膝の傷
リアは、転ぶ前まで機嫌がよかった。
「見てて」
そう言って、部屋の端から端まで走った。
「見てる」
リゼットは椅子に座ったまま答えた。
「ちゃんと」
「ちゃんと見てる」
「今、こっち見てなかった」
「見てた」
「うそ」
「本当」
五歳児に証明する方法はない。
リアは納得しないまま、もう一度走った。
エミリアは卓上の皿を片づけながら言った。
「家の中で走らないの」
「走ってない」
「今走ってたでしょう」
「ちがう」
「何が違うの」
「はやく歩いてた」
リゼットは少し考えた。
「それは走ってたと思う」
「おばちゃんまで!」
「事実でしょう」
「姉さん、そういうところ」
「何」
「いいから」
エミリアが笑った。
リアは頬を膨らませたまま向きを変えた。
そのとき、床に置かれていた小さな木箱へ足を引っかけた。
音がした。
身体が前へ倒れる。
膝から床へついた。
一瞬、静かになった。
リアが自分の膝を見る。
次に、顔が歪んだ。
「いたい!」
泣いた。
大きかった。
リゼットはすぐ立った。
「見せて」
「やだ!」
「見ないと分からない」
「いたい!」
「だから見せて」
「姉さん」
エミリアが先にリアを抱き上げた。
「はいはい。痛かったね」
「いたい!」
「うん。見た。転んだね」
「ここ!」
リアが自分で膝を指した。
右膝の皮膚が擦れている。
血は多くない。
砂や木片が入り込むような場所でもない。
「洗えば大丈夫」
リゼットが言った。
リアがぴたりと泣き止みかけた。
「洗う?」
「洗う」
「やだ」
「汚れてる」
「やだ!」
また泣いた。
エミリアがリゼットを見る。
「言い方」
「洗わない方が痛くなるかもしれない」
「もっとだめ」
「じゃあ何て言うの」
「今から水できれいにしようね、くらい」
「同じじゃない?」
「五歳には違うの」
リアは二人の会話を聞いていた。
「しない」
「ほら」
「何が」
「姉さんが先に怖がらせるから」
エミリアはリアを抱いたまま洗い場へ連れていく。
リゼットもついていった。
「座れる?」
「やだ」
「立ったままは無理」
「やだ」
「じゃあ抱っこしたまま?」
「それでいいでしょう」
エミリアが椅子へ座り、リアを膝に乗せた。
リゼットは水と清潔な布を用意する。
リアはそれを見ていた。
「いたい?」
「少し」
「どれくらい」
「分からない」
「いたくないって言って」
「それは分からない」
「姉さん」
「嘘はだめでしょう」
「今は正確さを競うところじゃないの」
リゼットは困った。
死者は、これを嫌がらない。
痛いとも言わない。
手を引っ込めたりもしない。
でも今、それを口にする必要はなかった。
「リア」
「なに」
「すぐ終わらせる」
「ほんと?」
「うん」
「ぜったい?」
「できるだけ」
エミリアが天井を見た。
「そこは絶対って言っていいのに」
「終わる時間は分からないでしょう」
「もういい」
リゼットは傷へ水を流した。
「いたい!」
「動かないで」
「いたい!」
「分かった」
「分かってない!」
膝が逃げる。
エミリアが足を押さえた。
「リア、あと少し」
「もういや!」
「もうちょっとだけ」
「いや!」
リゼットは手早く洗った。
傷に残った小さな汚れを確認する。
もう一度だけ水を流す。
リアが泣きながらエミリアの服を掴んだ。
「おしまい」
リゼットが言った。
「ほんと?」
「洗うのは」
「まだあるの?」
「包帯」
「やだ!」
「巻くだけ」
「やだ!」
「何もしないよりいい」
「やだ!」
エミリアが笑いそうになっている。
「何がおかしいの」
「姉さんが全然勝ててないから」
「勝つ必要ある?」
「そういう意味じゃない」
傷の水気を取る。
簡単な保護をする。
その上から細い布を巻いた。
リアは途中で泣くのをやめた。
「これ、いつ取るの」
「今日は取らない」
「明日?」
「傷を見てから」
「走っていい?」
「今はだめ」
「なんで」
「また転ぶから」
「転ばない」
「さっき転んだ」
「もう転ばない」
「それは分からない」
エミリアが吹き出した。
「何」
「姉さん、子ども相手でも本当に同じなのね」
「何が」
「分からないことは分からないって言うところ」
「分からないでしょう」
「まあね」
リアはもう膝を見ていなかった。
エミリアの肩越しに、部屋の隅を見ている。
「ねえ」
「何?」
「人形どこ?」
「さっき床に置いてたでしょう」
「ない」
「あるよ」
「どこ」
「箱の横」
リアはエミリアの膝から降りようとした。
「待って」
「人形!」
「歩いて」
「走らない」
「本当に?」
「はやく歩く」
リゼットが言った。
「それ、さっき走ってた」
「ちがう!」
リアは床へ降りた。
一歩。
二歩。
三歩目から速くなった。
「リア!」
エミリアが呼ぶ。
「走らない!」
「走ってない!」
「走ってる!」
包帯を巻いた右膝のまま、リアは人形へ向かっていく。
エミリアが追いかけた。
「だから走らないの!」
「はやく歩いてるだけ!」
リゼットは使った布をまとめた。
余った水を捨てる。
後ろでは、リアが人形を抱えて笑っていた。
もう泣いていなかった。
「姉さん」
エミリアが振り返る。
「何」
「それ片づけたら、座って」
「まだこれが」
「座って」
「はい」
リゼットは布を置いた。
今度は素直に椅子へ戻った。
リアは包帯の巻かれた膝を床につけないよう、変な格好で人形を座らせていた。
しばらくすると、それも忘れた。




