追われた王子
馬継ぎ場の事務室で、地図の上に馬を置くことになった。
本物ではない。
木を小さく削った駒だった。
「子どもの遊びみたい」
リゼットが一つ持ち上げる。
「戻してください」
「まだ置く場所決まってないでしょう」
「だから勝手に動かさないでください」
セドリックは街道図の上へ紙を重ねていた。
事故当夜の追跡者。
前方に回った者。
後ろから追った者。
途中で馬を替えた者。
これまでは別々の記録だった。
今日は、それを同じ道の上へ置く。
「赤が追跡側です」
「こっちは?」
「第二王子の車両と認識されていた方」
「エリオが乗ったかもしれない方」
「そこを確認します」
リゼットは駒を戻した。
最初の一団は後方。
次は脇道から前へ。
さらに先にも人がいた。
「囲むの?」
「最終的には」
「ここ狭い」
リゼットが地図を覗き込む。
さっき、馬車で通った場所より先だった。
左右に余裕のない街道。
馬車同士が並んで通るには狭い。
「前から止めて、後ろも塞ぐ」
「そう見えます」
「逃げ道ないね」
「それが目的でしょう」
セドリックが別の紙を出した。
街道沿いの住人から取った証言だった。
数騎が前へ回った。
道を完全に塞ぐのではなく、馬車が速度を落とさなければ通れない位置へ馬を出した。
後ろからも騎馬が近づいた。
「撃った?」
「証言では、撃っていません」
「武器は?」
「持っています」
追跡者から押収された弓。
短い射具。
携帯用の矢。
どれも使える状態だった。
事故後に確認された矢数とも合う。
「一発も?」
「確認できる範囲では」
「車輪とか馬を狙えば止められたでしょう」
「それをしていない」
別の証言。
街道脇から見ていた男は、追跡する騎馬の一人が弓へ手を伸ばしたあと、使わず戻したのを覚えていた。
理由までは知らない。
別の場所では、車体へ直接接近した騎馬も、刃物を使った形跡はなかった。
「殺すな、傷つけるな」
リゼットが言った。
「先ほど確認した命令側の情報とは合います」
「命令どおりに動いてる」
「少なくともこの部分では」
前で速度を落とす。
後ろを塞ぐ。
射撃はしない。
車体にも直接攻撃しない。
それでも、武装した騎馬に囲まれれば安全ではない。
「これ、怖いね」
リゼットが言った。
「何がです」
「馬」
「人ではなく?」
「急に前を塞がれて、後ろからも来るんでしょう」
馬車を引く馬がどう反応するか。
それはリゼットの専門ではない。
ただ、落ち着く状況ではないことくらいは分かる。
「事故の原因はまだ整理します」
セドリックが言った。
「今は、どう止めようとしたかです」
「生きたまま」
「そう判断してよさそうです」
命令だけではない。
現場の動きも同じ方向を向いていた。
次にセドリックが開いたのは、追跡側の供述だった。
「顔を見た人?」
「十分に確認した人物はいません」
「誰も?」
「走行中の馬車です」
最も近くまで接近した男も、車内の人物の顔を正面から長く見たわけではない。
それでも、第二王子だと思った。
「何で?」
記録には理由がいくつかあった。
王家関係の車両。
予定された随行。
王族の外套。
留め具。
一部の装身具。
「全部、本物」
リゼットが言った。
「はい」
遺体とともにあった品。
何日も前に、王家管理記録や工房記録まで調べた。
偽物ではない。
そこは疑えなかった。
「だから王子だと思った」
「追跡した側は」
「顔じゃなくて」
「顔を見る前から対象は決められていました」
事故当夜、彼らは第二王子の移動を追っていた。
そこへ、第二王子の車両らしいものが来る。
王子の外套を着た人物がいる。
留め具も装身具も本物。
周囲の人員配置も、それらしく見える。
「疑わないね」
リゼットが言った。
「あなたでも?」
「私は服で遺体の名前を決めない」
「あなたは葬送官ですから」
「普通の人なら?」
「王子本人を近くで知らなければ、かなり強い材料でしょう」
リゼットは机の端にあった外套の確認記録を見る。
本物。
その言葉は以前、遺体がルシアン本人である可能性を押し上げた。
今も本物であることは変わらない。
「本物じゃなかったら、だめだったんだ」
「何がです?」
「王子に見せるの」
セドリックが彼女を見る。
「偽物の外套なら?」
「近くでばれたかもしれない。留め具も。車も」
「そうですね」
「本物だったから」
続きは言わなかった。
人を王子にする道具になった。
物は嘘をついていない。
外套は本当にルシアンのものだった。
それを着ていた人間が違った。
「でも」
リゼットは紙から顔を上げる。
「事故のあとに着せた可能性は?」
これまで残していた仮説だった。
エリオが死んだあと、王子の衣服を着せた。
それなら、事故前の本人は別の服だったことになる。
「そこです」
セドリックが別の記録を置いた。
門を出た後、最初の街道監視地点。
そこにいた者の追加聴取。
王子らしい車両は、一度速度を落としていた。
人員の一人が車外へ出て、荷を確認している。
「誰?」
「監視所の者は、第二王子一行の従者だと思っています」
「顔は?」
「名前までは知りません」
それでは足りない。
次。
馬交換所。
到着した一行について、人数と服装の簡単な記録が残っていた。
王族用の外套を身につけた人物。
自分で降車した。
馬の交換中は車両脇に立っていた。
再び自分で乗車した。
顔は遠く、王子本人を知る者ではなかった。
「生きてる」
「少なくとも、この時点では意識があり、自力で動いています」
「この人がエリオなら」
「はい」
事故はまだ先だった。
死後に王子の衣服を着せたのでは説明できない。
「でも、本当にエリオ?」
「ここからです」
先ほど確認した荷物配置変更。
その連絡担当として残るエリオ・レンの名。
王子用品の一部を出発前に正規受領した記録。
さらに、車両側の人員表。
変更前。
変更後。
「こっち」
リゼットが気づく。
変更後の目立つ車両側に、エリオの所属位置が移っている。
名前そのものを乗員として記載する書式ではない。
従者配置の区分だった。
「これだけなら、付き添いとして乗っただけ」
「そうです」
セドリックが言う。
「ですから、もう一つ」
荷積み変更の記録だった。
王子用品を目立つ車両へ移す際、受領確認者の一人にエリオの名がある。
別の時間に書かれた書類。
別の担当部署。
それでも同じ名が残る。
「自分で王子の品を受け取って」
「その可能性が高い」
「荷物を動かして」
「そこには関与しています」
「目立つ方に乗った」
「配置記録上は」
リゼットは順番を追った。
追跡接近の報せ。
荷物変更。
王子用品の移動。
エリオの担当変更。
街道上で、王族外套を身につけた人物が自力で降り、自力でまた乗った。
その車両を追跡者たちは第二王子として追う。
そして、その車両が事故に遭った。
回収された遺体は、エリオの身体と高度に一致している。
「強制的に着せられて、気を失ったまま乗せられた、は無理?」
「少なくとも、ずっと意識がなかった説明は難しいでしょう」
「途中で意識が戻った」
「考えられます」
「知らないまま王子の服を着てた」
「それも完全には否定できません」
リゼットは少し苛立った。
「でも、荷物を動かしてる」
「はい」
「自分の担当も変わってる」
「はい」
「追われるって分かってから」
「時刻上は」
「それでも、何も知らなかった?」
セドリックはすぐには答えなかった。
「そこまで無関係だったとは考えにくくなりました」
ようやく言った。
「意識的に協力した?」
「私はそう判断します」
リゼットは机の上を見る。
「囮に?」
「そこは言葉を分けましょう」
「どうして」
「王子らしく見える状態を作ることへ協力したのは強い」
セドリックが一枚ずつ指す。
「王族用品の受領。荷物変更への関与。乗員配置の変更。王族用品を身につけた状態での自力行動。そして追跡される側の車両への乗車」
「それは自分でやった」
「意識のある状態で関与しています」
「じゃあ囮でしょう」
「誰が発案したか分かりません」
止められた。
「命令された?」
「あり得ます」
「断れなかった?」
「分かりません」
「自分から言った?」
「それもまだ」
リゼットは椅子へ座り直した。
エリオならやりそうだ。
一瞬、そう思った。
旅程が乱れれば実務案を出す。
安全上の問題にも口を出す。
そういう話を聞いた。
けれど、それで決めてはいけない。
甘い菓子が好きだから囮になるわけではない。
姪へ土産を送るから勇敢でもない。
仕事の癖から、自分の命をどう扱う人間だったかまで作ることはできなかった。
「本人が言った証拠が要るね」
リゼットが言った。
「発案を確定するなら」
「誰かの命令でも、協力はした」
「そこまでは」
セドリックは調査記録へ新しい項目を作った。
エリオ・レン。
追跡接近後の車両・荷物配置変更に関与。
王族用品の一部を扱う。
王子らしく見える状態で、追跡対象となった車両へ意識のある状態で乗車したと判断。
「長い」
「必要です」
「本人が囮役に協力、じゃだめ?」
「発案や同意範囲まで含んで読まれます」
「面倒」
「大事なところです」
リゼットはもう反論しなかった。
事故で死んだからといって、それより前の選択を勝手に増やしてはいけない。
自分で外套を着た。
だから死ぬ覚悟までしていた。
そういうことにはならない。
「追跡した人たちは」
リゼットが地図へ戻る。
「この人をルシアンだと思ってた」
「かなり明確です」
「王子の品を見て」
「車両と随行も含めて」
「生かして捕まえようとした」
「現場行動も、その判断を支持します」
木の駒を見る。
前方。
後方。
その間を進む車両。
彼らが追っていた名は、ルシアン。
車内にいた身体は、エリオ。
「変なことになった」
リゼットが言った。
「どこがです?」
「王子の本物の品を見つけたとき」
外套の記録を指す。
「これで、遺体が王子かもしれないって思ったでしょう」
「はい」
「今は逆」
セドリックは何も言わなかった。
「本物だったから、エリオが王子に見えた」
「そう整理できます」
外套は何も変わっていない。
留め具も。
装身具も。
同じ物だった。
変わったのは、それが証明しているものだった。
セドリックが地図上の二つの経路を指で分ける。
「追跡された側は整理できました」
「エリオ」
「その可能性は非常に高い」
「もう言っていいでしょう」
「では、監察上の表現を整えます」
「もう一台は?」
物資輸送名目で別方向へ進んだ、目立たない車両。
セドリックの指がそちらへ移った。
「次はこっちです」
「誰が乗ったか」
「はい」
リゼットは追跡側の駒を一つずつ地図から外した。
もう追う必要のない経路だった。
残ったのは、事故現場へ行かなかった方の線だった。




