殿下を殺すな
朝から机が足りなかった。
「こっち、置いていい?」
「それは証言です。資金記録と混ぜないでください」
「同じ事件でしょう」
「同じ事件でも同じ紙ではありません」
リゼットは持っていた紙束を元へ戻した。
監察側の資料室には、細長い机が三つある。
今日は全部埋まっていた。
一つに街道周辺の証言。
一つに押収された文書。
もう一つに支払いと人員手配の記録。
「多すぎる」
「少ないよりいいでしょう」
セドリックは紙を一枚ずつ並べている。
「私は身体なら一つで済む」
「その一つを何日も見ていますが」
「そういう意味じゃない」
「分かっています」
リゼットは椅子を引いた。
昨日まで調べていたのは、誰が遺体を王子だと確認したのか。
今日は、その遺体が生まれる前の話だった。
事故当夜。
第二王子だと思われた車両を追った者たち。
彼らが何をしようとしていたのか。
「最初は、前に確認した資料です」
セドリックが一つ目の机から紙を寄せた。
事故前に押さえられた宿所。交替する人員と馬。治療用品。
欠けた命令には、殿下、傷を避ける、王都へ戻さない、指定された者へ引き渡す、という断片が残っている。
「見た」
「今日は、これを資金記録と重ねます」
「これ、誰の命令?」
「最終発出者はまだ特定できていません」
「また?」
「地方側で複数経路を使っています」
「地方って」
「反アレクシス派の諸侯筋です」
リゼットは顔を上げた。
「分かったの?」
「資金経路が」
今度は三つ目の机へ移る。
金の動きだった。
一つの大金ではない。
宿所。
馬。
人員。
武器。
食料。
別々の名目で支払われている。
しかし、支払元を遡ると、いくつかが同じ地方の有力家門へ近づいていく。
「全部同じ人?」
「違います」
「じゃあ、まとまらないでしょう」
「一人である必要はありません」
セドリックが二つの記録を並べた。
「この家は宿所の費用」
別の一枚。
「こちらは護衛人員」
さらに一枚。
「馬の手配には別の筋」
「ばらばら」
「ばらばらだから、個人の思いつきでは説明しにくい」
「みんな勝手にやったかもしれない」
「同じ場所へ?」
リゼットは紙を見る。
宿所。
交替護衛。
その先の馬。
金の出所は一つではない。
だが、準備先はつながっている。
「追いついたあと用?」
「そう考えるのが自然です」
「殺したあとじゃない?」
「武装した人間を何度も交替させて、宿を取り、怪我の処置用品まで置く必要がありますか」
「死体を運ぶなら」
「それなら宿の部屋数が合いません」
「何人?」
「本人を含む一団を泊める想定です」
「本人」
「追跡対象です」
「王子」
「彼らがそう思っていた対象ですね」
セドリックは言葉を変えなかった。
今では、その対象が本物のルシアンではなかった可能性が高い。
それでも、追った側は知らない。
「殿下を殺すな」
リゼットが紙を見ながら言った。
「そのままの一文はありません」
「でも、そうでしょう?」
「そこを確認しています」
また証言が出た。
追跡者へ馬を渡した男。
依頼主までは知らない。
ただ、馬を壊しても構わないほど急がされた一方で、人を殺すための仕事ではないと聞かされていた。
次。
宿所を準備した者。
客は高位の人物。
本人は自由に外へ出さない。
しかし丁重に扱う。
「自由に出さないのに丁重?」
リゼットが聞いた。
「そう証言しています」
「それ、捕虜でしょう」
「本人は『保護』と聞かされていました」
「誰を何から」
「宮廷から」
リゼットは黙った。
「宮廷が危ないってこと?」
「彼らの説明では」
「王子が宮廷にいるのに?」
「だからです」
セドリックは別の資料を取った。
政治関係の監察報告だった。
「第一王子アレクシス殿下の改革に反対している地方諸侯がいます」
「それは知ってる」
王都で生活していても、その程度は耳に入る。
地方の兵を減らす。
軍の指揮系統を王都へ集める。
税の扱いを統一する。
王家から地方への監督を強める。
王宮の仕事とは直接関係しなくても、何年も続けば話くらいは聞く。
「反対してる人が、ルシアン殿下を助けるの?」
「助ける、という言葉を使う側もいます」
「何から」
「アレクシス殿下の改革を進める宮廷から」
「変なの」
「立場が違えば、見え方も変わります」
「でも、ルシアン殿下は第一王子じゃない」
「第二王子です」
「それは知ってる」
リゼットは眉を寄せた。
「兄がいるのに、弟を連れていって何になるの」
セドリックは一枚の覚書を開いた。
これは押収文書ではなかった。
地方政治を監察してきた過去資料。
「アレクシス殿下の政策へ反対する一部諸侯は、第二王子殿下をより穏当な継承候補として見ています」
「候補?」
「代わりの」
リゼットはもう一度聞いた。
「王に?」
「少なくとも、そういう構想を持つ者がいる」
「ルシアン殿下が?」
「本人の考えは今の話にはありません」
「なりたいかどうかも?」
「分かりません」
「勝手ね」
「政治は本人だけで動かないことがあります」
リゼットには、その言い方が嫌だった。
「本人が嫌って言えば終わりでしょう」
セドリックは少しだけ止まった。
「それで必ず終わるかは、今は置きましょう」
「どうして」
「そこまで説明すると、今回確認できた事実を越えます」
また境界を引かれた。
リゼットは不満だったが、資料へ戻った。
「じゃあ、今分かるのは?」
「地方諸侯の一部が、ルシアン殿下を王都から切り離して確保しようとしていた」
「代わりの王にするため」
「少なくとも、代替継承者として利用する構想があった」
「利用」
「表現が嫌ですか」
「本人に聞いてないのに」
「だから利用です」
それなら分かった。
紙をめくる。
地方から流れた金。
武装した護衛。
確保後の宿。
交替用の馬。
傷へ使う品。
個別なら別の意味にもできた。
まとめると、一人の高位者を生きたまま王都から遠ざけ、その後も移動させる準備に見える。
「殺す準備じゃない」
リゼットが言った。
「少なくとも、最初から殺すことだけを目的とした準備とは考えにくい」
「言い方長い」
「正確です」
「追いついた人が勝手に殺すかもしれない」
「その可能性はあります」
「命令に逆らって」
「あります」
「事故で死ぬことも」
セドリックは答えなかった。
それは、もう起きている。
誰が乗っていたにせよ、馬車は転倒した。
目の前の遺体は死んだ。
「追ったことと事故の関係は?」
「これから確認します」
「まだ?」
「命令と、実際の行動は別です」
「殺すなって言われても、危ない追い方をしたら死ぬ」
「そうです」
今度は短かった。
リゼットは彼を見る。
「そこは同意するのね」
「命令に殺意がないことと、結果への責任は別でしょう」
「うん」
その区別なら、リゼットにも分かった。
傷つけるつもりがなかった。
だから傷つけても悪くない。
そんな理屈にはならない。
「もう一つあります」
セドリックが言った。
「まだ?」
「今回、一番重要かもしれません」
「そういう言い方するんだ」
「かもしれない、です」
出されたのは、拘束された周辺協力者二人の供述を照合したまとめだった。
二人は別々に聴取されている。
一人は宿の手配。
一人は人員の連絡。
互いの仕事の詳細までは知らない。
それでも、共通する言葉があった。
「『殿下を戻す』?」
「一人はそう言っています」
「もう一人は?」
「『殿下をこちらへ迎える』」
「違う」
「言葉は」
「意味は?」
「近い」
どちらも、王子の死を前提としていない。
それどころか、到着した後のことを考えている。
「どこへ迎えるの」
「最初の宿所。その先はさらに別の地域へ移す予定だった可能性があります」
「地方へ?」
「準備された馬と人員の配置からは」
「王都へ連れ戻すんじゃないの?」
「追跡側が言う『戻す』は、王都ではないようです」
リゼットはしばらく考えた。
「変な言葉」
「その人にとっての『こちら』がどこか、ということです」
「王子本人にとってじゃない」
「そうですね」
机の端に、伝令断片がある。
殿下。
傷。
引渡し。
それぞれ欠けている。
どの一枚にも、全部は書いていない。
だが、宿所と金と護衛が横に並ぶと、欠けた言葉の向こうが少しだけ狭くなった。
「じゃあ、事故の前に考えてたのは」
リゼットが言った。
「王子を殺して、死んだことにする計画じゃない」
「その証拠はありません」
「むしろ、生かして連れていく」
「そこは、かなり強く言えるようになりました」
「確定?」
セドリックは少し考えた。
「追跡を準備した側には、少なくとも第二王子を生きた状態で確保する意図があった」
「それなら?」
「記録します」
彼は新しい紙を出した。
リゼットは横から覗く。
「殿下を殺すな、って書かないの?」
「その文言が一枚の命令書として存在したわけではありません」
「でも、まとめるならそれが一番早い」
「何をです?」
「今の話」
セドリックはそれ以上聞かず、記録へ戻った。
複数の命令断片。
独立した二名以上の供述。
資金経路。
宿所。
武装護衛。
治療用品。
そこから言える範囲だけを書く。
「地方諸侯のことも?」
「書きます」
「名前は?」
「裏づけが取れている経路だけ」
「全部じゃない?」
「全部である必要はありません」
「またそれ」
「少人数の追跡者だけで準備できる規模ではないことが重要です」
リゼットは部屋を見回した。
三つの机。
その上に散った紙。
これだけ用意しても、一行の完全な命令書にはならない。
むしろ、その方が本物らしく思えた。
誰か一人がすべてを書いて配ったわけではない。
金を出す者。
宿を取る者。
馬を用意する者。
追う者。
本人を何と呼ぶかさえ少し違う。
「面倒な人たち」
「どちらです?」
「全部」
「便利なまとめ方ですね」
「あなたに言われたくない」
セドリックが紙を一枚寄せる。
リゼットも反対側から押さえた。
「そこ、持っていてください」
「これ?」
「はい」
セドリックが資料を束ねる。
「で、次は?」
「実際にどう追ったかです」
「命令どおりだったか」
「そうです」
セドリックは束の表へ日付を書いた。
リゼットは最初の伝令断片を元の位置へ戻した。
次の束が、もう机の端に置かれていた。




