二台の馬車
第二王子の馬車は、一台しか記録されていなかった。
「じゃあ、一台でしょう」
リゼットが言うと、セドリックは返事をしなかった。
王宮の車庫帳をめくっている。
「聞いてる?」
「聞いています」
「一台」
「王族車両としては」
「何が違うの」
セドリックが一枚の紙を横へ出した。
「これを見てください」
「借上?」
「はい」
王宮の外にある業者から、荷物運搬用として借りた車両の支払記録だった。
第二王子の名はない。
王家の紋章もない。
用途欄には、物資輸送。
「これが何?」
「時刻です」
王宮へ入った時刻。
荷を受け取った時刻。
外へ出た時刻。
リゼットは王子の車庫帳と見比べた。
「近い」
「同じ夜です」
「物を運んだだけかもしれない」
「その可能性はあります」
「またそれ」
「なので、次を見ています」
門衛記録が出てきた。
王族車両の方は簡単だった。
第二王子一行。
随行あり。
王宮を出たことがきちんと残っている。
事故に遭ったとされる車両でもある。
一方の借上車は、王族名義ではない。
物資関係の出入りとして処理されていた。
「これだけなら本当に荷物でしょう」
「そうですね」
「何を積んでたの」
「出発時は箱類と布包み」
「普通」
「普通です」
「じゃあ」
「馬を見ます」
「馬?」
王宮の車庫帳とは別に、厩側の貸出記録があった。
馬には管理番号がある。
王家所有。
借上。
交換用。
同じ夜に何頭がどの車両へ付けられ、どこで替えられたか。
リゼットは途中で嫌になった。
「人の名前の方がまだ楽」
「馬の方が記録は正確ですよ」
「どうして」
「しゃべらないからでは」
「あなたがそれ言う?」
セドリックは少しだけ口元を動かした。
笑ったのかどうかは分からなかった。
「ここです」
一本の線を指す。
借上車へ付けられた二頭。
王宮から外へ出た後、王都外縁の馬継ぎ場で交換された記録があった。
「物資車も馬を替えるでしょう」
「替えます」
「普通」
「ここまでは」
今度は馬継ぎ場側の写し。
同じ番号があった。
到着時刻。
交換時刻。
次に付けられた馬。
そこまではよかった。
「行き先が違う」
リゼットが気づいた。
王子の車両が進んだとされる街道とは別だった。
「はい」
「物資だから?」
「それもあり得ます」
「でも調べてる」
「はい」
「何で」
「借上の支払い先が王宮の物資担当ではなかったからです」
リゼットは紙を取った。
「どこ?」
「王子付き侍従側の臨時費です」
「エリオのところ?」
「所属としては」
第二王子の旅行中に必要な臨時支出。
馬。
運搬。
細かな用品。
そうした費用を処理する枠から金が出ている。
「物資を運ぶなら変じゃない?」
「王子一行の荷物なら不自然ではありません」
「じゃあ、まだ普通」
「かなり普通です」
「普通ばっかり」
「普通の記録を調べているので」
リゼットは椅子へ背中を預けた。
一枚ずつ見ると、何もおかしくない。
借りた車。
物を積む。
王宮を出る。
馬を替える。
別の道へ行く。
王子の旅に必要な荷物を先へ送ったと言われれば、それまでだった。
「行ってみますか」
セドリックが言った。
「どこへ」
「馬継ぎ場」
「今?」
「記録だけでは分からないこともあるでしょう」
「あなたが言うんだ」
「何です?」
「別に」
二人は昼前に王宮を出た。
使ったのは監察側の小さな馬車だった。
王族車両ほど大きくない。
向かい合って座ると、思っていたより近かった。
リゼットは窓の外を見る。
街路の石で車輪が跳ねるたび、膝が少し揺れた。
セドリックは最初から書類を開いている。
「読むの?」
「確認します」
「揺れるよ」
「読めます」
「そう」
しばらく黙っていた。
王宮を離れる。
建物が低くなる。
街道へ出る頃には揺れ方も変わった。
リゼットは鞄から包みを出した。
朝、途中で買った硬いパンだった。
割る。
端から食べる。
セドリックが顔を上げた。
「何」
「いえ」
「食べる?」
「結構です」
「お腹空かない?」
「まだ昼前です」
「だから?」
「普通はもう少し後では」
「今食べたい」
「そうですか」
リゼットは続けた。
パン屑が膝へ落ちる。
払う。
また落ちる。
「ずいぶん散らしますね」
「あとで払う」
「今払ってもまた落ちるから?」
「そう」
「合理的ですね」
「でしょう」
「褒めてはいません」
セドリックはまた書類へ目を落とした。
その顔を見て、リゼットはパンを噛む。
少しして気づいた。
「顔、白くない?」
「元からです」
「そう?」
「はい」
またしばらく進む。
車輪が窪みを踏んだ。
紙を持つセドリックの手が止まった。
「気持ち悪い?」
「いいえ」
「今、止まった」
「揺れただけです」
「読むのやめれば」
「もう少しです」
「吐いたら紙がだめになるよ」
セドリックが書類を閉じた。
「その心配ですか」
「大事な紙でしょう」
「私の心配は?」
「馬車止める?」
「結構です」
彼は窓の外を見た。
数分すると顔色が少し戻った。
「書類読むとだめなんだ」
「長く読むと」
「知らなかった」
「言う必要がありませんでしたから」
「いつも読んでるのに」
「机の上では揺れません」
「それはそう」
リゼットは残りのパンを食べた。
「あなたは平気なんですね」
「何が」
「馬車」
「うん」
「食べながらでも」
「お腹空いてたから」
「それは理由になっていますか」
「私には」
馬継ぎ場へ着いた。
建物そのものは普通だった。
旅客。
荷車。
馬を替える御者。
誰かが秘密の王子を逃がすためだけにある場所ではない。
セドリックが身分を示し、当夜の記録を確認する。
古い帳面が持ち出された。
馬番号は一致した。
借上車が来たことも。
「これ、覚えてます?」
リゼットが帳場の男へ聞いた。
「十日前の車全部は無理ですよ」
「ですよね」
「記録ならあります」
セドリックが横から聞く。
「積荷の確認は?」
「荷物まで毎回見ません。馬を替えるだけなら」
「乗っていた人数は?」
「それも帳面にある分だけです」
人数欄。
王宮を出た記録より一人多かった。
リゼットが指を止める。
「増えてる」
セドリックも見る。
「はい」
「途中で乗った?」
「可能性はあります」
「誰」
「分かりません」
男へ聞く。
覚えていない。
当然だった。
十日前の普通の借上車。
王族だとも知らされていない。
「次に行った先は?」
帳場の男が道を教えた。
王子の車両が事故に遭った街道とは違う。
途中で道が大きく分かれている。
リゼットたちはそこまで馬車で向かった。
今度はセドリックは書類を開かなかった。
「読まないの?」
「読めと言いたいんですか」
「別に」
「顔色を見て面白がるでしょう」
「ちょっと」
「やはり」
分岐へ着く。
馬車を降りた。
一方は、事故のあった方向へ続く。
もう一方は、別の街道へ入っていく。
リゼットは二本を見比べた。
「ここまでは一緒だった?」
「正確には、王子車両の記録上の経路と、借上車の馬交換記録がこの周辺まで重なります」
「そのあと別れた」
「そう見えます」
「最初から?」
「そこを確認します」
午後、二人は馬継ぎ場の空いた事務室を借り、持参した記録をさらに追った。
車庫。
門衛。
馬継ぎ場。
借上支払い。
それぞれ別に作られた書類。
並べると、同じ夜に二台の車が動いている。
目立つ一台。
王族用品と随行を伴う、第二王子らしく見える車両。
目立たない一台。
物資輸送の名目で借りられ、王族名義を持たず、途中から別方向へ進んだ車両。
「でも、誰が乗ったか」
リゼットが言った。
「まだです」
「一人増えてる」
「それが誰かも」
セドリックが別の紙を出した。
「それと、こちら」
出発前の荷積み記録。
王子の車両に載せる物。
借上車へ載せる物。
最初は分かれている。
ところが、その後に訂正があった。
「時刻」
リゼットが見た。
追跡者が接近しているという報せが入ったと推定される時間帯と近い。
目立つ方へ、荷物が移されている。
王子の外套を含む衣装箱の一部。
装身具を管理する小箱。
逆に、もともと王子車両側にあった小さな荷物の一つが、借上車側へ移っている。
「入れ替えてる」
「はい」
「追われるって分かってから?」
「時刻上は、その可能性が高い」
「誰がやったの」
変更連絡の受領欄。
担当。
第二王子付き従者。
エリオ・レン。
リゼットは黙った。
「本人が書いた?」
「筆跡はまだ確認していません」
「名前を使われただけかもしれない」
「あります」
「本人が命令を受けて伝えた」
「それも」
「自分で決めた」
「そこまでは言えません」
リゼットはもう一度時刻を見る。
追跡接近の報せ。
荷物配置の変更。
借上車側の人数増加。
その後、二台が違う道へ進む。
「エリオは関わってる」
「少なくとも、変更手続には彼の名前があります」
「自分から囮になった?」
「飛びすぎです」
「まだ?」
「まだです」
セドリックははっきり言った。
「上位者からの口頭命令を伝えただけでも、同じ記録は残ります」
「じゃあ、エリオが何を考えてたかは分からない」
「分かりません」
リゼットは紙から手を離した。
エリオについては、休日の菓子や借金の話まで聞いた。
けれど、事故当夜に何を選んだのかは、まだその人たちの記憶からは出てこない。
性格から決めることでもなかった。
「こっち」
リゼットが借上車の記録を指す。
「誰が乗ったのか調べる?」
「もちろん」
「王子かもしれない?」
「今は乗員不明です」
「冷たい」
「正確です」
「あなた、本当にその言葉好きね」
「便利なので」
セドリックは二枚の移動記録を離して置いた。
一枚は事故へ向かう道。
もう一枚は、途中から別の街道へ折れる道。
同じ夜。
近い時刻。
異なる名目。
二台。
「王子が二人いたみたい」
リゼットが言った。
「そうは記録しません」
「分かってる」
セドリックは調査記録へ書き込んだ。
第二王子一行として認識される車両、一台。
物資輸送名目の借上車、一台。
同一夜に王宮を出発。
一定区間の後、異なる経路へ分岐。
乗員については継続確認。
リゼットはその最後の一行を見た。
「まだ空いてる」
「何がです」
「誰がどっちに乗ったか」
「そこを次に調べます」
二台の車両は見つかった。
乗っていた人間の名前は、まだ片方にしか付いていなかった。




