生者
照合を終えると、二人は馬継ぎ場から第二経路の先へ向かった。
二本目の道は、秘密の場所へは続いていなかった。
宿駅だった。
「普通」
馬車を降りたリゼットが言った。
「何を期待していたんです」
セドリックも降りる。
「もっと隠れてるところ」
「隠れていたら、記録を追えません」
「それもそう」
街道を行く役人、商人、使者が馬を替え、必要なら一晩休むための施設だった。
馬屋。
荷物置場。
食事を取る部屋。
小さな宿泊棟。
王家や高官の使者が利用することもあるが、それだけの場所ではない。
人が多い。
「ここに王子が来たの?」
「まだ、その言い方はしません」
「二台目の車は来た」
「それは確認できています」
前を歩いていた宿駅の責任者が振り返る。
「こちらです」
帳場へ通された。
机の上には、すでに当日の記録が用意されている。
借上車。
到着。
馬の交換。
荷の積み替え。
「これ」
リゼットは時刻を見た。
「事故より後?」
「後です」
「死亡確認は?」
セドリックが別紙を開いた。
王宮医官の死亡確認書。
これまで何度も見た書類だった。
そこに記された時刻と、宿駅の到着記録を並べる。
リゼットは二度見た。
「こっちの方が遅い」
「はい」
ルシアン・エルヴァ・ヴァレーヌが死亡した、とされている時刻。
その後に、第二経路の車両はここへ到着している。
「でも、車が来ただけ」
「そのとおりです」
今日はセドリックが先に言った。
「乗ってた人が王子じゃなければ、関係ない」
「ですから、そこを確認します」
宿駅の荷物記録が開かれた。
車両を替える際、大きな箱と布包みのほか、薄手の上衣、小型の革袋、長距離移動用の手袋が載せ替えられていた。
三つとも王子の部屋、事故現場、エリオの遺体のいずれにもなかった品と種類は一致する。
ただし、上衣も手袋も革袋も、記録だけでは同じ品とまでは決められない。
ただし、別紙の遺失物欄には、小型筆記具の革包みが一つ記録されていた。
「現物は?」
宿駅の責任者が保管箱を開けた。
出てきた革包みを、リゼットは両手で受け取る。
内側の留め金。その脇に、小さな工房印があった。
セドリックが王子の私物目録に付属する補修記録を開く。留め金の形、取り付け位置、工房印。三つとも一致した。
「これは同じ物?」
「この補修記録にある革包みとみてよいでしょう」
「誰が置いていったの」
「帳場で名を書いた客です」
責任者は遺失物記録の備考欄を示した。記入に使ったあと、客が腰掛けへ置いたまま出発したため、帳場で預かったとある。
三つの移動用品は、まだ種類が重なるだけだった。だが、この革包みだけは、王子の部屋からなくなった品と個別に結びついた。
「でも三つ」
「そうですね」
「一緒に」
「補強にはなります」
セドリックはそれ以上強くしなかった。
次の記録へ移る。
馬の交換。
宿泊の手続き。
そして、その先へ進むための新しい馬の受領。
一つの場所で旅を終えた記録ではなかった。
「名前がある」
リゼットが言った。
乗員記録の欄だった。
ただし、ルシアンではない。
「偽名?」
「少なくとも、その名に該当する人物を確認できません」
「書いたの誰?」
「そこです」
名前の横に、短い一文があった。
宿泊と、次の馬の受領についての確認文。
署名と同じ筆で書かれている。
「本人が書いた?」
「宿駅側では、乗客本人が記入したと証言しています」
「この名前の人が」
「はい」
セドリックがルシアン本人の私信を出し、内容を別紙で隠して宿駅の記入と並べた。
「似てる」
「どこがです?」
「分からない。字」
「それでは記録できません」
セドリックの予備比較でも、文字の払い方や間隔に複数の一致があった。ただし、二人とも筆跡の専門家ではない。
「王宮へ戻ったら、照合担当へ回します」
字を書いた人間がその時刻に生きていたことは疑えない。必要なのは、その手が誰のものだったかだった。
「証人は?」
「呼んでもらっています」
待っている間、リゼットは宿駅の外へ出た。
馬が水を飲んでいる。
別の荷車が入ってくる。
御者が何か怒鳴り、馬屋の男が返す。
十日前も、たぶん同じようだった。
一人の王子が死んだか生きたかなど、この場所そのものには関係がない。
「寒いですか」
後ろから声がした。
セドリックだった。
「別に」
「腕を組んでいたので」
「癖」
「そうですか」
「あなたは?」
「何がです」
「寒くない?」
「平気です」
そう言って、すぐ建物の中へ戻ろうとする。
「待ってるの嫌い?」
「何もしない時間はあまり好きではありません」
「やっぱり」
「何がです」
「食事忘れる人だから」
セドリックが振り返った。
「まだ言うんですか」
「覚えてた」
「そうですか」
その声が少し低くなった。
「お待たせしました」
宿駅の者が呼びに来た。
証人は御者だった。
借上車を途中から担当した男。
監察側で身元と勤務記録は確認済みだった。
席へ着くなり、男は言った。
「王子様だったなんて話は、今でも聞いてませんよ」
「こちらも、王子だったと前提にして聞きません」
セドリックが答えた。
「当日乗せた人物について、覚えている範囲だけお願いします」
「一人です」
「年齢は?」
「若い男。二十代でしょう。三十には見えなかった」
「身長は?」
「私より少し高いくらいですかね」
正確ではない。
当然だった。
御者は人間を採寸する仕事ではない。
「怪我は?」
「歩いてましたよ」
リゼットが顔を上げた。
「自分で?」
「ええ」
「誰かに支えられてない?」
「ないです」
「走れた?」
「走らせてませんから知りません」
それはそうだった。
「話した?」
「少し」
「何て」
御者は考える。
「先の道が通れるかって」
「声は?」
「普通です」
「普通って」
「男の声ですよ」
リゼットは黙った。
聞き方が悪かった。
セドリックが続ける。
「行き先について本人から指示は?」
「途中までは」
「途中?」
「次の交換所まで。それより先は別の者へ渡す話でした」
「名前は名乗りましたか」
「帳場に書いた名前と同じのを」
「本人が書いているところを見ました?」
「見ましたよ。待ってましたから」
「荷物は?」
「多くないです」
「覚えているものは」
「革の小さな袋。あとは上着。手袋もしてたと思います」
欠けた私物と重なる。
だが、それもまだ普通の旅人が持つ物だった。
「顔は覚えていますか」
「見れば、たぶん」
リゼットは少し身を乗り出した。
セドリックは動かなかった。
「肖像を見せるんですか」
「今回はしません」
「どうして」
「誘導になります」
その場で「この人では」と王子の肖像を見せれば、十日前の曖昧な記憶がそちらへ寄る。
リゼットも納得した。
「特徴を本人の言葉で」
御者は少し考えた。
若い。
王族らしい派手な服ではなかった。
身なりは悪くない。
疲れてはいた。
しかし、自分で歩いた。
質問には普通に答えた。
急いでいる様子だったが、御者を怒鳴ったりはしなかった。
「怖がってた?」
リゼットが聞いた。
「さあ」
「追われてるみたいには?」
「私には分かりませんよ」
それ以上は取れなかった。
いい証言だった。
何でも覚えているわけではない。
王子だとも知らない。
特別な夜だったとさえ思っていない。
だから、十日前の普通の仕事として残っている。
証言確認が終わると、セドリックは御者に礼を言った。
王宮へ戻る馬車の中では、彼は書類を読まなかった。
「今日は読まないの」
「前回、学習しました」
「酔うから?」
「はい」
素直だった。
リゼットは窓の外を見る。
「生きてた?」
しばらくして聞いた。
セドリックはすぐには答えなかった。
「戻ってから、記録を揃えます」
「今聞いてる」
「分かっています」
馬車が揺れる。
二人の膝の間は狭い。
前なら気にならなかった気がした。
リゼットは足を少し引いた。
「私は、生きてたと思う」
「でしょうね」
「あなたは?」
「同じです」
初めて、すぐ同じ答えになった。
王宮へ戻ると、セドリックは宿駅の記入記録とルシアンの私信を、監察記録の筆跡照合を担当する書記官へ渡した。
誰の文字と考えているかは伝えず、二つの筆跡の異同だけを求めた。
その日のうちに戻った所見には、文字の払い、連続する字の間隔、筆圧の移り方など複数の特徴が一致し、別人が外形だけをまねた痕跡は認めにくい、とあった。
同一人の筆跡である可能性が高い。ただし、筆跡だけで身元を決めるものではない。
セドリックは机へ資料を並べ直した。
事故後も続いていた第二経路。
王子の私物と個別に同定できた革包み。
その革包みを使った客が自分で残した偽名の記入。
事件情報を伏せた書記官による筆跡照合。
そして、同じ客が自力で歩き、話し、先の行程を指示したという御者の証言。
同じ部署が作った資料ではなかった。一つの証言を別の紙へ写したものでもない。
「これなら?」
リゼットが聞いた。
「複数の独立した記録と証言が、同じ人物を指しています」
「ルシアン殿下?」
「正式調査上、その判断で進めます」
リゼットは机を見た。
処置室にいる死者には、エリオ・レンの名前がある。
その一方で、死んだことになっているルシアンは、死亡時刻のあとに別の街道を進んでいた。
「じゃあ」
言葉にした。
「ルシアン殿下は、生きていた」
「少なくとも、死亡確認書に記載された時刻より後に生存していたことは確定できます」
「今も?」
「そこは追います」
やはり、そこは分ける。
現在地は分からない。
その後、どこまで進んだかも。
「どうして死んだことになってるの」
「分かりません」
「本人は知ってる?」
「分かりません」
「エリオが死んだことは?」
「それも」
答えは一気には増えなかった。
むしろ、新しく大きな穴が開いた。
生きていた。
なら、なぜ死を訂正しなかったのか。
誰がエリオの身体を使ったのか。
どこからが事故で、どこからが選択だったのか。
セドリックが調査記録へ署名した。
「殿下のその後はこちらで追います」
リゼットは顔を上げた。
「一人で?」
「監察側で、です」
「ああ」
「生きている人間の所在確認は私たちの仕事です」
彼は処置室の方向を見た。
「葬送院にいる遺体は、あなたに任せます」
「今までも私が見てる」
「知っています」
「なら、言わなくても」
セドリックは少し考えた。
「確認です」
リゼットは返事をしなかった。
「オルディスさん?」
「何」
「その資料、戻してください」
自分が一枚持ったままだった。
「これ?」
「はい」
渡す。
セドリックは受け取ると、もう次の所在照会を書き始めた。
リゼットは机の上の正式調査記録を一度だけ見た。
死亡確認時刻。
その後の宿駅到着時刻。
その下にセドリックの署名がある。
リゼットは処置室へ戻った。




