価なのか、自分でも決められなかった。
セドリックは何もしていない。
ここにもいない。
勝手に思い出したのは自分だった。
リゼットは腕で目を覆った。
身体は満足したらしい。
さっきまでの落ち着かなさは消えている。
問題は別だった。
今までなら、これで終わった。
触って。
気持ちよくなって。
眠る。
それだけだった。
今日は途中から、一人ではなかった。
「いや、一人だけど」
声に出した。
余計におかしかった。
寝返りを打つ。
枕元の眼鏡がぼんやり見える。
裸眼では輪郭が甘い。
セドリックの顔を想像したときも、細かなところは曖昧だった。
それなのに声だけは妙にはっきりしていた。
何なのだろう、と考えた。
すぐにやめた。
名前を付ける必要があるのかも分からない。
明日も会う。
同じ事件を調べる。
意見が合わなければ、たぶんまた揉める。
熱い茶は冷めるまで放っておく。
馬車で書類を読むと気分が悪くなる。
食事の時間を後回しにする。
その男を、さっき自分は欲望した。
そこまでは否定できなかった。
「困る」
理由はまだ分からなかった。
起き上がった。
身体に残る火照りが鬱陶しい。
窓まで歩く。
留め金を外し、少しだけ開けた。
夜気が入った。
肌へ触れる。
「寒い」
でも閉めなかった。
しばらくそのまま立った。
外は暗い。
遠くに家々の灯りがある。
裸眼では、それも滲んでいる。
リゼットは寝台へ戻らず、枕元に手を伸ばした。
濃い茶色の私用眼鏡を取る。
掛ける。
窓枠がはっきりした。
椅子。
机。
脱いだ服。
読みかけのもの。
自分の部屋だった。
全部いつもと同じ場所にある。
リゼットは窓の前へ戻った。
夜気はまだ冷たい。
腕をさすった。
「明日考える?」
すぐ首を振る。
考える必要があるのかも分からない。
本人に言う理由はもっとなかった。
セドリックが知る必要もない。
少なくとも、今は。
リゼットは窓を閉めた。
留め金を掛ける。
眼鏡を外して、枕元へ戻した。
部屋の輪郭がまた少しぼやける。
さっきより身体は落ち着いていた。
セドリックの声だけは、まだ消えていなかった。
リゼットは灯りを消した。




